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<沖縄戦>「今の命、虫のおかげ」 おばぁの飢餓体験伝える

毎日新聞 6月22日(日)13時23分配信

 京都府京田辺市の玉城(たまき)裕美子さん(45)は、沖縄県読谷村(よみたんそん)の村史編さんに携わり、沖縄戦などの証言収集を続けている。数々の証言から浮かび上がるのは、戦火を逃れ、山中に避難した住民を襲った「飢え」の恐ろしさだった。多くが息絶え、生存者はカタツムリや虫を食べてしのいだ。「『命をつないでくれた』と今も自然への感謝を忘れないおばぁたちの思いや、戦争のおろかさを伝えたい」。23日の「沖縄慰霊の日」に京田辺市の小学校で子供たちに語る。【高尾具成】

【写真】疲れきった表情で移動する住民=1945年6月20日撮影

 玉城さんの祖母は戦前、沖縄から本土に渡った。玉城さんは京都府生まれの「沖縄3世」で、沖縄にルーツのある男性と結婚。1995年春から夫の実家がある沖縄本島南部で暮らし始めた。

 95年7月、読谷村の村史編集室嘱託職員に採用され、同村に転居。以後12年間、戦争体験者の証言に耳を傾けた。難解だったウチナーグチ(沖縄方言)の単語帳を自作し、記録を続けた。

 読谷村の資料などによると、米軍が沖縄本島へ上陸した45年4月以前から中・南部の高齢者や子供ら推定約3万人が北部のヤンバル(山林地帯)へと逃げ始めた。疎開した同村民5429人のうち657人が死亡。その7割以上が栄養失調や病気が原因だった。「ヤンバルでの飢餓は(旧日本軍の組織的な戦闘が終結したとされる)6月23日以降も続いた」と玉城さんは言う。

 家族らと山中に避難した看護師の女性は飢餓体験を語った。「誰かの畑の芋を無断で掘った。『命をつなぐためなんです』と畑の神様に手を合わせた」。カタツムリを炊いて口にし、木の葉を食べて下痢が続いた。山を下り、米兵に連れて行かれた収容所でも悲惨さは変わらなかった。「子供たちは栄養失調で、皮膚に黒い斑点ができ、肉が腐っていた。(食べ物を)かむ力もなくおなかがふくれ上がり、ばたばたと亡くなった」

 「抱いたまま息絶えた子に子守歌を歌い続けた」と語ったおばぁは体験のつらさから村史への記録を拒んだ。別のおばぁと一緒に避難経路をたどった際には「ヤギが食べる草が私たちも食べられる草の基準だった」と聞いた。

 夫の転勤で京田辺市に転居した今も、村史編集室調査員として関西に住む沖縄の人たちの証言を集める。「爆撃を免れたのに、なぜ飢餓で亡くならなければならなかったか。沖縄戦の壮絶さは避難民の体験証言の中にもある」と語る。2007年に証言を題材にした絵本を出版したほか、学校などで子供たちに証言内容を伝えている。

 あるおばぁの言葉が忘れられない。庭いじりをしながら「虫を殺すことはしないの」と植物に付いた虫を手のひらに乗せた。「虫のおかげで命をつないだわけさぁ」

 「戦争で怖いことって何だと思う?」。23日は沖縄の楽器「三線(さんしん)」や歌も交え、児童らにこう語りかけるつもりだ。

最終更新:6月22日(日)17時32分

毎日新聞

 

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