司法試験情報局(LAW-WAVE)

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このブログの基本方針は、司法試験(&ロースクール入試)のレベルを過度に高く見積もらないこと、そういう「嘘」を言って自己満足に浸ったり、他の受験生を煽ったりしないこと、です。この点を重視していきたいと思っています。


そういうコンセプトから、今回は近年の新司法験受験生(ロースクール生)の勉強の目的意識の拡散について、おせっかいな指摘をしてみたいと思います。


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法学の勉強、あるいは勉強一般の「目的」は、試験という観点から分類すると、


①試験に役に立つ勉強

②試験に(少なくとも直接には)役に立たない勉強


この2つに分けることができるといえます。


もちろん、明確に分けることができない「グレーゾーン」もあるとは思います。

しかし、簡単に分けることができないものだからこそ、この2つの間に一定の線引きをしておくことは、自身の勉強をいたずらに「だらしないもの」にしないために、是非とも必要なことだと私は考えます。


「だらしない」というのは、いわば、自分に「嘘」をついて、目的-手段の関係をあえて曖昧にすることです。すなわち、「試験に役に立つことをしている」と自分に「嘘」をついて、そう自分を慰めながら、実際はそれと関係ないことをして安心する、といった心の有り様のことです。なんで関係ないことをして「安心」できるのかというと、それは「本当の目的から目をそらすことができるから」です。本当の目的を欲する焦燥感から一時逃れることができるからです。こういう歪んだ「正当化」を、私は「だらしない」と感じます。


今やっている勉強は、「①試験」のためのものなのか、それとも「②試験以上」のことをしているのか、ちょうど筋トレをするのにも、いま鍛えている筋肉の部位を意識するか否かで効果が違ってくると言われているのと同じで、自分の勉強が①を鍛えているのか②を鍛えているのかを明確に意識することは、勉強の効果をあげる上で必要不可欠のことではないでしょうか。


ところが、いまや多くのロー生が、上記①と②の目的を分けることなく、いわば「だらしなく」両者を混同・融合させてしまっています


たとえば、初学者の段階から過度に難しい基本書を選択したり、使用する教材も、基本書を複数読んだり、その他予備校本・判例百選・ケースブック・調査官解説etc… 「①試験に合格するため」にやっているのか、「②幅広く法的な素養を身に付けるため」にやっているのか、いったい何のためにやっているのか分からなくなるくらい、教材という一手段にすぎないものに、片っぱしから手を出し、その手を拡げてしまっています。


「②幅広い法的素養を身に付けるためにやっている」と自覚した上でやっているのならいいのですが、見たところ、ロー生の多くは、全ての勉強を、漠然と全ての目的に役立てようとしてるように見えます。また、「①試験に役に立つ勉強」という明確で重要な領域の存在自体を意識していないように見えます。


これは、「試験対策」が概ね受験界の常識として認知されていた旧司時代には、あり得なかったことです。旧司時代には、「そんな勉強していると受からないよ」と誰もが忠告・警告していたような勉強を、いまのロー生たちは、みな平気な顔でするようになっています


旧司時代と違い、受験生の勉強目的が「①試験に関係すること」以上に広がってしまったために、ロー生の目的意識が拡散してしまったのだと思います。


なお、ロースクール制度の正当性についての異見 でも書きましたが、私自身は、「①試験に役立つ勉強」だけが正当な勉強だと考えているわけでは決してありません。受験生たちが試験対策に汲々としていた旧司時代を理想としたいわけでも(必ずしも)ありません。

ただ、試験に受かる・受からないという大きな「溝」の存在を、その恐怖の大きさ故に、あえて見ないようにして、結果として、試験対策をしているかのようなフリをしながら、しかし、実際には試験対策になど到底なっていない「趣味的かつ逃避的な勉強」を、あるときは嬉々として、時には苦しみながら、延々と三振するまで続けている現在の多くのロー生たちの振る舞いに、強い違和感をおぼえるのは確かです。


別に、基本書を読むな、とは言いません。しかし、「基本書を読む」という行為が、一体どういう理由で「司法試験に合格する」という目的と関係するのでしょうか。そもそも、本当に関係などあるのでしょうか(別に「絶対ない」とまでは言いませんが・・・)。


こういった目的-手段の厳密な関係性を、ローという制度的権威や、「みんなもそう言ってる」的な、集団主義的な思考停止とは独立に、一度でも自分の頭で真面目に考えたことがあるのかなぁ・・・というのが、身近なロー生たちを見ていて私が率直に感じるところです。


もちろん、きちんと考えた上で、その人が「是が非でも必要だ」と感じたのなら、それはそれでいいのですが、私自身は、正直なところ(何度も真面目に考えましたし、合格者を含めて何人もの人に教えを仰ぎましたが)今に至るまで一度も、「基本書を読むことが司法試験に合格するのに“不可欠”な要素である」とする主張の論理構造を理解できたことはありません。「読んだほうがいい」という程度の関係性も納得できていません。せいぜい、「基本書を合格に役立てること“も”できる」という言い方なら、なんとか受け入れられるくらいです(ちなみに、私自身も「辞書」としてなら基本書は使っています)。


