今日は雑談です。
少し自分のことについて書きます。
先日、弁護士の友人に、私が正直に未修入学者であることなどの事実を書いているにもかかわらず、未だに私の属性を知りたがる人が後を絶たないということをボヤいたところ、
その友人曰く、
「その気持ちも分かる気がする」
「きっとみんな、そんなわけないだろ、って思ってるんですよ」
ということでした。
つまり、私の方法論は、未修ロー生の常識的レベルを遥かに超えており、経歴自体に嘘があると考えなければ、普通の受験生は納得できないものだということです。よって、「お前はいったい何者なんだ」という疑問が生じるのも無理はない、とのことでした。
まあ、そう言われれば、たしかに私は少し(というか、だいぶ)アブノーマルなんでしょう。私のことを直接知っている友人たちは、そういう私の特性を時間をかけて理解してくれたので、中には合格間近の段階になっても、初学者レベルの私にアドバイスを求めてくる人もいました。私のほうも、何の疑問もなく、自分より数段上の実力者に「指導」を与えていました。
ちなみに、私自身の経験から、これは試験勉強のみならず人間存在の真実だとさえ思っていますが、(属性よりも内容を重んじて)自分より遥かに格下の人間に平気でアドバイスを求められるような人は、受験生云々以前に、人間として極めて優秀です。司法試験でいえば、そういう人は100%合格します。
もちろん、人の属性が気になって仕方がない人でも、確率的には合格しますので安心してください(ここが2000人も受かる試験の甘いところです)。
え~と、なんの話でしたっけ・・・あぁ、私がアブノーマルだという話でした。
とにかく、そのことは自分でも自覚しています。
以前、コメント欄に、「もの凄く勉強されているのは確かだと思う」みたいなことを書かれたことがあり、こういうコメントを読むと、自分が買い被られているという気恥ずかしさとともに、根本的なところから自分が誤解されているということを痛切に感じます。
正直いうと、ブログを使って「自分語り」みたいなことをするのは趣味ではないのですが、誤解されたままというのも何だか気持ちが悪いですし、それ以上に皆さんにも申し訳ないので、私がどんな風にアブノーマルなのかということを少しだけお話しさせていただきます。
その前に、「経験」と「発言権」は有因か無因か
というエントリーをご覧いただけると幸いです。ここでの私の見解に賛同できないという方がこのブログを読むことは完全に時間の無駄です。なにせ、受かっていない人間が書いてるんですから。
それにしても、ここまで親切に申し上げても、やっぱり気になって読んでしまう人がいるんですよね。なんでなんでしょう? 私自身は気に入らないブログを読むことはまずあり得ないので、そういう人の精神構造はよく理解できませんが、まあ、やっぱり自分に自信がなくて不安なんでしょうね・・・。
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私は大学卒業後、アメリカ留学をしていて時機を逸したということもあって、就職活動はせずに、父親の経営する会社に籍を置きました。仕事は主に事務関係が中心でした。簿記の資格を取って会計をやったりもしました。年齢にそぐわない高いお給料をもらい、休みもたくさんあって、私は趣味に遊びに精を出していました。言われなくても、相当に恵まれた環境にいたと自覚しています。
ただ、当初から、いつかは独立して何か自由にできる仕事がしたいなぁという希望がありました。それで司法試験の勉強を始めることにしたわけです。もう10年近く前のことです。
伊藤塾の呉先生の基礎マスターを、まずは憲民刑だけとりました。同時に伝手を頼って、既卒者メインで構成されたゼミ(勉強会)に参加しました。
この勉強会、一人だけダブってる東大生を除けば全員が既卒者で、塾講をやっている人から専業受験生まで身分は様々でしたが、総じて優秀な人が多く、今までに6~7割くらいは合格したかなと思います。
ここで私のアブノーマルな部分に火が付きます。
生来の凝り性である私は、司法試験についても、誰よりも貪欲に情報の摂取を始めました。私よりも何倍も司法試験に詳しい人たちがたくさんいることが、私の情報への食欲に拍車をかけました。試験情報・教材情報・予備校情報・勉強方法etc…、このような情報について、私が玄人レベルに到達するのに、1年くらいしかかからなかったと思います。
