本日は、論文の処理手順(方法論)がどのように進化してきたのかを辿っていきたいと思います。
論文の方法論は何十通りとありますが、今回のエントリーでは、その中でもっぱら私が最善と考える方法に絞って(そこに収斂させていく形で)紹介をしたいと思っています。
もちろん、私にとって最善でも、全ての受験生にとってそうであるとは限りません。皆さんは皆さんの最善と思う方法論を追求していただければ結構です。
論文の方法論には、①論文を解く際の「思考過程」をパターン化したもの と、②実際に受験生が書いている「答案の構造」をパターン化したもの があります。以下のパターンが①②のどちらなのかはいちいち指摘しませんが、その点ご了承ください。
【方法論前史】
司法試験の歴史において、論文の処理手順の必要性が受験生の間に広く自覚されたのは、おそらくそれほど昔のことではないと思います。受験生の間で方法論の必要性が強く自覚され始めたのは、せいぜいこの十数年くらいの現象なのではないでしょうか。
それ以前は、いわゆる「論証パターン」が幅を利かせていました。司法試験の論文試験における受験生の関心は、(現実の採点基準が論点中心だったのかどうかという点はともかく)もっぱら「論点を書けたかどうか」という点に矮小化されていたと想像します。
【科目ごとの書き方】
その中から、やがて少しずつ論文の「型」めいたものが出現します。
典型的なのが、憲法の「人権パターン」です(違憲審査基準は、昔はLRA一辺倒でした)。
民法では、「物よこせ or 金払え」という生の主張から組み立てる発想がでてきました。
刑法はお馴染みの「Tb→Rw→S」です。
一行問題が頻発していた旧司時代、商訴では「原則-例外パターン」が重宝されていました。
いずれも、現在の受験生なら皆さん当然のようにご存知でしょう。
もっとも、どれも一定のパターンにはなっていますが、科目ごとにバラバラで、答案を書き切るという観点から完成度が高いといえたのは、憲法と刑法くらいです。
この頃は、論文の書き方は、科目ごと・問題ごとに違うものだと考えられていました。
【問題提起→結論型】 【事実/論点仕分け型】
この「バラバラ」の傾向が、司法試験の歴史上初めて「集約化」の方向に転じます。
全科目に共通の「型」があるということが、受験生一般に認識され始めたのです。
①事案の問題提起
↓
②論点の問題提起
↓
③論点の結論
↓
④事案の結論
このように、最初に当該事例問題に対する(結論に向けた)問題提起が行われて、間に論点(解釈)が展開され、最後にそれが事案に戻されて結論をみる、という型が提案されました。
問いに対する答えのように、①④と②③が対応する、このように、事案処理の間に論点(法律論)が挟み込まれるのが司法試験における論文答案だというものです。
(現在でもこの型が受験界の多数説なのではないでしょうか)
伊藤塾やWセミナーがこの方法を主に推していました(現在も伊藤塾はこの型です)。
現在は絶版ですが、『3時間でわかる論文の書き方』(早稲田経営出版)という本に、この「問題提起→結論型」が詳しく解説されています(Amazonの中古で安く買えます)。
このパターンの最大の功績は、それまで科目ごとだと思われていた答案の型を「ひとつ」に集約したという点にあります。
更に、法律問題において、「事実」と「法的問題」は分けて論じなければならない(両者を混ぜてしまってはいけない)ということを受験生に周知させた点も大きな功績だと思います。現在ではあまりにも当たり前すぎて逆に意識されることは少なくなりましたが、この頃の受験界では、盛んにこの「事実と法の峻別」が強調されたようです。
しかしながら、正直に告白すると、私自身はこの「問題提起→結論型」は全く使えませんでした。答案の構造自体はそう言われればたしかにその通りなのですが、たとえば「事案の問題提起」と言われたところで、それでは何を言っているのか全然分かりません。知りたいのは、どのようにして事案から問題提起をしたらいいのかということです。いくらこのパターンを凝視しても、「事案の問題提起っ!」といくら叫ばれても、それでは具体的にどうすれば事案から問題提起ができるようになるのかは、私には全く分かりませんでした(もっとも、伝統芸能の継承のように、見よう見まねで何度も何度も繰り返しこの型を刷り込んでいけば、こんな型でもできるようになる人はできるようになるようです)。
