お か し み 三要素の3
川柳とはユーモアの文芸であるということが誤解されて、何でもおもしろおかしいことを言えばいいと考
える向きがありますが、川柳の笑いは結果であって、目的ではありません。無理やりに卑俗な事柄や言
葉で笑わせようとしても、シラけるだけで、低次元のコトバ遊びもこれに類します。真実をしっかりとらえ
れば、人間それ自体が結構おかしい存在なのです。川柳には、じわりと湧いてくる笑い、自然のユーモ
アが望ましいので、くすぐりやジョーク、語呂合わせなどは川柳の「おかしみ」とは本来別なものなので
すが、まだまだそれらが多いのが目立ちます。
入院の部長を見舞うあみだくじ
だれもが自分に当たらないようにと、あみだくじの結果を見つめる、その真剣な表情までが想像され
て、自然の笑いを誘うのです。言外に部長の人柄までがほうふつとしてくるのも、この句のおもしろさで
す。
単身赴任電話の声が明る過ぎ
赴任先からの電話が落ち込んでいるどころか、明るく弾んでいるとなると、留守宅の妻は逆におだや
かならぬ心境になるという機微をとらえて、ゆっくりとしたおかしみが伝わってくるでしょう。
か る み 三要素の2
「軽み」というのは、内容より形式にかかわる言い方で、さりげなくサラリと言ってのけた句体から、深
い奥行きや広がりを感じさせることです。ゴタゴタと並べ立てて、何もかも言おうとすると、句体が重くな
るばかりか、内容的なふくらみもなくなります。
それには、句調のなめらかさやリズムが関係してきますが、応募句には形式にとらわれない良さの反
面、無駄な字余りや言い過ぎが目につくのも事実で、「軽み」の点ではなお工夫が必要と思われます。
構成は作句の最終関門で、ここで初めてテクニックが要求されます。
「うがち」や「おかしみ」の例句に挙げた作品が成功している理由も、それぞれの表現に無駄がなく、
すっきりと仕上がっているからです。どんなにいい発想でも、一句のすがたがギクシャクしていたので
は、心に残るような浸透性のある作品は期待できません。
もう一句、挙げておきましょう。
石の上三年経てば次の石
くどくどと言わなくても、これ以上何も補うことはありません。「石の上にも三年」を下敷きにして、今の
石と次の石を上下に配置しただけで、形こそ軽いが、サラリーマン生活の悲哀を彫り上げています。
う が ち 三要素の1
「うがち」というのは動詞では「穿つ」で、本来は『穴』を開けることです。表面からは見えにくいものや、
人が見落としているような事柄に目を向けて、それを明るみに取り出して見せたり(暴露)、常識的な仮
面を剥ぎ取る(価値の引き下げ)など、すこし意地の悪い視線ですが、このものの見方が「笑い」を誘う
のは、それが風刺や批評につながるからです。「世間のアナを言う」とか「ウガったことを言う」というのが
それで、特に短いフレーズで急所をはずさないのが、川柳の特性です。
「サラ川」の中から例句を挙げてみましょう。
無礼講課長は薄目あけている
この行き届いた観察、シンラツな人物描写、うがちとは一種のリアリズムでもあり、読者の中に同じ風景を再現させます。
賞与の日廻らぬすしを食べてみる
賞与の日ぐらいはちょっぴりゼイタクをしてみようという「廻らぬすし」が、回転ずしの侘しさを喚起させ、
屈折した笑いを引き出します。
個別に川柳の三要素を見てきましたが、これは、伝習的川柳(とくに古川柳)の特性を、うがち・おかし
み・軽みとしたもので、「うがちの句」や「軽みの句」が単独に存在すると考えるのは少し間違っていま
す。
ものの見方としてのうがち、躰としての軽み、結果として引出されるおかしみは、三つにして一つのもの
であり、良質の古川柳を支える条件となっています。
川柳入門書の中には、川柳の文芸上の規範として記していますが、これは間違った捉え方です。
三要素の原形は、阪井久良伎により明治三六年の「川柳梗概」により提唱され、翌年の『川柳久良岐
点』によって明確にされました。
この三要素を作句の指針にしている説明も見受けられるが、これらは、あくまでも作品の結果であり
、目的ではありません。この三つは図1のような平面における集合の要素でなく、うがちをベースに軽み
という技術が加わり、おかしみを生むという図2のような立体構造をとっています。この概念の誤解は、三
要素を語るときの大きな問題です。
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