先日、「出題趣旨と再現答案ではどちらが重要か」というご質問をいただきました。
今回はそのご質問に回答する形で、私の意見を述べたいと思います。
結論からいうと、私は、再現答案のほうが(圧倒的に)重要だと思っています。もちろん、出題趣旨も日頃の勉強の参考資料としては十分に活用の余地のある教材だとは思いますが、重要度としては、再現答案>>>出題趣旨くらいに考えています。
以下、理由を述べます。
理由①
まず第一に、私たちが通らなければならない試験は、「相対評価」の試験であって、「絶対評価」の試験ではないからです。
「新司法試験はあてはめ勝負」は本当か
というエントリーでも書きましたが、出題趣旨は、絶対評価の見地に立って、試験委員が「願わくばできて欲しかった」ことばかりが書いてある、一種の「完全解」です。
もし、完全解を書くことに十分な実行可能性があるのであれば、完全解を目指すことにも問題はありません。
しかし、完全解を書くことは、トップ合格者にすらできないというのが現実です。私たち受験生の可能性の限界が、そこにははっきりと示されています。したがって、このような完全解を過度に真に受けるのは、司法試験のような相対的に受からざるを得ない(実践解を目指さざるを得ない)試験において、著しく誤った認識だと言わざるを得ません。
もうひとつ付け加えると、↑上記のように完全解を目指してはダメだよといくら警告しても、多くの受験生が出題趣旨をはじめとする完全解を有難がる理由は、受験生たちが一つの信仰(宗教)を持っているからです。
その信仰とは、「大は小を兼ねる教」です。
ほとんどの受験生が、「大」(出題趣旨)をやっておけば「小」(合格)が実現できると勘違いしています。しかし、こと司法試験においては、その関係は成立していません。「合格すること」と「完全解を書くこと」は、目指すべきゴール自体が違います。再現答案をきちんと読みさえすれば、そんなことは誰にでもすぐに分かります(この辺りの事情がよく分かっていない人は、例外なく再現答案分析から逃げています)。
しかし、多くの受験生は「大は小を兼ねる教」を信仰し続けています。なぜでしょうか。私が思うに、それは、受験生の目的意識が希薄なせいです。受験生の真の目的は「合格」であるはずです。すなわち、「小」こそが、目指すべきゴールであるはずなのです。ところが、真の目的が何だったのかを忘れてしまうと、いつの間にか「大」すなわち「過去問を完璧にマスターすること」が目的化されてしまうのです。ここでは、本来は合格のための「手段」に過ぎなかったはずの過去問マスターが、盲目的な信仰対象として神の座にまで祭り上げられています。
それにしても、目的意識が希薄だからといって、なぜ出題趣旨(≒目的から逸脱した過去問の完全マスター)が神格化されるのでしょうか。おそらくそれは、多くの宗教(特に新興宗教)の信者に特有の、ある欲求がそこにあるからだと思います。
その欲求とは、「そこで考えるのを止めにしたい」という思考停止の欲求です。「とにかく過去問が大事なんだろ」「だったら過去問を“完璧”にしてやるよ」「それでいいだろ。もう何にも言うなよ」という思考態度です。ようするに、彼(彼女)は、「それ以上考えるのが面倒くさい」のです。つまりは、「不断に“目的”に迫り続ける」緊張感から解放されたいのです。そういった緊張感から解放されて、「とにかくこれをやっておけば文句はないよな」という素材(つまり「大」)が欲しいのです。それ以上にものを考える(考え続ける)必要のない「完璧」な武器が欲しいのです。これは明らかに宗教特有の思考停止の態度だと私は思います。
理由②
第二に、出題趣旨に書かれている内容には「偏り」があるからです。
答案に書かれるべき要素を、「基本―応用」という二層構造に分けるとします。
「基本」というのは、その答案が条文などの確定的要素(=基本)からきちんと展開されているかや、その受験生にいわゆるリーガルマインド(法的思考能力)が備わっているか、といった表面的な文字情報として示される以前の、およそ法律家という法律家すべてに必要とされる基礎的な能力のことです。
