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北沢かえるの働けば自由になる日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2014-06-20 そこからはじまる

「苦しいのはあの子だけじゃない」の続き

| 「苦しいのはあの子だけじゃない」の続きを含むブックマーク

昨日の記事がえらくブクマされていて、驚いた。

もっとちゃんと書いた日があるのにw 

ブコメを読むと、これはと思った反応&質問がいくつかあったので、追加で書いておく。


  • 「暴力は一切擁護できない」「あの蹴りは殺人未遂のレベルだし、どんな手段使ってでもあの子助けなきゃいけないでしょ」

確かに。今回、地下鉄構内で起きたことは、単なる「暴行」なので。親子に見えようが、目撃した人は、その場で通報し、母親を取り押さえるのが正解だと思う。むしろ、誰も、あんな暴行を見て、警察に連絡していないことが、やはり、まだ「通報の義務」が徹底していないってことなんだろうなと思った。

また、これが高齢者への暴力だったら?

痴漢の手を必死に握って、「警察を」と叫んでいる女性だったら?

サンデル先生の授業のように、いろいろ考えてみたら、自分にとっての優先順位や偏見が見えてきて興味深かった。

映像を見たのは1回限りなのだが、逮捕されてしかるべき状況だと思ったが、これを事件として送検して、起訴するか? そこは難しい。「親から子への虐待」となった場合は、また、扱いが変わってくる、ってのが現状ではないだろうか。


  • 「母親に感情移入し過ぎでは?」「無理に一般化しなくてよさそうなケースに思いました」

あの動画を見た時、自分も同じような怒りは感じたし、同じようなシチュエーションに陥った経験もあったので。周囲の話を聞いていても、ギリギリ、子どもへの暴力として爆発しなかっただけで……という人は少なくないと思うんだが。育児雑誌でも「これって虐待かも」と悩む声はよくあるが。なので、あの母親の行動は、異常なケースとしてよりは、割とありふれたケースとして見えたんだが。

昔は、育児ノイローゼという言葉が普通にあって、それに苦しむ母親から子どもを預かる受け皿は、実は、保育所(保育園)だったんだが……文科省ではなく、厚生省管轄なのは「保育に欠ける子」の福祉を考えて、措置するからなんだけど。まぁ、90年代までの方が、「一時的に子どもから離れた方がいい母親」の存在が認められていた感じがある。福祉施設としての「保育所」に通うことで、ひとり親や貧困家庭など、虐待リスクが高い環境で育つ子も見守られていたんだよなぁとか。そういう話は忘れられているんだけど。


  • 「なにができるの?」「かーちゃんも苦しい、こどもも苦しい。見てるこっちはどうしていいかわからない」

ブクマにあった、オレンジリポン運動のページがわかりやすい。

http://www.orangeribbon.jp/about/child/you.php



もっと詳しく知りたいなら、厚生省作成の「子ども虐待対応の手引き」

http://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/dv12/00.html

子どもの虐待は、なぜ、起きるか。では、どういう援助をすべきか。


この辺は知っておいた方がいい部分。

4.援助に際しての留意事項

(5)家族の構造的問題としての把握

子ども虐待が生じる家族は、保護者の性格、経済、就労、夫婦関係、住居、近隣関係、医療的課題、子どもの特性等々、実に多様な問題が複合、連鎖的に作用し、構造的背景を伴っているという理解が大切である。したがって、単なる一時的な助言や注意、あるいは経過観察だけでは改善が望みにくいということを常に意識しておかなければならない。放置すれば循環的に事態が悪化・膠着化するのが通常であり、積極的介入型の援助を展開していくことが重要との認識が必要である。また、家族全体としての問題やメカニズムの把握の視点と、トータルな家族に対する援助が必要不可欠である。

(6)保護者への援助

虐待への対応において、これまでは、まず子どもの安全の確保、保護を中心とした対応が進められてきた。そのことは当然のこととして、虐待を行った者に対する対応も今後重要となる分野である。援助に際しては、在宅にせよ、親子分離にせよ、子どもと保護者の双方の自己実現への支援という観点も踏まえ、適切な親子関係を基本とする親子の再統合その他の良好な家庭的環境での生活が援助の際の究極の目標であり、その目標に沿った援助を進めることが必要である。