このブログにアップしている教材情報なんて、1年もあれば(少なくとも私には)摂取できるレベルのものです。別に中身をほとんど読んでいなくても、この程度の内容なら書ける人はたくさんいるでしょう。
私にはどうやら「適当にあてずっぽうで物事を言い当ててしまう」という特殊能力があるようです(そのように友人に指摘されました)。私は、特定の書籍・教材をざっと5分も眺めれば、その本の書評ができてしまいます(もちろんたまに完全に当てが外れたことを言うこともあります)。今までの読書経験がそういうことを可能にしているのかもしれません。
そうやって、気がつくと私は、ゼミ内でも2番目くらいの「司法試験の玄人」になっていました。
もっとも、そのこと自体は、私にとってはいつものことでした。私は他人よりも些か凝り性な性格で、何か特定の分野に興味を持つと、とにもかくにも情報を摂取し、関連分野の書籍を漁りまくるという行動に出るのが常でした。別に司法試験だけに詳しいわけではなく、一言でいえば「そういう奴」なだけなのです。
・・・と、ここまでは(今にして思えば)まだまだ普通です。
司法試験受験界には、こういった「司法試験オタク」みたいな受験生は数多くいます。
【勉強法オタクは受かりにくいか?】
司法試験や他の試験で「勉強法オタクは受かりにくい」と言われることがよくあります。
その考え方は、大雑把にいえば次の2つに分類できると思われます。
【1】勉強法無効説
まず一つ目は、勉強法など所詮は無力なものだという考え方です。この説の支持者は、勉強法に労力を注ぐことにはほとんど意味がない、と主張します。彼らは、昔ながらの努力至上主義的な考え方をとても大事にしています。本ブログで何度も強調している①方法と②努力でいえば、試験の本質はもっぱら努力(②)にある、というのです。皆さんの周りにも、口を開けば「しょせん勉強は努力だよ」と触れ回っている受験生はうんざりするほどたくさんいるはずです。
勉強法無効説の支持者は、さらに次の2種類に分けられます。(1)第一類型は、人生のどこかで「努力至上主義」によって成功体験を得たことがある人です。難関私大の出身者に多いタイプです。たった一度の成功体験が、その人のその後の人生における選択の柔軟性を失わせてしまうということは、試験に限らずよくあることです。(2)第二類型は、一度勉強法で痛い目をみた(と少なくとも当人は自覚している)人です。この第二類型の人は、「自分も勉強法については散々考えてきたし実践もしてきたけれど、結局何の効果もなかったよ」と自身の経験則を持ち出すことが多いです。
【2】勉強法有害説
もう一つは、勉強法について考えすぎると努力をしなくなり、その結果、試験に受かりにくくなる、という考え方です。つまり、①方法と②努力とを分離・独立したもの(無因関係)と考えるのではなく、両者を有因関係と捉え、しかも、①から②への悪影響が存在すると考えるのです。
勉強法有害説の支持者にも2種類の人がいます。(1)第一類型は、勉強法無効説を前提に、さらに勉強法の有害性を強調する人です。勉強法は無効であるばかりか有害でもある、ということです。要するに無効説のパワーアップバージョンです。(2)第二類型は、無効説とは違い、勉強法に一定の意義(有効性)は認めながらも、「勉強法に拘ると肝心の勉強をしなくなるからダメだ」と警告する人です。試験対策のプロを自認しながらも、同時に勉強法オタクから自身が批評の対象にされることを苦々しく思っている予備校講師にこのタイプが多いです。特に司法試験の講師は、そのほとんどが努力中心の方法(?)で合格した、方法論的には素人同然の人たちです。それゆえ、受験生の方法論的観点からの批判・疑問に対して、有効な助言ができる人がほとんどいません。彼らが勉強法の有効性を(その有効性を認めつつも)限定的に解釈しようとすることも、勉強法オタクを嫌悪することも、彼らが方法論のアマチュアであることを前提に考えれば、すべて納得がいきます。
いろいろ細かく書きましたが、私は、これら【1】【2】のいずれの考え方も間違っていると思います。
まず第一に、私自身の経験に基づいていうと、どの受験界にもいる「勉強法オタク」を自認する、あるいは周りの受験生から「勉強法オタク」と呼ばれている人たちのほとんどは、実際には、とてもじゃないですが勉強法を突き詰めて考えているなんて到底言えないレベルの人たちだからです。人によっては自分の頭など生まれてこの方一度も使ったことがないのではないかとさえ思えるような人もたくさんいました。