また、この型では、条文の存在がどこにもでてこないという点も致命的です。この型からは、事案と論点の話しか読み取れず、条文をどこでどのように出すべきなのかが全く見えてきません。本ブログでしつこいくらいに書いてきたように、司法試験の論文試験は条文を使いこなす試験です。その点で、条文をどう使うかという点に全く触れていないこの方法論は(そこがいかにも伊藤塾的なところですが)方法論として極めて完成度の低いものだと言わざるを得ません。
更に、この型は、はじめから論点の存在を前提としてしまっています。そもそも「~の問題提起」という表現自体が、何らかの問題(=論点)の発生を前提としてしまっています。この型を前提に考えると、法律の原則的な処理のあり方が見えてきません。法律問題において、論点の発生はあくまでも「例外」にすぎません。いくら司法試験で論点が出題されることが多いからといって、論点的思考を所与の前提としたような「型」は、原則と例外を取り違えた思考パターンだと言われても仕方がないと思います。
【生の主張スタート型】
次に、その後の受験界でかなり流行する方法論が登場します。
この型は、たぶん、辰已の『現場錬金術』という旧司時代の講座によって広まったものだと思います。この方法論は、全ての科目を一貫して「生の主張」を立てることからスタートさせるパターンです。現在では、一部の受験生の間では常識とされているパターンです。もし知らないという方がいたら、是非この機会に覚えておいてください。
私は司法試験の勉強を始めた頃に、この講座を友人から借りて聴いたのですが、正確な形でその方法論の形を覚えていません。なので、私なりの整理の仕方をしてしまいます。
①生の主張
↓
②法律上の主張(条文)
↓
③論点(解釈)
↓
④あてはめ
たしか↑こんな感じだったと思います(正確には違うと思いますがご容赦ください・・)。
この方法論の優れた点は、全ての法律問題が(実際に答案に書くかどうかはともかく)思考の手順として、必ず生の主張からスタートし、その後、生の主張に適合する法律上の主張(条文)が選び出される(それを前提に論点が論じられる)というプロセスを指摘したことです。
それまでは民法など特定の科目でのみ用いられていた「生の主張」が、実は憲法や刑法といった科目においても出発点となっていることを示した功績は大きかったと思います。
この方法によって、答案の形だけでなく、思考の手順においても、法律問題には普遍的な「型」があるということが受験界に周知されるに至りました。
ちなみに、事案分析の過程で、いきなり法律上の主張(②)を想起するのではなく、生の主張(①)から考え始めることが大事だとされる理由はいくつかありますが、一番大きな理由は、生の主張(①)から考え始めずにいきなり法律上の主張(②)から考え始めてしまうと、(法律上の主張が複数考えられる場合に)他の法律上の主張を想起し損ねてしまう虞があるからだと私は理解しています。
この方法論の利点は、先ほどの(実は何を書いたらいいか分からない)「問題提起→結論型」のような曖昧なパターンとは違い、事案を分析する際に、①~④の個々の段階でそれぞれ何をするのかが明確で、処理過程を具体的にイメージしやすく、その意味で方法論としての実践性が高いという点にあります。
「問題提起→結論型」と違って、条文の存在もきちんとでてきます(②)。
また、論点の存在も、特定の条文の主張の上で、その解釈問題として現れてくるものと位置付けられており、法律処理の原則論が踏まえられています。すなわち、①→②が法律問題の原則的処理であり、③→④は論点という例外的事情が発生したケースに過ぎないということが含意されています。
現在では、このパターンは受験界の一定の支持を得ているように思います。
【紛争構造型】
生の主張からスタートするという思考手順が(一部に)定着して以降、受験界の処理手順の進化はストップしたように思います。実際、ここ数年、受験界の論文方法論に目立った変化は生じていません。