★基本書読みをはじめとするインプット学習と司法試験合格との関係性(あるいは無関係性)については、「基本書か予備校本か」という愚問 基本書を読んでも論文が書けるようにはならない 以上の2つの記事をご覧ください。


私には、現在のロー生たちは、みな一様に「背伸び」をしているように感じます。


総じて、自分ができないこと(-)には極端に無頓着で、できること(+)を広げていくことばかりに関心を持っているようにみえます。

結果として、(+)ばかりが異様に増えていき、一方で、巨大な(-)部分については放置されたまま、といった具合です。


譬えていえば、大きなビルを建てなければならないときに、土台(基礎工事)の構築などそっちのけで、ひたすら高さだけを追及してコンクリートを積み上げていくような、杜撰な工事をしている感じです。それで、いまさら基礎部分を補強しようとしても、積み上げられた上階部分が邪魔をしてそれも難しく、そもそも、基礎部分はコンクリートの壁で覆われてしまって、いったい「どの基礎」に欠陥があるのか、ちょっと見ただけでは、もはや分からなくなってしまっている・・・。


これが現在の多くのロー生が抱える「構造的欠陥」だと思います。


司法試験は、よく、加点法よりも減点法を軸とした試験だと言われます。いわば「引き算」の試験です。何がどれだけできていても、決定的な部分が一か所欠けていれば、それだけで不合格になってしまう、逆に、特に際立った部分がなくても、突っ込みどころがなければ合格してしまう、そんな試験です。


こういう試験では、(+)を増やすことよりも、(-)を減らす・無くすことを第一に考えなければなりません。そして、そのためには、勉強の範囲を「試験に関係すること」に厳しく限定し、その決めた範囲をひたすらブラッシュアップし、確実にしていく必要があります(あくまで、試験対策を目的とする場合は、ということです)。


私の友人で(新旧問わず)司法試験に短期で受かった人たちは皆、


①「試験に合格するために」何が必要か、という目的意識が明確 であり、

②そのための方法・教材などの手段を限定すること ができていて、

③その限定した範囲を徹底的に「潰す」という発想 をきちんと持っていました。



逆に、どれだけ「いわゆる実力」があっても、①目的意識の希薄な人、②教材を浮気しがちな人、そして、これは①②と同じことなのですが、③「潰す」という基準が緩い人、はなかなか上手くいかないケースが多かったように思います。


※①②③の関係について。

ひとつの教材を簡単に「潰せた」と錯覚する人ほど(③)、すぐに次の教材に移ってしまいます(②)。逆にいえば、一冊の教材を本気で潰そうと思っている人は(③)、そう簡単に他の教材に移れないのです(②)。そして、そもそも教材や方法を限定できるのは(②)、目的が明確に特定されているからです(①)。

目的が明確に定まっている人は(①)、目的に必要なものにしか手を出さないので(②)、目的意識というモチベーションも相俟って、徹底的に対象(手段)を潰しきることができます(③)。目的が不明確、ないし、目的が拡散すれば(①)、その手段も「だらしなく」増えていってしまいます(②)。


こんなことがありました。私の知り合いに、上位ロー既修の中でも、特別際立って「実力」がある人がいました。その人がある問題集を「潰した」と言っていたので、その問題集の中の重要問題(ある有名な過去問)について質問しようとしたのですが、なんとその人は、「そんな問題知らない」と、問題の存在自体を否定したのでした。

問題をしっかりと潰していない云々…といった話ではなく、問題自体を覚えていなかったのです。私は驚いたと同時に、そのとき初めて「手を広げること」の恐ろしさを知りました。


その人は本当に、周りも羨む文字通りの「実力者」でした。基本書を何冊も読んでいましたし、百選はもちろん、ケースブックなどの演習書も数多く勉強していました。最先端の理論など、ロー生が好きそうな分野にも強く、一方で、予備校の問題集などもきちんと(何冊も)やっていました。ローの教授にも一目置かれた存在であり、本当に何を聞いても的確に返答してくる「辞書」みたいな人でした。


しかし、こういう人が、なぜだか不思議と、本試験では失敗するのです。


失敗の理由はたぶん簡単で、こういう「実力者」はみな、共通して手を拡げすぎているという特徴があります。そのために、試験で一番重要な「基本」に、(本人も自覚できないまま)穴があいているのだと思われます。当時は、「こんな実力者がなぜ」と不思議な思いがしていましたが、今は特に不思議とは思いません。


多くのロー生を見ていて思うのは、ほとんどのロー生は、この「実力者」と同じだということです。

現在のほとんどのロー生もまた、目的意識を欠いた漠然とした勉強を好み、様々な教材に手を出し、それでいてどの教材も「潰す」ことをしていません。あえて違う点を指摘するとすれば、そう簡単にこの人なみの実力には到達しないというだけで、やっていることはほとんど全くといっていいほど同じです。