もちろん、当のご本人はその程度でも主観的にはもの凄く考え抜いてきたつもりのようですし、じっさい話を聞くまでは結構自信満々なご様子だったりもするのですけれど、いざ目の前に引き摺り出して・・・じゃなかったお呼び立てして(←こういうことをするから嫌われる)その拘りのご説をとくと拝聴してみると、これがもう聞くに堪えないほど幼稚なものなんです。こちらがちょっと突いただけで、その人の考え方そのものに一貫性がないということが、ものの3分も経たずに、その人自身も認めざるを得ない形で判明しちゃうわけです。我々としては、こんな低次元で陳腐な「自分の考え」を、この人はよくブログや掲示板で堂々と吐き出してたなぁ…と逆に感心してしまうくらいです(このブログを読んで憤っているあなたも、実際に目の前に出てくればもちろん3分もちません。可哀そうですがそれが現実なんです・・)。
最後はお決まりのパターンで、こういう人たちの決め台詞・・・じゃなかった捨て台詞は、「とにかくもう、やるって決めたんだからやるんです」「やりたいからやるんです。理屈じゃないんです!」といった、なるほどほんとに理屈にもなんにもなっていない玉砕方針が一方的に通告されて終戦(←敗戦ですけど・・)と相成るのです。ただ私も意地が悪いので時々、「でも、正しいこととやりたいことの、どちらをやるのが“正しい”と思いますか?」なんて聞いてみちゃったりするのですけれど、そういうときに返ってくる答えもだいたいは決まっていて、「NOAさんってほんと議論には(←この「には」がポイント)強いよね。そういう人は弁護士に向いてると思うよ」と強引に話を逸らされるか、そうでなければ、「言葉で正しいことが本当に正しいとは限らないじゃないか!」なんていう言葉の機能も論理への信頼も学問の正統性も根こそぎ全部否定した自爆テロみたいな居直りで終わるかのどちらかなんです。こういうとき私は、毎回のように、あぁ、この人はこんなに完成度の低い「自分の考え」を、こんなにも大事に胸の中で温め続けてきたんだなぁ。踏み込んじゃいけない領域に踏み込んじゃったなぁ。悪かったなぁ…と反省すると同時に、やっぱり自分はこんな人間にだけはなりたくないないなぁ…と(申し訳ないけれど)思ってしまうのです。
ようするに、世の「勉強法オタク」さんたちは、そのほとんどが本当の意味で勉強法なんか極めていない「なんちゃって勉強法オタク」なのです。ただ、彼らは勉強法をいちおう追及(一種の努力)はしています。それゆえ、受からなかった場合にその存在が「目立つ」というだけなのです。特に日本人は、おそらくはその異常なまでの嫉妬心の強さから、「経験していない者には発言権を付与するな」と叫ぶ偏狭な人たちが多数を占める民族です。その民族性が、合格法を語る「ビッグマウス許すまじ」と青筋立ててヘイトスピーチを繰り広げているというだけのことです。
一方で、あくまでも私の周りの数十人の受験生に限っていえば、本当にきちんと自分の頭を使って自らの勉強法を極めた本物の司法試験オタク(=自身の勉強法を極めた人)が、「それでも受かりませんでした」なんて例を、私自身は(今のところ)ただの一例も見たことがありません。本物の勉強法オタクは、私が知る限り、誰ひとり落ちていません。
ちなみに、ここで私が「本物」と呼んだのは、たとえそれが勉強法理論としてみた場合には大した水準に到達していないのだとしても、その人なりに自らの勉強法を考え抜き、鍛え抜いてきた形跡がみられる考え方のことです。一言でいうと、その人なりの「揺るぎない一貫した筋」のようなものが(もちろん目的との関係で)はっきりと確認できる考え方のことです。もちろん、このような考え方に時間をかけずに到達した受験生(合格者)もいますし、まさに「勉強法オタク」と呼ばざるを得ないほどに時間をかけた受験生(合格者)もいます。いずれにしても重要なのは、試験の合否と関係しているのは、勉強法に費やした「時間」ではなくその「水準」のほうである、ということです。
以上から、勉強法をきちんと考えることが合格に役に立たない、あるいは合格の妨げになるなんていう話は、少なくとも私には全く信じられないのです。
そもそも、「勉強法オタクは受かりにくい」という最初の物言い自体に、強い疑問があります。
だって、司法試験をはじめとする難度の高い試験では、そもそも普通の受験生だって普通にちゃんと受かりにくいわけです。そんな中で、「勉強法オタク」が「普通の受験生」に比して特に受かりにくいなんて証拠でもあるのでしょうか。おそらくは主観的な経験則から「そんな気がする」というだけで、はっきりとした証拠など提示できるはずがありません。難度の高い試験では、「勉強法オタク」も「普通の受験生」も、どちらも平等に、そしてどちらも十分に受かりにくいはずなのです。