しかし、この方法論(生の主張スタート型)はまだ完璧とはいえないものだと思います。
「生の主張スタート型」は、旧司時代に生み出された方法論です。旧司時代の論文答案の特徴を一言でいうと、「裁判官目線で作られた答案」ということになるでしょう。つまり、訴訟当事者の紛争的目線ではなく、両当事者の利益衡量の「結果」を、あくまでも裁判官の衡量的・調和的目線によって、まるで単線の物語を描くように処理していくのが旧司型答案の特徴です。
これに対して、新司型(あるいはロースクール教育型)の思考形態は、それとは少し異なります。全ての問題がそうではありませんが、新司型ではしばしば旧司型にはみられなかった、(いきなり問題解決にいくのではなく)紛争当事者目線での主張をすることが求められます。
こうした新司時代に相応しい方法論があります。そしてそれは、ありとあらゆる法律問題に共通の、普遍的処理手順の最終進化形だと思います。
①当事者確定<原告> 同<被告>
↓
②生の主張 ⇔ 同(反論)
↓
③法的主張 ⇔ 同(反論)
↓
④あてはめ ⇔ 同(反論)
↑このように、「生の主張スタート型」を、当事者確定を軸に、左右に展開させたパターンです。
生の主張というそれだけでは「“誰”が言っているのか分からない」ものから入る前に、まずは当該紛争の当事者が誰と誰なのか、それを確定させることからスタートします。法的紛争は(多数当事者であっても)原則二当事者間の関係に引き直されますから、このように「生の主張の主体」を2つに分けることは、法的な紛争構造を表す図式としては普遍的かつ有用な作業です。
そして、原告・被告に分けられた当事者には、それぞれの生の主張があり、法的主張があり、あるいはそれに対する反論があります。これらを漏らさず「思考」するには、先ほど紹介した「生の主張スタート型」では実はスペースが足りません。本当は「生の主張」だって2つあるからです。というか、2つあるから「紛争」という名の法律問題が生じるのです。
こうして、対立する両当事者の主張等を全て列挙することによってはじめて、紛争の全体像が一覧的に見えてきます。
路上ライブを国が規制した、という事案をこのパターンで図解してみます。
①<原告>私人 <被告>国
↓
②路上ライブの自由 ⇔ 迷惑なことはやめなさい
↓
③表現の自由(21・Ⅰ) ⇔ 公共の福祉(13後段)
↓
④21・Ⅰの文言にあたる ⇔ 解釈(最小限の制約⇒審査基準)⇒あてはめ
シンプルに書くとこんな感じになります。
物語のように単線のストーリーで答案を書いていると気づきにくいですが、紛争構造型で考えると、毎度毎度お馴染みの13条の公共の福祉論が、(形式的にいえば)国の側から提出される主張だということが分かります。たしかに、訴訟を提起している当事者(原告)にとっては、13条がどうとかそんなことは本当はどうでもいいのです。彼(彼女)が主張したいのは、とにかくライブがしたいということ。そして、その規制が21・Ⅰに反して違憲だということだけです。
紛争構造型というのは、テニスに喩えると、まずはコートを二分し、その後に2人のプレーヤーが主張・反論という形のラリーを繰り広げて勝敗を決する、というイメージです。
このような紛争構造型に則して考えると、いわゆる「人権パターン」と呼ばれるものも、何も他の科目と比較して特別なことをしているわけではないことが分かってきます。人権パターンもまた、紛争構造(二当事者の対立関係)の左右の主張のラリーを順に追って記載しているだけのものです。
この「型」に自覚的になると、(もう少し具体化が必要になりますが)最近流行りの「三段階審査論」も、この紛争構造の「具体的な辿り方の一例」を言っているだけだということが分かってきます。
人権パターンも三段階審査論も、紛争構造型というコートで繰り広げられる二当事者間のラリーの軌跡をそれぞれの仕方で説明している議論にすぎません。全ては紛争構造型の中に包摂されています。
このように、全科目・全分野において上に挙げた対立構造を自覚化しながら学習を進めることには、論文の書き方という狭い領域に留まらず、法律学習全般においても、想像以上の効用があります。
以下、いくつか例を挙げます。