「応用」というのは、「基本」ができていることを前提に、そこから「先」の具体的な事柄のことです。通常の日本語の語感でいう「応用」という意味に加えて、文字の形で具体的に情報化することが容易な類の事柄という意味を含めたいです。要するに、物事の「原理」よりも、その「展開」「帰結」のことです。
言うまでもなく、学者先生などの関心は、極端なまでにこちら(応用)に偏っています。出題趣旨に書かれていることも、基本的にはこちら(応用)にほとんど偏っていると思います。
なぜ彼らの関心が「応用」のほうばかりに偏るのか。それには2つの理由があります。
一つは、それが彼らの仕事だからです。
ロースクールの授業にもそれは端的に表れています。彼らは学生に「基本」を教えることより、「応用」を研究することを本業としているため、勢い、本来は「基本」を教えるべきローの授業も、彼らの大好きな「応用」ばかりになってしまいます。
もう一つは、多くの場合、専門家の視界からは「基本」は消えてしまうからです。
私がこのブログでことあるごとに条文の重要性を説いていますが、そして、ほぼ100%の受験生もさすがにそれには同意してくれていると思いますが、法学者の中で私ほど条文の重要性を強調する人は稀です。それは、彼らが条文の重要性を「知らないから」ではありません。むしろその逆で、彼らにとっては、条文の重要性などは、もはや語る必要もないくらいに「当たり前」のことになってしまっているからです。彼らが条文(をはじめとする基本)を軽視しているように見えるのは、彼らが条文の重要性を「知らないから」ではなく、むしろ、その重要性を「知りすぎているから」なのです。
「人が生きるに必要なものは何か?」と聞かれたときに、「お金」とか「人間関係」とか答える人は多いと思いますが、ここで「空気」と答える人は稀でしょう。しかし、全てをゼロベースで、地球環境から創り上げる必要がある人にとっては、「空気」や「水」は譲れないくらいに重要なものです。
しかし、この地球環境に慣れてしまっている人間にとっては、もはやそれはあまりにも「当たり前」に過ぎて、想起すらされなくなってしまいます。そういう人が「空気」と答えるには、相当の意識的な作業を要します。
この点が、「専門家」に助言を乞う際の最大の要注意点です。自分が初心者だった頃に戻って、その観点から「基本」に立ち返って助言ができるような専門家は、よほど内省力の高い人です。そんな専門家はごく稀にしか存在しません。全国のロースクール教育の「惨状」をみれば、それは誰の目にも明らかなことです。
私が申し上げたいのは、その「惨状」を引き起こしている当の張本人が、出題趣旨の話になった途端になぜか突然豹変して、今度は最も重要な「当たり前」のこと(=基本)を受験生に向かって語り始めてくれるようになる・・・なんて信じるのは、控えめに言っても能天気にすぎるでしょ、ということです。
そんな「豹変力」が彼らにあるわけがないではないですか。本当にそんな能力が彼らにあったなら、そもそもロースクール設立以前に、予備校に学生を根こそぎ持っていかれるなんて失態は犯さなかったはずです。現在のロースクールの指導力不足問題に至っては、そんな問題自体がそもそも発生すらしなかったはずです。
一度冷静になって彼らの「日常」の仕事ぶりを思い返してみてください。つまり、試験委員の仕事「以外」の仕事をしているときの彼らの仕事ぶりを、です。果たして彼らは、学生たちに重要な「基本」を教えられているでしょうか。そうやって学生たちを、試験に合格する受験生に育て上げているでしょうか。もちろん答えは「できていない」です。指導力不足が問題視されるほど「できていない」のです。
その指導力不足問題の当の当の当事者が書いているのが、出題趣旨なんですよ。一体どうやったらそれがスバラシイ資料になり得るんでしょうか。同じ主体が行っている同じような仕事なのに、「日常」と「非日常」では、そんなに仕事の質が変わるんでしょうか。それとも彼らはスーパーマンなんでしょうか。変身でもするんでしょうか。