先ほども述べたように、「勉強法オタク」といっても、その大部分は本人が勝手にそう思い込んでいるだけの「なんちゃって勉強法オタク」に過ぎません。①方法と②努力でいえば、そもそも①の水準が普通の受験生と何ら変わらない人たちばかりなのです。そういう普通の勉強法オタクの「受かりにくさ」が、普通のなんでもない受験生の「受かりにくさ」と同等なのはむしろ当然であり、何の不思議もない話です(翻って、易しい試験では、今度は逆に皆が受かりやすくなるわけですし、そもそも易しい試験に「勉強法オタク」はいませんから、この論点は問題にすらなりません)。ただ、先ほども述べたように、勉強法オタクは受験生から合否の検証対象として意識されやすい(ようするに目立つ)存在です。それゆえ、勉強法オタクが不合格になってしまった場合、常日頃から勉強法オタクや勉強法そのものに敵愾心・嫉妬心を抱いている人間たちから「ここぞ」とばかりに集中的に吊し上げられるというだけなのです。
結局、この「勉強法オタクは受かりにくい」という言葉の内実は、「勉強法を語るビッグマウスたちが何としてでも受かりにくい存在であって欲しい」と願う嫉妬深き子羊たちの切なる想いが紡ぎ出した根拠薄弱な物語にすぎないのです。
もう一度繰り返しますが、試験に受かるために必要なのは、
①方法 と ②努力
この2つだけです。
②は「本気で受かる気があるか」「本当に受かりたいと思っているか」と言い換えても構いません。
いずれにしても、この2つの組み合わせ(だけ)で結果はすべて決まります。
①②を揃えることができれば、誰でも100%合格します。
①が欠ければ、確率的にしか受かりません。
②が欠ければ、絶対に受かりません。
↑これが今も昔もこれからも変わらない、極めてシンプルな試験の真実です。
勉強法を追求することは、(あくまでもその追及の仕方が正しければ)その受験生の合格の要件のうち、①を確実なものにします。これだけをみても、勉強法の追求が無駄ではないことが分かります。
もちろん、①だけで合格できるわけではありません。①を揃えても、その受験生に本気で受かる気がなければ、その受験生は合格できません。これも当然のことです。しかし、そのことが、①の有用性を否定する根拠になるわけではありません。
このように話はいたって単純なのです。これ以上に話を複雑にする必要を、私は全く感じません。
話を戻します。
ともあれ、当時の私は、そういった司法試験オタクの頂点の一角を占める程度の存在だったろうと思います。
ところが、ここから先に、私がもはや「普通の受験生」あるいは「普通の勉強法オタク」に戻れなくなってしまった最大の要因があります。その要因というのは、これは本当に偶然でしたが、同じゼミのメンバーの中に、ひとり「本物」がいたことです。私のように、色々なことに興味があって、たまたま司法試験にも興味を持った人間とは違う、正真正銘の試験オタク、否、「試験の権化」みたいな人がいたのです。
彼の方法論は、当時私がスゴイと思っていたI先生やS先生などの方法論をはるかに凌駕するもので、論理的な面で徹底されていながら、しかし極めて単純明快なものでした。
私がこのブログで連日偉そうに「過去問だ」とか「条文だ」とか、まるで自分が考えてきたことのように語っていますが(汗・・)、これらは全部、彼の方法論をそのままオウム返しにしているだけです。まあ、もの凄く自分に贔屓目にいえば、私が上記の方法論を理論化・構造化した面もたしかにあるにはあります。しかし、私がやったのはせいぜい発明の商品化のレベルです。発明それ自体に私は関与していません。
「御三家→東大」のようなルートを歩んでいる人の中には、このような試験の権化みたいな人種が、常に現れては消えているのだろうと想像します。
ともあれ、彼の存在は、生来の病的な凝り性を持つ私にとって、またとない触媒となりました。もう、ほとんど格好の餌食です。待ってましたと言わんばかりです。
私は、単なる司法試験オタク、つまり教材情報や予備校情報を豊富に知っているというだけの存在から、司法試験をはるかに超えて、ついには試験全般の普遍的な法則を探求していくまでに至りました。試験に役立つ知識や方法を増やすなんてレベルには飽き足らず、試験勉強全体の論理化・体系化を志向するレベルまで研究は続けられました。
