民法の基本書を分野別(総則・物権・担物・債総・債各)にバラして揃え始めてみたりすること。。
こういうのが、試験対策から「ズレ始める」第一歩目の典型パターンではないでしょうか。
(あと、たとえば憲法の4人組 を「基本書」として採用し始めるときなんかもそうです)
多くの受験生が、だいたいこの辺から「間違え始める」ような気がします。
こういう「こだわり」が出てきたら、まずはそういう自分を警戒すべきです。
具体的にいくつかテキストを挙げれば、山本敬三(通称:やまけい)の民法総則・契約法とか、道垣内担保物権とか、潮見債権各論とか・・・
ローで使わざるを得ないのなら仕方ないですが、少なくとも試験対策としてこういう本は完全不要です。こんな無用の長物に手を出す前に、もっとやらなきゃいけないことがあるでしょう、という話です。
私自身も、10冊くらい調べても分からなかった(ある短答の肢の解説に書いてあった)疑問点が、「やまけい総則」まで手を広げてやっと解消した、という経験があります。なので、こういった詳細なテキストを参照したくなる受験生の気持ちは「もの凄く」よく分かるつもりです。
そういう勉強って、単純に「楽しい」んですよね・・・。
しかし、
①そんな疑問を解消している前に、本当にもっとやるべきことはなかったのか?
②そんな問題を落としたからといって、本当に試験の合否に関係あるのか?
・・・もし、司法試験の神様にそう問われたとしたら、正直グーの音もでなかったろうと思います。
それでもやりたいというのなら、短答・論文の全本試験問題を10回解いてからにすべきでしょう。
受験生としての本分を自覚するべく、それくらいの「厳しさ」は自分にきちんと課すべきだと思います。
※上記の①②は、いまやろうとしている勉強の正当性を判断する際の判断基準として使えると思います。①は勉強の優先順位の問題です。より優先順位の高い課題があれば、まずはそちらをやるべきです。②はその勉強が「試験に必要な勉強」という射程内に入っているか否か、という問題です。あえて言えば、①が必要性、②が許容性の判断基準ということになるのではないかと思います。
********************
【おまけ】 ~必要性と許容性について~
ちなみに、司法試験の理由づけとしてよく使われるこの「必要性」「許容性」という言葉ですが、これらは必ずしも別々のものではありません。実は、抽象化すれば同じものを指しています。
境界の確定が必要とされるある領域があって、その領域を内側から規定するのが「必要性」です。
対して、領域の外側から境界線を規定するのが「許容性」です。
たとえば、ある条文の文言の解釈があったとします。
「解釈」とは、一言でいえば、その文言の「言葉の可能な意味の範囲」を確定させる作業です。
もっとはっきり言えば、その文言を「広げて解釈するか」「狭めて解釈するか」という問題です。
(一般的には広げる方向で解釈が行われることが多いので、以下、その方向で解説します)
その際、言葉の意味の範囲を「ここまで広げるべきだ」と主張するのが「必要性」です。
いわば、境界の内側から外側に向かって働く遠心力(外に向かうベクトル)が「必要性」です。
もっとも、必要性だけに任せていると、言葉の意味の範囲が野放図に広がっていきかねません。
そこで、「ここまでしか広げちゃダメ」という「枠」が必要になるのです。これが「許容性」です。
いわば、境界の外側から内側に向かって働く求心力(内に向かうベクトル)が「許容性」です。
必要性は「ここまで広げたい」と言い、許容性は「ここまでしか広げちゃダメ」と言っていますが、ともに同じ「ここ」という境界線を目指しているという意味では、両者は表裏一体の主張なのです。「ここ」という次元まで議論を抽象化すれば、両者が同じ領域の話をしているということが分かります。
このように、必要性と許容性は、同じ領域をそれぞれ別の方向から説明し直したものに過ぎません。いわば、抽象的な領域の確定基準を、具体的な言葉で「言い換え」たのが必要性&許容性です。
つまり、必要性と許容性は、抽象的には「ひとつ」だったものが、具体化されて「2つ」に分化した、すなわち、2つに「言い換え」られただけのものなのです。
というより、本当は、(必要性・許容性だけでなく)全ての言葉という言葉が「言い換え」なのです。
抽象的に減らす方向で「言い換え」をしていくか、具体的に増やす方向で「言い換え」をしていくか、あるいは水平方向に「言い換え」をしていくか、はたまた反対方向に「言い換え」をしていくか・・・、こういった違いがあるだけです。
「コトバ」という大樹の幹と枝葉との間を行ったり来たりしているのが人間の言語活動の全てです。
行われていることは、このように極めて単純なことなのです。