ここから先は当たり前すぎる話も多いので、中級以上の方にはつまらない部分もあるかと思いますが、紛争構造の「基本」を初学者にも分かるようにきちんと説明したいので、どうかご勘弁ください。
【例①】
この方法を用いると、憲法などにみられる、一方当事者からの主張を書けという出題形式に形式的にフィットします。こういった出題では、多くの受験生が(私人or国どちらの側を書く場合にも)先ほど述べたような裁判官目線の予定調和的な答案を書いてしまいがちです。
しかし、上位の合格答案は、あくまでも当事者の主張は当事者の主張として(最終的にそれが通るかどうかは別問題として)まずは一方当事者の露骨な主張を端的に提示する傾向があります(そのほうが争点が明確になりますし、最終的な落としどころ=裁判官目線による結論も見えやすくなります)。
紛争構造型は、こうした「一方の主張」を明示的にあぶり出すのに非常に適合的なパターンです。
また、論文指導ではよく「反対利益への配慮が必要だ」と言われますが、この紛争構造型を使えば、反対利益に殊更に「配慮」などしなくても、自然に全ての反対利益を漏らさず思考することができます。
こういった図式で普段から思考するクセをつけると、必ずしも問題を解いていなくても(たとえば基本書を読んだり、入門講座を受けているだけでも)上記の対立構造によって紛争を「処理」する習慣が自然と身についてきます。法の本質が「対立構造」であることが、自然と意識されるようになってきます。
以下の②③④はその例です。
【例②】
憲法では、(人権では)原告はいつも私人で、被告は(原則は)国だということが分かってきます。
じゃ統治って何の話なんだと考えると、統治は国(国家機関)vs国(国家機関)の紛争の話だということが分かってきます。多くの受験生には、人権と統治は全然別の話であり、処理パターンも異なると思われているわけですが、紛争構造型を使うと、どちらも一貫して同じ方法で処理できることが分かります。
昔、旧司で政党の事案が出題されたときに、司法試験の歴史でも珍しいことが起こりました。合格者の半分がその問題を人権の問題として人権パターンで処理し、もう半分は統治の問題として処理したのです(スタンダード100でもこの問題だけは答案が2通付いています)。当時の合格者はなぜこのようなことになるのかよく分からないまま、なんとなくそれぞれの「合格答案」を書いたようです。
なぜこのような2通りの解答が出てしまったのでしょうか。実は、紛争構造型で考えるとすぐに分かります。ポイントは、①の当事者確定です。皆さん入門講座で習ったように、政党には、私的団体という側面と、実質的に国家機関の一部に位置付けられる公的な側面があります。つまり、本問題の処理において、政党を私的団体に引き寄せて考えた場合には、当該紛争は人権の問題(私vs国)に見えてきます。対して、政党を国家機関に引き寄せて考えた場合には、当該紛争は統治の問題(国vs国)に見えてくるわけです。このように、日頃から紛争構造型で思考するクセをつけておくと、単なるインプットでさえ誤魔化しのないクリアな理解が可能になってくるのです。
【例③】
刑法では、原告は常に検察官だということが分かってきます。
さらに、(私は原告の③法的主張を「メイン条文」と呼んでいるのですが)刑法のメイン条文は全て各論の条文であるということも分かってきます。
総論のほうには、被告人の側からメイン条文の構成要件該当性を否定したり、違法性や責任を阻却したりといった対抗的な役割しか与えられていません。総論がメイン条文という主役に絡むことができるのは、せいぜいメイン条文の修正(未遂・共犯)が必要なときくらいです。このように、刑法において、総論の条文は常に「脇役」にしかなれないのです。
こういったことも、紛争構造型を前提に勉強すれば、入門の段階から意識することができます。
念のため補足しておきます。
刑法総論(Tb→Rw→S という処理体系)は、全ての各論の条文に内在されている、いわば「隠れた条文」であるということができます。総論体系は、各論の規定の背後にある「隠れた要件」なのです。