読んだ勉強法にかんする書籍の数は250冊以上になります(お願いだから引かないで・・)。ちゃんと数えていないので、ひょっとすれば300冊に届いているかもしれません。
同時に、広く試験勉強一般から司法試験に至るまで、勉強法のアイデアをメモした「勉強法ノート」を作っていたのですが、この勉強法ノートは丸々4冊になりました(文字びっしりです)。
ここまではまだそういう人もいるかもしれないとも思うのですが(いや、さすがにもういないかも・・)、一番大きかったのは、件の「試験の権化」との、何十回にもわたる試験談義の繰り返しでした。その頃は暇だったので、夕方頃にジョナサンに入って、気がついたら朝まで試験勉強の話をしていた、なんてこともしばしばありました。討議に費やした時間は、トータルで数百時間に及びます。
こうして、いつの間にか私もまた、「ほとんど試験の権化」みたいな受験生になってしまったのです(3年くらい前には、すでに現在の水準に到達していました)。
ここで申し上げたいのは、(私が些か以上に「やりすぎた」ことはとりあえず置いておくとして)私が司法試験および試験全般の方法論について、ある意味揺るぎない自信を持って語っているのは、そのことについて自分が相応の努力をしてきた確信があるからに他ならない、ということです。
世の多くの(司法試験オタクを含む)受験生たちがやっている、「ねえねえ、私の司法試験観を聞いて」「私って、司法試験って○○だと思うの」といった、その場の勢いに任せたアイデンティティの発露をしているわけではありません。
私としては、単純に、やったことを、やった分だけ、正確に語っている。ただそれだけなのです(あと、もう不要になったのでここに排泄しているのです)。
しつこいですが、そのことを認めない、という人がいても、もちろんそれはそれでいいんです。そういう人は、どうか不安がらずに自らの進むべき道を勇気を持って進んでください。まあ、たぶんその先は崖でしょうけど・・。
私は常日頃から、試験合格に必要なのは、
①目的への正しい方向
②目的までの距離を埋める必要最小限の努力
この2つだけだと言ってきました。
そして、これまで述べてきたように、私の①は、もはや怖ろしいほどに完璧です。①の領域において、私はもうずいぶん前から受験生でも受験オタクでもなくなってしまっています。私は、別に片意地を張る必要もなく、勉強法においては既にプロの受験評論家レベルです。しかも、その中でもまずまず優秀な部類に属していると(冷静かつ客観的に考えて)思っています。さすがに和田秀樹と対等な勝負ができるなどと思い上がってはいませんが、勉強法の領域においては、不勉強極まりない司法試験業界の講師のほとんどにダブルスコアで圧勝しているはずです。
ここで私がやった①を「やりすぎ」と評価することは簡単です。そう言いたい人は多いでしょう。しかし、本当にそう言えるためには、司法試験講師たちが正しい水準で①を教えられていること、および、私の①が、そのラインをいたずらに超えてしまっていること、この2つの条件が必要です。
ところが、今までこのブログでも散々述べてきたように、この業界の講師のほとんどは、法律の内容を分かりやすく教えることしか能のない、いわば車の片輪が破損したような人ばかりです。本当は、いやしくもプロの指導者を名乗るのであれば、①だって一定程度はきちんと努力をして、他人に説くに値するだけの確固とした方法論を身に付けていなければならないはずです。しかるに、この業界の講師たちは、①に限っていえば、まるで白痴のごとく何も考えていません。彼らは、①についてはただの怠け者でしかありません。
私が尊敬するG先生も、①については、間違いなく私の数十分の一以下しか考えていないはずです。この程度の努力で人に方法を説くのは、本当をいえば越権行為以外の何者でもありません。さしずめ、②を十分にこなしていない私が、偉そうに予備校の入門講座を担当するようなものです。
少なくとも指導者になろうと思ったら、私と同程度に①をやることは、「やりすぎ」でも何でもありません。真の意味でプロと呼びうる受験指導者ならば、皆この程度はやっています(一方で、単なる合格者になるのでいいのなら、私と同程度に①をやるのはもちろん「やりすぎ」です。そういう人にはこのブログを熟読してもらえれば十分です。それであなたの①は全部おわりです)。
ともあれ、こうして私は、①だけが先に合格レベル・・・じゃなかったプロレベルになってしまいました。もはや、私の①は完璧です。・・・いや、本当をいえば、まだまだ探求の余地はありますが、相対的には、もはやこれ以上①に向き合い続けるのは、さすがに逃避以外の何ものでもない、というところにまで来てしまいました。