皆さん、ほんともういい加減目を覚ましてください。。
話を戻します。
我々受験生が身につけるべき最も大事な能力は、圧倒的に「基本」のほうです。
こちらの記事のコメント欄(⇒無題①②③)
で、就職面接を例に挙げて書きましたが、司法試験は「答え」よりも、はるかに「答え方」のほうが大事な試験です(私はそう信じています)。
司法試験では、どんなに知識的な「正解」を並べても、受からない人は永遠に受かりません。一方で、論点落としをしようが途中答案を書こうが、受かる人はあっさりと受かってしまいます。これはまさに、司法試験の評価の核心が、知識(答え)それ自体にはないことの何よりの証左です。
ところが、出題趣旨に書かれているのは、「これこれを書いて欲しかった」という具体的文字情報に変換できる、一言でいえば「知識」の話ばかりです。出題趣旨に書かれているのは、このように、「基本」の上に位置する「応用」という名の加点自由ばかりなのです。
受験生がこのような出題趣旨を有難がるのは、彼らが「司法試験の問題に答える」ということを、「答案上に一定の正しい『知識』を置いてくること」だと勘違いしているからに他なりません。
しかし、繰り返しますが、司法試験は「答え」よりも「答え方」が大事な試験です。私は就職面接と似たようなものだと思っています。当局が用意している具体的な「問題」や、差し当たり提示されている「答え」は、受験者の「答え方」を引っ張り出すためのエサ(きっかけ)に過ぎません。もちろんエサのほうにも配点はありますが、面接官は、もっぱら受験者の「答え方」のほうしか見ていません。
世の中にはこういう種類の「試験」があります。たしかに、ペーパーテストとしては特殊かもしれません。センター試験や私大入試などの「知識を置いてくること」だけが全ての、良く言えば簡明な、悪く言えば単細胞な試験に慣れてしまっている人にとっては、大きな違和感を覚えるものだと思います。それくらい通常の試験と比べると異質なものです。しかし、そうだからこそ、受験生は、司法試験の持つこの「異質性」にもっと自覚的になる必要があるのです。
私たちは、表面的な文字情報に変換される以前の、「書かれざる基本」をこそ重視すべきです。法の「用い方」、事案への「アプローチの仕方」、問題に対する「答え方」・・・、こういった「基本的行為態様」こそが、具体的な情報に分岐する以前の、全ての法律家に要求される普遍的な能力だからです。
優秀な合格答案には、何よりもこの「基本」が、形としてよく示されています。
一方の出題趣旨が教えてくれるのは、具体的な文字情報として提示しうる「応用」ばかりです。
また、青島刑事の名言ですが、全ての事件は会議室ではなく「現場」で起きています。それなのに、出題趣旨に書かれている内容といったら、現場から遠く離れた会議室で、しかも「後出しジャンケン」の形で考え出された、現場感覚の欠落したアドバイスばかりです。具体的に「これこれを書いてほしかった」と言語化・可視化できるものばかりです。
星の王子様ではないですが、本当に大事なものは目に見えない部分にこそあるはずです。
もちろん、ここで述べた「基本」が、100%言葉にできないものだとまでは言いません。しかし、具体的情報として「これこれを書いてくれ」と言い切れるものでないことは確かだと思います。
それにもし、その「基本」が、何らかの形で言葉に表すことができるものだとしても(もちろん表せるとは思いますが)、その言葉は、試験の度に、毎回毎回「同じもの」でなければならないはずです。
なぜなら、本当に大事なことは「ひとつ」だからです。
その「ひとつ」が書けないから受からないのが不合格者であり、その「ひとつ」が書けたから受かったのが合格者です。つまり、私たちはその「ひとつ」をこそ書けるようにしなければならないわけです。それさえできれば、あとは(そこから上は)本当は全部要らないはずなのです。