その意味で、総論も主役の一部を形成しているとはいえますが、「効果」の点に着目すると、やはり主役は各論であり、総論は補助的な役割をなしているにすぎないと言わざるをえません。
【例④】
民法で94条2項の類推適用というお馴染みの論点があります。「AB間には通謀も虚偽の意思表示もない以上、94条2項を直接適用することはできない。しかし、94条2項の趣旨は権利外観法理である。そこで、・・・」みたいな初学者でも知っている例の論証です。
こういった伊藤塾的な「論証的発想」(一体「誰」が論じているのか分からないまま抽象的に「論じる」発想)で物を理解することに慣れてしまっている人には気づきにくいことですが、この「直接適用できない」というのは、そもそも一体「誰」のセリフなのでしょうか。二当事者間の紛争構造ではなく、単一当事者の語る単線的ストーリーの形で答案や論証を学ぶことに慣れている人には、これはある種の抽象的原則論を論証の枕詞に掲げたものと思われるかもしれません。しかし、お気づきのようにこれはあくまでも「被告側」のセリフです。「94条2項を直接適用したい」と原告側が言い出した場合に限って意味を持つ、被告側からの反論です(もちろん、実際の訴訟でこういったやり取りが行われることはほぼあり得ませんが、形式的手順として原告・被告に主張を割り振るとこうなる、ということです)。
ところが、初学者の中には、まるで全てのセリフが原告の側から発せられているように考えている受験生も多いはずです。裁判官的な予定調和的発想、学者的な非当事者的発想、論証的な単線的(物語的)発想・・・こういった「現実の紛争」を忘れた発想の弊害がここには表れています。
紛争処理型を使えば、二当事者間の対立構造という法の本質を置き去りにしたまま漠然とした「理解」をするということがなくなり、個々の条文・論点・問題の理解が自覚的なものになっていくと思います。
予備校やロースクールで、「まずは原則論の指摘から入るのが大事だよ」とか「論証のフレームとして~という順番で組み立てると全体の流れが良くなるよ」みたいな指導を受けることが多々あるかと思いますが、こういう(悪い意味での)「法学的」な理解の仕方は全くもっておすすめできかねます。
こういう抽象的指導(発想)では、法の本質(=紛争・対立構造)を見誤りかねないからです。
法の本質は利益対立(=紛争)です。
多くの条文が「Aは、Bの場合は、Cになる」という風に、Bという要素を使って利益調整ができるような形で作られています。たとえば民法478条は「(A)債権の準占有者に対してした弁済は、(B)弁済者が善意無過失のときに限り、(C)その効力を有する」と書かれています。このように、条文というのは、必然的な制度論として「Aの場合はCになる」と言い切ってしまうのではなく、その間に「B」を挟み込むことで、原告・被告間の利益の割り振りをしていることが多いのです。利益を割り振っているということは、すなわち、条文の中にあえて紛争(あるいは利益調整)の余地を残しているということです。このように、単なる取り決めというよりも、何かしらの紛争を予定して作られているというのが、条文という道具の特徴です。
いえ、「条文が紛争を予定して作られている」というより、むしろ、個々の現実の紛争が先にあって、それらの経験から、先人たちが「紛争(あるいは利益調整)を抽象化・類型化する形で条文を作り上げていった」、と言ったほうが正確かもしれません。
いずれにしても、このように条文というのは、徹頭徹尾、原告・被告間の「紛争」の形が表現された、二当事者間の「紛争処理」のための道具です。
条文だけではなく、具体的な法律問題の本質もやはり「紛争」です。たとえば、履行遅滞をしようがプライバシー侵害をしようが、このような「条文に該当する事実」がいくらあったところで、当事者が「対立」していなければ、(基本的には)「法律問題」は発生しません。A君がBさんから借りたお金を返さなかろうが、A君がBさんのプライバシーを暴こうが、Bさんがそれを問題にしなければ「法律問題」にはなりません。
つまり、法律問題は、それが法律問題である限り、必ず二当事者間の紛争(対立関係)なのです。