(7)基本としてのカウンセリングマインド

 介入と保護とは一見矛盾するが、保護者も往々にして虐待の被害者であったり、様々な困難に直面している者であることが多いので、できるかぎり保護者の心情や背景を酌み取った面接や対応に心がけるべきである。その意味で保護者のニーズに沿う介入や援助を相手の特性や状況に応じて種々工夫し、相手にとってもメリットのある手立てや納得のいく方法をいろいろな角度から検討・吟味すべきである。しかし、その効果と全体的な虐待の状況、危険性、家族や保護者の特性などを総合的に勘案・評価し、受容的アプローチと介入型アプローチ、行政権限・司法的介入の手法選択を、極力早期に決断すべきである。

今回のケースについて、この手引きに準じて対応を考えると、こんな感じじゃなかろうか。

家庭での虐待は、さまざまな要因がある構造的な問題なので、母親を逮捕して、罰しても終わらない。むしろ、第三者が介入して、子どもへの暴力を止めたところから、援助が本格的にはじまる。介入は、第一に子どもの安全確保を目的とするが、子どもと母親が良好な関係になる解決を目指す。その援助は、保護者の心情を理解して、そのニーズに合った援助を行うようにする。



  • 「暴力は恥ずかしいこと、これを少しでも擁護するのはDVを擁護するのと同じ」

そうだね。暴力は恥ずかしいから、隠される。だから、こうやって噴き出したチャンスをうまく使わなくてはと、最近思っている。巧妙に隠すこともできずに、こうやって世の中に発見された「虐待」については、援助を行うチャンスがあったととらえるべきだと思うんだが。

母親を断罪しても、親子関係は好転しない。同じように、DV夫or妻を断罪しても、家族関係は好転しない。私はそういう立場なので、これ以上の虐待やDVを止めるには、まず、相手の置かれている状況を理解し、物理的にできること(距離を置く、話を聞いてもらう)からはじめるべきだと思っているので。



  • 「あれだけ体格差あって蹴り入れてても、母親に同情が集まるんだよね」

体格差については、こういう想像をしておくといいかも。

100センチの4歳児が、150センチ台の母親から蹴られたとき、子どもが感じる衝撃の強さはどの程度かというとね。

それは「その母親が、2メートル超のセミー・シュルトから蹴られたようなもの」

だってこと。格闘家か否かというのはあるが、そんな大男に蹴られるとしたら、どんだけ怖いか。

だから、蹴ったことについては、弁解のしようがないし、同情はまったくない。

しかし、二度と蹴らないようにするために、できることはあるし、そのためには母親に歩み寄ることがその一歩なんだがなぁ。子ども側からしたら、怒りしかないというのも理解できる。



ここからは、この件で思ったこと。

映画「チョコレートドーナツ」は、まだ、見に行けていないんだけど、ちょっとストーリーを書くと、70年代の米国で、親に置き去りにされたダウン症の男の子をゲイのカップルが保護していたんだが、彼らがゲイであることを問題視されて、児童養護施設へその子を引き渡せとされてしまう……そこから、法廷闘争がはじまるんだけど。

「虐待する親よりは、こういう子どもを愛せるたちに任せた方がいいんじゃないの?」

に問いかけに対して、

やっぱり、「親子関係に勝るものなし」。

というのは、うーーん、どうなんだろう。全国の児童福祉関係に関わる人たちは、悩んでいるところじゃないかな。虐待を発見! 子どもを保護をしました。親は逮捕されました。

合理的に考えると、さあ、問題がある親から引き離したんだから、安全な別の家庭へこの子を送りこんで作業終了。

なんだろうが、そうはならないんだよね、たぶん。

「子どもだけ幸せにしようとするよりは、親も含めて幸せにした方がいい」

という考えが優先されるのはなぜなのかは、調べてみるといいかも。


追記

  • では自分はどうするか?

その場に立たないとわからないが、まずは、割って入ろうと試みるだろうな。子どもの安全を第一に考えるなら、母親を抑えるよりは、子どもとの間に入って距離とらせる方が、私にはやりやすいから。

プラス、非難ではなく、共感から、介入したことを示すかな。繰り返しになるんだけど。

「辛いのはわかるから」

って感じで。

それでおさまって話が通じるなら、そこが糸口になるんじゃないかなぁ。