この点で、出題趣旨のような、毎回毎回具体的なことが、つまり、毎回毎回「違うこと」が述べられている資料が、教材として二次的な価値しか持たないのは当然です。
毎回毎回「違うこと」が書かれているということは、「本当に大事なこと」は、そこには一切書かれていない、ということです。この点は非常に重要なポイントです。
司法試験では、ある一定以上の実力に到達すると、たとえば憲法なら憲法を「毎年毎年同じことしか聞いてこない」と捉えるようになる受験生(合格者)が多いです。凄い人になると、(辰已の合格者講義で聴いたのですが)全ての科目がおしなべて「一つのことしか聞いてきていない」と感じられてくる人もいるようです(私も半分はそうなっています)。
初学者の頃は、司法試験というのは実力が上がれば上がるほど「多様な出題に多様な形で対応できるようになる」ものだと思われているわけですが、実際は逆なのです。真の実力者になると、司法試験の出題は「多様」ではなく「単一」のものに感じられてくるのです。
処理手順のことを考えると分かりやすいです。皆さんも初学者の頃は、一つ一つの事例問題に対して一問一問場当たり的にしか対応できなかったと思います。それが中級者以上になると、人権パターンのような科目ごとの処理ができるようになってきます。そして、真の実力者になると、それさえも抽象化され、法が法である限りの普遍的な処理パターンにまで到達する(人も一部にいる)のです。司法試験では、実力が向上すればするほど、使用する武器の数は減っていくのです。
このように、「多様から単一へ」戦い方が収斂していくのが、司法試験における実力の向上です(反対に、「多様」の次元に留まり続け戦う度に武器を増やしていってしまう人が、悪い意味での「実力者」と呼ばれる人たちです)。
「多様から単一へ」というのは、言いかえれば「答えから答え方へ」の移行のことでもありますし、「知識の習得から能力の修得へ」の移行だともいえます。
いずれにしても、出題趣旨に書かれているのは「答え」や「知識」のことばかりです。司法試験において真に重要な「答え方」や、どんな「能力」が求められているのかといったことは、出題趣旨にはほとんど何も書かれていません。
私たちが司法試験に合格していないのは、出題趣旨に書かれていることができていないからではありません。私たちが司法試験に合格していないのは、出題趣旨に書かれている「以前」の、本当に大事な「ひとつ」のことができていないからです。その「ひとつ」とは何なのか。それを学ぶことができるのは、出題趣旨ではなく、答案のほうだと思います。
理由③
最後の理由ですが、私たちが実際の本試験で求められていることは、あくまでも「答案」の形で正解を書くことであって、問題に対して「コメント」をすることではないからです。
司法試験の論文試験が、問題に適切なコメントを与える能力それ自体を評価の対象にしているのであれば、出題趣旨は「ど真ん中」の教材かもしれません。しかし、私たちが試験でしなければならないのは、出題趣旨を発表することではなく、答案を作成することです。この端的な事実を忘れてはいけません。
理由②で述べた「ひとつ」のことというのも、間違いなく「答案」の形でこそ表現されるもののはずです。もっと踏み込んで言ってしまえば、「答案」の形でしか示されない可能性が高いと私は考えています。
野球選手にならなければいけない人が、野球をそっちのけに解説者の真似事をしていても、野球ができるようにはなりません。野球ができるようになりたいなら、当然ですが、野球をしなければなりません。その上で、解説者のコメントを参考にすることはもちろん有益です。しかし、両者の価値の大小を取り違えてはいけません。
問題に対してなされた「コメント」は、いかなる意味でも論文試験の「答案」そのものではありません。私たちは、問題にコメントを加えるのではなく、問題に「解答」しなければならないのです。こういった、自らの成すべき「行為態様」が何だったのかを忘れないようにすることが大事です。