ですから、上に挙げたような「原則論が云々~」とか「フレームがどう~」とかいう話を聞いても、そういう抽象論を無邪気に有難がらずに、その論証なら論証の「紛争構造」が何なのかを常に突き止めようとする姿勢が大事だと思います。そうでなければ、真の意味で「法」を理解したことにはならないからです。
シケタイや基本書や○○先生のお話を理解することは、法を理解することとは多くの場合違います。
法を理解・修得するということは、条文を理解する場合でも、法律問題を処理する場合でも、「紛争構造」を理解・処理するということに他なりません。この点を忘れないようにしてください。
以上です。
紛争構造(二当事者間の対立構造)の形で法を理解する(法律問題を処理する)ことの重要性はお分かりいただけたでしょうか。
このように、日頃からありとあらゆる問題を紛争構造型に立脚して発想するクセをつけておくと、法律の内容の理解&論文問題の処理、いずれもが、極めて明確で自覚的なものになっていきます。
慣れないうちは少し大変ですが、この紛争構造型を常に意識しながら1~2年も勉強を続ければ、その効果は他の受験生を圧倒するという形で、いずれはっきりと表れてくることになるだろうと思います。
★紛争構造型を独力で実践するのが難しいという方には、⇒こちらの講座
がおすすめです。
現時点で、この「紛争構造型」が、論文問題処理の思考手順として最善の方法論であり、これ以上の「進化」はもはや望めないくらいに完成度の高い方法論だと思います。
もちろん、マイナーチェンジの余地はあるかもしれませんが、全体の骨格はこれが最終進化形だと断言できます。これまで述べてきたように、この方法には法の「本質」が表現されているからです。
また、繰り返しになりますが、既に述べたきたように、論文の処理手順だけでなく、単なる法律の理解(インプット)においても、この紛争構造型を使って勉強することが、やはり最善の方法だろうと思います。
なぜなら、この方法に則して考えていけば、法を「理解」するということが、いったい本当は何を理解するべきなのかということが明確に定まるからです。紛争構造型を意識して勉強していけば、テキストの記述や論証の流れや答案のフレーズといった、曖昧な「理解」という名の幽霊に絡め捕られることがなくなると思います。
⇒答案の書き方について
へつづく
【補足】
※合格者などから、「基本書を読め」とか「揺るぎない基礎力をつけよ」といったアドバイスを受けた人へ。こういう助言を平気でする人は、実は自分自身では何も考えていません。ここに書いたことは、本ブログの最重要メッセージです。
例④の話に戻って、少し話を膨らませてみます。
この「直接適用できない」という言葉を答案に書かなければならないのは、「まずは原則論の指摘から入るのが大事だよ」などという、そんな「不真面目」な理由では断じてありません。
「直接適用できない」という言葉を書かなければならないのは、強制執行権を有する国家という「暴力装置」を敵にまわしてしまうか、それとも味方につけることができるかという、まさにのっぴきならないギリギリの状況に置かれた紛争当事者の絶対に負けられない叫び声だからです。
簡単にいえば、そこでその言葉を叫ばなければ勝負に負けるからです。
「原則論がどう~」とか「論証フレームがどう~」とか、そんなマヌケな理由ではありません。
問題を解くこと(=紛争を解決すること)を第一に考える姿勢さえあれば、本当はこんなこと誰にでも容易に理解できるはずの事柄なのですが、受験界では「基本書を読んで本物の基礎力を付けよう」なんていう「不真面目」極まりない物言いが幅をきかせているために、この単純な事柄がなかなか理解されません。
理解されないばかりか、まさにその一番大切な紛争解決の訓練をしている受験生の勉強を「付け焼刃」呼ばわりする人までいるようです。しかし、本来すべき訓練(紛争解決の訓練)をなおざりにして、知識や理解や基礎力といった曖昧かつ幅広い網をかけることで、現実の紛争をその場しのぎで乗り切ってしまおうと考えている基本書派・インプット派の人々の勉強法のほうこそが、本来「付け焼刃」と呼ばれるべきものなのです。
私が彼らを「不真面目」だと思うのは、そして彼らの勉強法をこそ「付け焼刃」だと思うのは、なによりも彼らが、本当にしなければならない仕事から逃げているからです。
