社会
今どきの愛国主義(下) 勝手に忖度、筆置く愚
新聞記者向けに「今どきの愛国」をテーマに開かれたシンポジウム。登壇した識者らはいら立っていた。在日コリアンの排斥を唱えるヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)をはじめ、社会にじわじわと広がる愛国主義的な動きに、なぜ正面から向き合わないのか、と。批判や抗議を恐れ、忖度(そんたく)し、自ら筆を置く記者たちをこう批判した。「メディアは何におびえているのか」
■空気を読むメディア
北原みのりさん 百田尚樹氏の小説「永遠の0(ゼロ)」が人気だ。靖国神社に足を運び、泣いている人もたくさんいる。感動に飢え、「物語」を必要としている人が大勢いる。そうした人たちのメディアに対する運動がどれだけ奏功しているか。クレームが殺到したことにより、韓流ドラマが打ち切られ、韓国人アーティストがテレビ画面から消えていった。
中島岳志さん 「物語」には大きなものと小さなものがある。日常は、それぞれが家族や会社で役割を演じる物語で成り立っている。ところが役割や出番が曖昧になり、抽象的な物語に飛びつきたくなっている。
安田浩一さん 今、ネットで何が力を持っているのか。力強く、勢いのある言葉だ。「人権を守りましょう」と言っても誰も耳を傾けないが、「人権なんて無視してしまえ」と言えば、客がつく。それを指をくわえて見ていていいのか。以前、日本、中国、韓国、台湾のメディアが集まったシンポジウムで、中・韓のメディアは権力と、台湾は資本と闘っているという話が出た。日本はどうか。弾圧を受けていないのに、書けないし、書かない。社会や空気を勝手に忖度している。その遠慮が紙面に出ている。メディアは何におびえているのか。
中島さん 日本人は良くも悪くも空気を読む。保守の代表的論客、故・山本七平氏は、日本が戦争に突き進んだのも空気を読んだ結果だと、指摘している。水を差すことが重要だとも。メディアが小さなクレームにおびえてどうする。佐村河内守氏のゴーストライター問題では発覚後の対応がひどかった。ある新聞は「誤報を出した」と反省文を掲載したが、恐ろしいのは「取材を進める上でおかしいと思った」とアピールしていること。自ら「おかしいと思っても、空気を読んで私たちは黙ります」と宣言しているに等しい。
■建前で膠着する左翼
北原さん 左翼のデモを聞いていても、「何を言っているの?」という感じ。「日本は謝罪すべきだ」と繰り返しているが、その言葉がなぜ届かないのかを考えないと。謝罪と補償を求める元従軍慰安婦の女性をずるいと非難する人がいるが、なぜずるいと感じているのかを考えなければいけない。
中島さん 都知事選で田母神俊雄氏が60万票を取ったのはショックだった。ある新聞社の出口調査で、同氏に投票した人が投票先を誰と迷ったかを聞いたところ、(共産、社民党推薦の)宇都宮健児氏が最多だった。田母神、宇都宮の両氏に共通するのは本音で語っていること。細川護熙氏と舛添要一氏は建前で話している。
北原さん 田母神氏に一番多く投票したのが40代。私たちの世代だ。恐らく一番寄り添える物語を語っているのだろう。でもなぜなんだ、という思いがある。「正義」を語っている人ほど暴力的で高圧的。本音って何だろう。「人権なんてない」といったことになるのか。
安田さん 攻守が逆転している。攻める側に勢いがある。人権、平和、憲法などを守る側は、どういう言葉を用いていけばいいのか分からずにいる。
中島さん そうはいっても建前は重要。先人からの建前を失ったら社会が崩壊する。その建前で膠着(こうちゃく)しているのが左翼。若者はうさんくさいと思っているが、言葉そのものにではなく、なぜ生き生きと語れないのかということに、だ。
■言葉の暴力に規制を
安田さん ヘイトスピーチに関して、私は3年前、法的規制は必要ないと述べていた。「表現の自由」を規制しては駄目だと。今は違う。一体、表現の自由を奪われ、沈黙を強いられているのは誰か。デモ周辺で取り囲まれ、恐ろしい目に遭っている当事者だ。言葉狩りをしろと言っているわけではない。
北原さん これは暴力であり人権侵害。表現の自由という言葉が軽く使われている。今こそ議論すべき時期だ。
中島さん 私も規制すべきだと思うが、規制してヘイトスピーチがなくなるとも思わない。より陰湿になる可能性もある。国会前の脱原発のデモについてだが、彼らが「非暴力だ」と言っていることに違和感がある。「おい、コラ、野田(佳彦前首相)」「クソ東電、出てこい」と、こういうのは暴力だ。こんなことを言われて話し合おうとは思わない。ガンジーは「怒りこそ暴力」と言った。ヘイトスピーチデモを主導する「在日特権を許さない市民の会」(在特会)のやっていることは醜いが、どこか私たちやこの社会と地続きにあるのではないか。
安田さん ヘイトスピーチについて、メディアは目の前の被害とどう向き合うのか。忖度することは、差別する側に加担することだ。出版社勤めのころ、「片方のコメントだけでは駄目。もう一方も取ってこい」と言われて取ってきた。それである種バランスを取った気になっていた。
中島さん そもそも何かを書くことは、何かを捨てること。客観性なんてものはない。それでも表現する。記者として考えてほしいのは、あらゆる記事は主体的なもの。それを引き受けた上で何を書くのか。それが今、問われている。
◆パネリスト 北原みのりさん(43)=コラムニスト、中島岳志さん(39)=北海道大大学院准教授、安田浩一さん(49)=ジャーナリスト
【記者の目】差別と向き合うとは-整理部デスク・佐藤英仁
できれば敬遠したいネタというのがある。シンポジウムのテーマだった「愛国」もその一つ。イデオロギーも絡んで意見は二分され、どちらの立場によっても批判が飛んでくる。関心はあるのに、だから遠巻きに眺めてしまう。
20年近く記者生活を送り、メディアの習性はわが身にもすっかり染みついている。ネタを取捨選択した段階で主体的に価値判断を下しているのに、客観性や中立性を保とうとする。意見が割れているテーマでは両者の言い分を載せ、バランスを取った気になっている。
そうした記者たちの姿勢に、登壇した識者は怒っていた。批判を恐れ、書く前から忖度するな。世の中で何が起きているのかを伝える役目の者が、目をそらすなと。ズバッと指摘されても不思議と心地よく、一つ一つの言葉が腑(ふ)に落ちた。
断定調に同意している自分。そこで気付く。差別的、極右的発言を繰り返す石原慎太郎、橋下徹といった政治家の「男らしく見える」言動にひかれる人たちと変わらないのではないか、と。
ヘイトスピーチにみられる差別と排斥はつまり、人ごとではない。事件が起きれば、メディアは「○○国籍の男を逮捕」と報じる。属性でひとくくりにする。差別の出発点だ。そうしたレッテル貼りはまた、職場や学校といった生活のさまざまな場面で繰り返されていまいか。
この社会は差別の「芽」を抱えている。そのことを認識しなければならない。
いや、それが建前に響く今、こう言い換えるべきなのだ。
私もきっと胸の奥底に差別を抱えている。だからこの問題に向き合うのはしんどく、しかし、だからこそ目を凝らしていかねばならないのだと思う。
【神奈川新聞】