ここで、私の課題は、②を残すだけとなったわけです。
3年くらい前、方法論の探求がいい加減に飽和を迎えてしまったことが認識されるにしたがって、私は今まで目を逸らしてきた②に、いよいよ自分が向き合わなければならないことを覚悟しました。
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最も大きな転機は、方法論が飽和したということもありますが、何よりたくさんいた受験仲間たちが、合格したり、司法試験を諦めたり、別の道に進んだり、ローに進んだりと、皆それぞれの道に進み終わった、ということがあります。
逆にいうと、私は皆がそれぞれの道に進み終わるまでは、このモラトリアムを満喫していてもよいのだ、という正当化を無意識にしていたのだと思います。
ともあれ、「取り残された感」満点になった私は、自分が本気で司法試験に受かる気があるのかどうかを、いよいよ自分自身で確認しなければならない段階になったと悟りました。
私は生来の怠け者でしたし、負けず嫌いでもなかったので、友人たちが先に合格していく姿には、特に焦りは感じませんでした。しかし、自分の年齢が大台に差し掛かろうとするいま、ここで最後の決断をしなくてはならないという別の意味での焦りは、はっきり生じていました。
みんな、それぞれの道へ進んだ。いい加減、なんとかしなければ・・・。
桜蔭の女の子 でも書きましたが、それまで勉強という勉強をほとんどしてこなかった私は、ここで人生最大の苦難に突き当たります。
情報・方法から入るのを常套にしていた私は、まずはここでも書籍の力を借りました。「やる気がでる○○」みたいな本を何十冊も読み、心理学や行動経済学のテキストも参照し、自分が、東大に合格する人や司法試験に受かる人のように努力をすることが何故できないのか、その理屈を学びました。
そうやって、できる人・できない人の「理屈」は学んだのですが、そこで次第に分かってきたことは、「できる人がなぜできるか」「自分がなぜできないか」という理屈をいくら学んでも、それで自分がやれるようには全くならない、ということです。
巷には、「こうすればあなたもできるようになる」みたいな自己啓発系の本が何冊もでていますが、頑強な正真正銘の怠け者である私には、中谷彰宏も苫米地英人も全然効きませんでした。行動経済学を駆使して「自分がなぜできないか」をどれだけ深く理解しても、何冊もの「やる気本」から「こうすればいい」という処方箋をいくら学んでも、それで自分が「できるようになる」なんて奇跡は全く起きませんでした。
頭で考える、本を読むだけではなく、友人にも相談しながら数々の実践も試しましたが、それらもすべて上手くいきませんでした。
このときの私がどれだけ焦っていたかは、文章からはあまり伝わらないかもしれません。しかし、私だって相応の希望と覚悟をもって入ってきた司法試験受験界です。このまま何もできず不戦敗で司法試験を去らなければならないというのは、筋金入りの怠け者を自認する私にとってさえ、想像するだけでも恐怖なことでした。
いよいよ追いつめられた私は、最後のカードを切るつもりで、2008年のリーマンショックに乗じて儲けた株の売却益300万円を使って、予備校がすぐ傍にある都内のマンションの最上階の一室を借りました。そして、その部屋を、TVもPCも置かない、さしずめ牢獄のごとき禁欲部屋にしたのです。それから数か月、その部屋にひたすら籠るという荒行に出ました。
もちろん、ほとんど実家には帰らず、ケータイのアドレスも変えて無用なメールを断ち切りました。近くには予備校がありますから、そこから自習室にも通いました。もうほんとにこれが最後だと思って、TV、PC等々・・普段の自堕落な生活環境を完全排除して、苦しむだけ苦しみました・・・。
そして、その結果は・・・・・・・・・・・ ただ苦しんだだけに終わりました。
半年以上、マンション住まいを続けましたが、そこから唯一学んだことは、
人間は変わらない生き物だ
ということです。(それはそれで貴重な経験でした)
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こうして、私の手持ちのカードは全てなくなりました。
もう少し、あともう少しなのに、どうしてできないんだろう。
こんなに苦しんだのに、友人たちにできたことが、なぜ私にはできないんだろう。