司法試験受験生の仕事は、司法試験の問題を解くことです。解けるように頑張ることです。
法律家の仕事は、紛争を解決することです。解決できるようにどこまでも頑張ることです。
要はどちらも紛争解決です。紛争解決こそが、法曹および法曹予備軍に共通の仕事なのです。
それなのに、「紛争解決よりも本を読め」だなんて、いったいどれだけ逃げれば気が済むのでしょうか。
カウンセリングの訓練から逃げて、もっぱら心理学のテキストばかりを読んできた人見知りのカウンセラーに、自分の悩みを相談したくなる人がいるでしょうか。紛争解決の訓練をなおざりにして、もっぱら法律のテキストばかりを読んできました(キリッ)とか言ってる弁護士に、紛争解決を委ねたい人がいるでしょうか。
問題を解けるようになりたいなら、問題を解くことから逃げてはいけません。
紛争を解決したいなら、紛争を解決することから逃げてはいけません。
人の悩みを解決したいなら、人の悩みに向き合うことから逃げてはいけません。
真剣に、真面目に考えれば、誰もがそういう結論にならざるをえないはずです。
そうしないで、「まずは基本書だ」なんてセリフを安易に吐く人は、思考回路そのものが不真面目です。
ちゃんと考えてみてください。紛争を解決したことのない人に、紛争に真剣に取り組んだことのない人に、どうして「基本書読みこそが紛争解決能力の養成に最適の手段である」と分かるのでしょうか。
その人は、いったい「何」(←ほんとに何!)を手掛かりに、そのような解を導いたのでしょうか。
言うまでもなく、導けるはずがありません。あなたが超能力者でもない限り、現実の紛争にどっぷり浸かるというプロセスを省略したまま、それでいてどうしたら紛争解決に必要な能力が身につくのか、その手段だけは都合よく分かってしまうなんて、そんな調子のいい話は原理的にあるはずがないのです。
「紛争地帯に赴くことなく紛争請負人になれますよ」なんて都合のいい話は、原理的にないのです。
紛争地帯という現場(問題)で仕事をしようとせずに、現場から遠く離れた会議室(基本書)で読書に耽りながら紛争請負人の資格を得ようとする受験生たちこそ、真の「付け焼刃」受験生と呼ばれるべきです。
また、「司法試験に受かりたいなら基本書を読みなさい」と、まだ紛争に塗れたこともない受験生に向かって語り始めるロー教授や合格者たちも、少なくとも他人に助言をするという観点に限っていえば、(仮に「その人」がそれで合格したのだとしても)アドバイザーとしての資格を100%持ち合わせていないと言わざるを得ません。
こんな「詐欺師」たちが語る、無責任な伝聞情報に惑わされるのはもうやめにしましょう。紛争という名のドブ板を自力で這いずり回る労力をスキップして、他人からキレイな答えだけを教えてもらおうなんて、それはいくらなんでも虫がよすぎます。こんな詐欺話に心を動かされたなら、あなたもまた相当に「不真面目」です。そのことを自覚してください。ドブ板を這いずり回る労力を惜しむような「不真面目」な人間が、司法試験などやってはいけません。
あるいは、極端な例をだしたほうが分かりやすいかもしれません。
たとえば、私があなたに「1週間後に “仕事” をしてもらうから準備しといてね」と依頼したとしましょう。
さて、そう依頼されたあなたは、これから1週間、いったい「何」をするべきなのでしょうか。
誤魔化さずに、きちんと「真面目に」考えてみてください。
まさか、基本書を読むんでしょうか (笑
揺るぎない基礎力をつけるために (笑
・・・すみません。ここは笑うところではありませんでした。
あなたにとっての司法試験は、この「仕事」と同じくらい、本当は訳の分からないものなのです。
あなたがそれを「訳が分かっている」と愚かにも勘違いしてしまっているのは、脳みそがドロっと溶けた新興宗教の信者のように、「○○教祖様」(←あなたの好きな教授・講師・先輩合格者の名前を入れてください)の言うことは間違いなく真実に決まっていると、思考停止状態で信じているからに過ぎません。
このケースでは、「仕事」っていうだけじゃ何をしたらいいか分からない、が唯一の正解です。
ここで「何か」をし始めてしまうことができる人は、典型的なダメ受験生です。