少し脱線しますが、ここでもし、当局が明確な形で「正解の答案」そのものを提示してくれるなら、たしかにそれは極めて貴重な資料になり得ると思います。場合によっては、再現答案を凌ぐ価値を持つかもしれません。
しかし、それは絶対にやってはならないというのが、今も昔も変わらない、法務省の一貫した姿勢です。法務省は、司法試験の歴史の中で何度も何度も、「答案の形で正解を提示することは、受験テクニックを助長させ、受験競争を過熱させることになるので、絶対にできない」という趣旨のことを述べ続けています。答案の形での「正解」を明らかにすることは絶対にしない、というスタンスを取り続けています。
このことは裏を返せば、出題趣旨という単なるコメントを示したくらいでは、受験生に「正解」を読み取られる危険性はない、と法務省が自信を持って判断しているということに他なりません。
つまり、出題趣旨なんか読んでも、本当の「正解」は絶対に分からないよ、と法務省が高をくくってしまえる程度の情報しか書かれていないからこそ、出題趣旨は堂々と受験生に公表されているのです。
出題趣旨で示される「正解」と、答案で表現しうる「正解」とには、かくも大きな違いがあるのです。
最後に、再現答案よりも出題趣旨に圧倒的な価値があると思い込んでいる権威主義受験生(=思考停止受験生)にも簡単に理解ができる思考実験を示して終わりにします。
あり得ない話ですが、もし、法務省が、「正解の答案」を発表したとしたらどうでしょうか。
私は再三、一番難しくて重要な「正解」は答案の形でしか表現できない、と言ってきました。しかるに、この答案はただの答案ではなく「正解の答案」です。そうだとすると、この答案には司法試験の真の「正解」つまりはこのエントリーで述べた「基本」がしっかりとその姿を現しているということになります。となれば、私はこの答案を最低でも再現答案と同等か場合によってはそれ以上の貴重な教材として扱うことになるはずです(本音をいうと同等くらいかなと思いますが)。すなわち、文字通り「第一級の資料」として扱うことになるはずです。権威主義者の皆さんも、ここは当然そうされることでしょう(対立が解消されて嬉しいです)。
対立が解消されたところで、ここでひとつ質問です。
では、この「正解答案」は、出題趣旨と再現答案、果たしてどちらにより似ているでしょうか?
答えは、・・・もちろん言うまでもないでしょう。
こっちは・・・おぉ、ずいぶん似ている。トップレベルになると、問題によってはかなりそっくりなのまである。やっぱり凄いな○○○○。えーと、で、そっちは・・・なんだそれ、全然違うじゃん(苦笑。
・・・と、このように、出題趣旨に「正解」が示されていると言うことは到底できません。
残念ながら、出題趣旨には、せいぜい問題分析のための補助的な役割しかないのです。
【雑感】
採点者の「雑感」や法務省の議事録などの資料について。
「雑感」にも、出題趣旨と似たような、試験委員の過大要求が多く含まれていますが、そこには同時に、「現場の答案」について「現実」を語らされている「採点者」の姿があります。両者とも語っている主体は同じなのですが、「雑感」は、試験委員が採点者の立場で実際の受験生の答案について述べているという点が違います。この点を考慮すると、「雑感」は少なくとも出題趣旨よりは利用し甲斐のある資料だと覆います。「雑感」は、うまく使えば有益な資料になると思います(それは出題趣旨にもいえることです)。
【雑感の雑感】
もっとも、これらの資料も、再現答案に比べれば、数分の一程度の価値しかありません。その点は誤解のないようにしてください。
試験・受験・テストというのは、「問い」に「答える」ことが全てです。相対評価の試験だろうと、絶対評価の試験だろうと、試験という試験はすべて同じです。「問い」を「答え」に言いかえることができるか。「問い」と「答え」をイコールで結ぶことができるか。これが試験の全てです(だから、確固とした「答え」が予め存在するものしか試験にはなりません)。