もう、自分の側から出せるものは何もなくなっていました。
試せる方法は全て試しましたし、もう何より苦しむことに疲れていました。
そんなときです。
- 勝手にふるえてろ (文春文庫)/文藝春秋
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刊行されて間もない、綿矢りさ『勝手にふるえてろ』を読んでいました。
このお話というのは、簡単にいうと、①と②の二人の男性のうち、長く想いを寄せていた①ではなく、想いを「寄せられていた」②のほうを主人公が選ぶというストーリーです。
この小説の一般的な解釈は差し当たりどうでもいいです。ただ、そのときの憔悴し切っていた私には、この物語が↓こう訴えかけているように聞こえました。
「自分」を基準にして、「自分」の好き嫌い、「自分」の価値判断etc…こういった「自分」から発するものを譲らないままでいる限り、その人の世界が「自分」という枠の外に広がることは永遠にない。その人の世界は、「自分」という枠の中に永遠に自閉し続ける。
それは、自分の好きなものを自分が選択しているという意味では「自由」な生き方だともいえるけれど、「自分」の中からしか選択できないという意味では、可能性の消滅した世界だともいえるのではないか。
自分にとって都合のよいもの・心地よいもの・想像可能なものだけを選択するということが、果たして自由と呼べるだろうか。それは究極の「不自由」そのものではないか。
自分の「可能性」は、自分の「外」にしかないのではないか。
それこそが「自由」になるということではないか。
・・・そのとき、私はふと、それまでの考え方から自由になりました。
私の考えには、実は「こうでなくてはならない」という所与の「枠」があったのです。その枠を無視して考えれば、私にも勉強せざるを得なくなる状況があり得る、そういう強制力をもたらす手段が私にもある、ということに、私自身、本当は薄々気づいていました。
実は、既に友人の一人がその方向に進んでいて、それ故に彼は勉強せざるを得ない状況に追い込まれていました。その光景を私も見ていましたし、私もまた彼と同じ環境に身を置けば、同じように勉強せざるを得なくなるに違いないという事実に、本当は気づいていたのです。
私は、気づいていないフリをしていただけでした。
私のような怠け者でも、ロースクールに入ってしまいさえすれば、もう嫌でも勉強するしかなくなる。
そんなことは、本当は分かっていたのです。
私のような「自分のペースでやりたい」とか言っている甘えん坊の治療には、スパルタな環境に身を置くという劇薬しかあり得ないということくらい、私自身、とうの昔に心の底では気づいていたのです。
しかし、私はその事実に向き合うことを避けていました。未修進学という選択肢を、無意識に封じ込めていました。何よりロースクールが嫌いでしたし、ロースクールの正当性に疑問を感じていました。こんなところに行かなくてはならないなら、間違いなく2年が限界だ。3年なんて絶対にヤダ。
「既修に受かる実力が付くまではローに入らない」というのは、それはそれで正当な提案だと今でも思っていますが、こと私にかんしてはそれは違います。私のような人間が「既修に受かるまで」なんて言っていたら、冗談ではなく老人になるまで勉強しないでしょう。
もっとも、既修のススメ① 既修のススメ② に書いたことは、一般論としては今でも正しいと考えています。
いくら自分を変えたいと願っても、自分の「内」に留まっている限り、それは永遠に叶わない。本当に自分を変えたいのなら、自分の「外」に出るしかない。
綿矢りさをきっかけにそのことに気づいた私は、ついに観念して未修に出願することを決めたのです。
未修受験の話は何度か書きましたが、さすがに未修は簡単に受かりました。
入学してからは、極めて順調にことが運びました。あれだけ苦しんだ「勉強をする」という行為も、「せざるを得ない」環境の下では、意外なくらいに苦しみもなくできるようになりました。
さすがに根は怠け者なので1日10時間以上はキツイですが、7~8時間くらいは楽にできています。ローに入る前は、1日3~4時間できればなんとか受かるだろうと踏んでいましたから、そこから考えても、どうやら私の賭けは成功したようです。
以上のことは、私としては全て真剣な試みでした。ここまでの究極の怠け者は(特に司法試験受験生には)ほとんどいないのでしょうけれど、もし、他資格の受験生などで参考にしていただける方がいたら嬉しいです。