さらにダメ押しで、もう一つだけたとえ話を挙げておきます。
もし、あなたが子どもから「クリケットが上手になる方法をおしえて」と聞かれたら、どう答えるでしょうか。
言うまでもなく、ここで「たしかクリケットって野球みたいなのじゃなかったっけ」とか適当に考えて、バッティングセンターに子どもを連れて行くとしたら、あなたはバカ親認定です。あるいは、「まずは揺るぎない基礎体力を付けるために・・」とか言って、子どもにジム通いをさせるなら、あなたはアホ親確定です(司法試験受験界はこのようなアホ面のパパママたちで溢れかえっています。おっと、あなたの隣にも・・・)。
当然ですが、クリケットがどういうスポーツなのかを徹底的に調べてみなければ、そして、クリケットそのものをあなた自身が経験してみなければ、さらに、子ども自身にも経験させてみなければ、正しい助言などできるはずがありません。このアホ親たちは、そんな簡単なことにさえ気づいていないのです。
・・・もうこの辺で十分でしょうか。
このように、「何」をするのかが分からない状態で、「何か」をし始めてしまう人間は愚かです。同様に、司法試験それ自体を十分に知ることなく、いきなり基本書を読み始める受験生も愚かです。
仮に、クリケットと野球がもの凄く似ていて、「私は野球のトレーニングを重ねることでクリケットが上手くなった」と称する(←多くの場合ただの勘違い)人間が現れたとしても、それが他ならぬ「あなた」にとってまでそうであるとは全く限りません。
「野球とクリケットが似ている」という「ある人」にとっての実感が、「野球をすればクリケットが上手くなる」という「ある人」にとっての結果論が、他ならぬ「あなた」にまで妥当するのかどうかは、保証の限りではないのです。
そんなことは誰にも分かりません。なぜなら、その「ある人」は、あなたではないからです。
それが分かるのは「あなた」だけです。この宇宙に唯一無二の存在である「あなた」が、「クリケットをする」ことでしか、その答えを見つけることはできません。その過程を別の「誰か」に預けてしまうことはできないのです。
ここで、「クリケットをせずに野球をせよ」と助言してしまえる浅はかな人間が、典型的なダメ合格者です(⇒他人任せでやってきた人間は、他人に対してもまた、他人任せな助言しかすることができません)。
そして、このようなダメ合格者の妄言を真に受けてしまうダメ人間こそが、典型的なダメ受験生なのです(⇒ダメ受験生の一部は、他人任せなダメ合格者になり、次なるダメ受験生を再生産していきます)。
ちなみに、最高位のダメ受験生とは、(私がここまで親切に言っているにもかかわらず)それでもなお、この記事をプリントアウトして、あるいはスマホを示して、あるいはどこぞのページに書き込んだりして、「ここに書いてあることってどう思います?」とか、結局やっぱり誰か(他人)に聞いてしまう人です。安心してください。あなたのような人は永遠に受かりません。
ダメ受験生とは、このように何も考えず、すべてを他人任せにして満足してしまえる人です。このようなタイプの人間は、すぐに詐欺に引っかかりますし、新興宗教の格好の餌食にもなります。ひょっとしてあなたは、今までこういうタイプの人たちを、どこかで馬鹿にしていたのではないでしょうか。しかし、紛争地帯で独り戦う労力を惜しんで、他人の語る伝聞情報に一喜一憂し、他人から提供されたバイブル(基本書)に必死に縋り付いているとすれば、あなたも新興宗教のバカ信者と何ら変わりありません。
もし、あなたが、詐欺師を「信じる」のではなく、ただ真実を「知る」ことを望むのなら、その方法はいたって簡単です。
つべこべ言わずに、「あなた自身が」紛争地帯に突入すればいいのです。
現場で1~2年も揉まれれば、あなたにとっての答えは完全に見つかります。それで死ぬこともありません。何よりそうすればあなたは100%合格できるのです。こんなに都合が良くて気楽な戦いはそうそうありません。
それでもそうしないのは、きっと、自分自身の目で現場を見ること、自分自身の頭を使って考えることが、面倒くさくて仕方がないのでしょう。
私が彼らを(そしてあなたを)「不真面目」だというのはそういう理由です。