「問い」と「答え」、「問題」と「解答」だけが試験の実質です。
試験勉強で本当に大事なのは、「問題」と「解答」の2つだけです。「過去問が大事だ」というときの「過去問」とは、過去問の「問題」と「解答」のことです。「問題」と「解答」と「出題趣旨」ではありません(笑)。ここに「問題→解答」を繋げる思考過程(→)を含めても構いませんが、これは目に見えないものです。
相対評価の試験では、これがもう少し具体化されて、「相対的に読み取ることが必要(可能)な程度の問題文」 と、「相対的にアウトプットすることが必要(可能)な程度の解答」 のイメージが大事になります。
いずれにしても、絶対に逃げてはいけないのは、「問題」と「解答」の2つだけです。
この2つ以外には、すべて補助的な役割しかありません(「補助的」というのは、誰にとっても大事なことだとは言えない、ということです)。
皆さんは、単なる補助教材に逃げないように注意してください。
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ちなみに、もちろん、どれだけ逃げても合格すること自体は可能です。「たまたま」受かるのでいいのなら、それでも全然受かります。
合格者の大半は、自分が「たまたま組」であるなんて露ほども自覚していない「たまたま組」です。そういうことをちょっとでも反省してみる態度がなかったからこそ、長いこと苦労したんだという自覚が、「たまたま合格者」には決定的に欠けています。きっと合格して舞い上がっちゃってるんでしょう。
実際、今年もたくさんの合格者が誕生し、まためいめいが勝手気ままな「必勝法」を説き始めました。「私はこんな教材を使ったよ」「私はこういうやり方で勉強したよ」と、具体的なことを書き連ねています。みな、自分がしてきたことを列挙して、それをそのまま「確実に受かる方法だ」と言っています。
でも、残念ながら、↑これは全部「嘘」なのです。
その人がしてきた「具体的なこと」は、せいぜいその人にとっての真実でしかないからです。
具体的な手段は、それが具体的になればなるほど、「その人」に密着したものになっていきます。なぜなら、具体的なものには、その人の「選択」(自己愛)が反映されているからです。
自分が好んで選択したものに、人は執着します。
幼児期に「○○ちゃん、どっちが食べたい?」などと、幸せいっぱいに語りかけられていた時期からこの「選択という自己愛」は発動していたはずです。そういう経験を何年も何年も繰り返していく中で、人は、大人になった頃には、もう完全に自己愛の奴隷となり果てているのです。
人は、何に対してでも自己愛を発動できるわけではありません。人が自己愛を発動できるのは「具体的なもの」です。もっと正確にいうと「具体的に選んだもの」です。たとえば、「民訴といえばこの一冊だ」とか「過去問は出題趣旨を徹底的に参照した」といったものです。
一方で、そういう「具体的なもの」でないものに対しては、人は執着することができません。
たとえば、「過去問(=問題と答え)が大事だ」とか、「条文が大事だ」とか、そういう客観的なもの、皆が当然やっている(と思い込んでいる)個性のかけらもないものに、人は執着できないのです。
なぜかというと、それは、あまりにも「あたりまえ」に過ぎることだからです。
あまりにも「あたりまえのこと」には、選択の余地がないからです。
選択できないものを、人は愛しません。
今まで、私は、本当のこと(=あたりまえのこと)を、繰り返し繰り返し、受験生に説明してきました。自分でいうのも何ですが、これ以上ないくらい懇切丁寧に、粘り強く「本当のこと」を語ってきました。しかし、それでも、ほとんどの受験生は、私の語る「あたりまえ」に、聞く耳を持ってはくれませんでした。聞く耳を持たずに、「具体的なほうへ」「具体的なほうへ」と逃げていってしまいました。
なぜ彼らは、私の「あたりまえ」話に耳を傾けてくれなかったのでしょうか。
なぜ彼らは、最初から最後まで、「具体的なこと」にしか興味を示さないのでしょうか。
それは、「あたりまえのこと」をしたところで、それでは少しも自己愛が満たされないからです。そんな「あたりまえのこと」をしても、少しも気持ちよくないからです。日々の勉強を気持ちのよいものにするには、「あたりまえのこと」なんかしていてはダメだからです。
合格者も同じです。せっかく合格したのだから、ひとまず「自分」は留保して、「みんな」に役立つことを語ればいいのに、ほとんどの合格者たちは、絶対にそうしようとはしません。自分がやってきたことを少しもアレンジせず、そのままの形で延々と語り続けています。「かけがえのない自分」が選択してきた、自己愛たっぷりの幼児的主張を繰り返しています。
試しに合格者のブログを見てみてください。そこに書かれているのは、「僕はこうしたのっ!」「僕はこうしたのっ!」のオンパレードです。
なぜ彼らは、私のような「あたりまえ」の話をしないのでしょうか。
なぜ彼らは、自分がしてきた「具体的なこと」しか語ろうとしないのでしょうか。
それは、「あたりまえのこと」を言ったところで、それでは少しも自己愛が満たされないからです。「かけがえのない自分」が聞いてもらいたいのは、具体的に語ることのできる「自分の話」だけだからです。抽象的な「あたりまえ」の話をしても、そこには「自分」が出てこないからです。話が「あたりまえ」になっていけばいくほど、具体的な「自分」が登場する余地がなくなっていくからです。そんなことをしていたら、少しも気持ちよくないからです。
受験生、合格者、彼らがともに「あたりまえ」から逃げるのは、そういう理由です。すべては「自己愛」(自分の選択)という利益によって決められているのです。
ちなみに、自己愛の反対利益は、あえていえば「真実」です。本当のこと、あたりまえのことです。そして、自己愛と真実は反比例しています。どちらかを取れば、必ずどちらかが犠牲になります。
正しい話は、正しいから正しいのであって、そこに「自分」が介在する余地はありません。話が正しくなっていけばいくほど、語り手(自分)の存在はどうでもよいものになっていくのです。
いえ、正しい話(あたりまえの話)には自分が要らない、というよりも、もっとはっきり言ってしまえば、自分を消去することができればできるほど、話は正しく、「あたりまえ」になっていくのです。
このように、自分の選択(=自己愛)と真実は両立しません。「自分の選択」と「真実」は、どちらか一つしか「選択」できないのです(あっ、ここにも「選択」が・・・)。
これが、司法試験という人生を賭けたビッグゲームがもつ、解決困難なジレンマなのだと思います。
最後に、その合格者がアドバイザーとしての資格を有しているか否かの判断基準を示しておきます。
優秀なアドバイザーは、「皆に必要なもの」と「自分に必要なもの」との区別ができている人です。自分の経験だけに頼ってものを語らない人です。
それができている合格者は極めて稀にしか存在しません。ほとんどの合格者が、プレイヤーとしてはともかく、アドバイザーとしては信頼に値しない存在です。
<判断基準>
・「自分がしたこと」だけを、延々と(多くの場合10個20個と)列挙している人
・「皆がすべきこと」と「自分がすべきこと(したこと)」を、明確に区別していない人
・そのうえで、「皆がすべきこと」を、明確かつ独立に抽出できていない人
・「皆がすべきこと」の中に、試験傾向に合った過去問と条文の2つを入れていない人
・「皆がすべきこと」の中に、過去問(問題と解答)と条文以外のものを入れている人
・自分が合格することと、皆が合格することは、全然別のことだと分かっていない人
該当項目が一つでもあれば、その合格者は信頼に値しないと思ってください。
そういう合格者の語る「確実に合格する方法」は、すべて嘘話です。このへんに十分気をつけて、その合格者の「自己愛」の発露に付き合ってあげてください。