一言でいえば、何でもかんでもやっていて、それでいて、何ひとつ完璧にはしていない、ということです。


ロー生はよく、「やっぱり事例研究をやったほうがいいのだろうか」とか「いやロースクール○○だ」とか、判例の論理を詰めて考えなければいけないんだとか、最新の理論に精通していたほうがいいんだとかetc…こういったことを議論していますが、「受からないロー生」の問題は、そういうことでは全くないと思います。


すべては、ロー生の「目的」が方々に拡散してしまっていることから生じている、単純な現象なのです。手を拡げすぎて何ひとつ物にできていないのも、「基本」を修得できていないのも、すべて根は一緒で、「試験に受かるため」という目的に定位できていないことが、最大にして唯一の原因なのです。


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いま、ネット上には多くのロースクール生&卒業生のブログがあります。

その中には、(ここは本当に驚くのですが)旧司時代にはあり得なかったほどの「レベルの高い」ブログが、数多く存在しています。何冊もの基本書が「相当に読み込んでいるに違いない」レベルで書評されていたり、研修所レベルではないかと思うほどの要件事実論や、最新の三段階審査論などが詳細に検討されていたり、こういうのを見ていると、素直に「すごいなぁ」と思うと同時に、ある種の虚脱感をおぼえてしまいます。


また、この前聴いたのですが、(個人的に業界でも一二を争う論文指導者だと評価している)某講師 が、ガイダンスで「肢別本なんか数が少なすぎてあんなの潰しても大したことはない」といった趣旨の発言をされていました。

この先生も(「も」っていうのもなんですが)調べたら案の定、ロー経由の新司合格者の方のようです。この方の講師としての実力の高さは分かっているつもりですし、個人的にも一推しの先生なのですが、それでもやはり、肢別本を「大したことない」と言ってのけるその実力に「すごいなぁ」と感心すると同時に、またもやある種の虚脱感をおぼえてしまうのも確かです。


昔の私ならば、こういうのを、全て素直に、そして純粋に、「すごいなぁ」と感心し、そして畏怖したと思います。ですが、そう思うには、私もこの世界(司法試験受験界)のことを知りすぎました。


今ならはっきり分かります。


何冊もの基本書を読み、最新理論を云々しているロー生たち(のほとんど)は、ほぼ間違いなく、一冊の教材さえ満足に「潰し」てはいません。人によっては、基本中の基本事項にすら、ボコボコと穴があいているような状態でしょう。


人間の処理能力に限界がある以上、試験に関係する以上のことにここまでの時間と労力を割けば、どこかが「穴だらけ」になるのは当然のことです。不思議なことでもなんでもありません。


というか、こんなことをしていて穴だらけにならないほうが不思議なのです。


また、先ほどの肢別本を「潰す」ことを「大したことない」と言ってのけた某講師 は、間違いなく受験時代、教材を「潰す」という経験をしたことが一度もないはずです(もちろん、肢別本だってきっと潰していないでしょう)。

もし、彼がたった一冊でもいいから、特定の教材を「潰す」という行為を真剣にしたことがあるのであれば、それが実際にはどれほど困難で時間のかかる作業であるかは、絶対に分かるはずだからです。百歩譲って、もし、彼が肢別本を本当に「潰す」ことができていたのだとしても、いえ、そうであれば尚更、「簡単だ」などという言葉を、それこそ簡単に口にできるはずがないのです(←結構重要な事実です)。

結局、「簡単だ」という言葉は、教材を潰したことがない人にしか言えない台詞なのです。


ようするに、彼は、一冊も「潰す」ことなく受かったということです。純粋な新司合格者はもちろん、旧司では受からずに新司に移行してようやく合格することができた、いわゆる「旧司ベテ合格者」にこのパターンが多いです(ちなみに旧司ベテ合格者は、ほとんどの人が旧司受験の比重を現実よりも大幅に少なく申告するので注意が必要です)。

もちろん、試験は勝てば官軍ですから、彼がそういう「受かり方」をしたこと自体はそれで結構です。ただ、受験生は、その講師が「どのような受かり方をしたのか」を、きちんとチェックする必要があります。

手を広げたまま何ひとつ「潰す」ことなく勉強量だけで受かってしまった新司経由のベテラン合格者には、基本的に人に語れるような勉強法は何もありません(そういうものがないからこそ、手を広げたのです)。もちろん、受かった後に反省して、自分の「失敗」を糧に新たな勉強法を編み出す講師もいるでしょうが、「そのやり方」で受かってしまった人が、「そのやり方」を反省することは、普通はありません受験生はこの点にきちんと注意する必要があると思います。

本当は、すべて、一度でも真剣に考えてみさえすれば、およそ誰にでも分かるような、単純で簡単な話です。


にもかかわらず、現在の司法試験受験界では、こういった「様々なる意匠」が、方々に併存したまま、少しの収斂の気配もありません。みな、自分がどれだけ「背伸び」しているのか、何の自覚もないまま、それぞれがバラバラなことを平気でやっています。


こうなった最大の原因は、(旧司時代のような)共通の基準、あるいは「ミニマム・スタンダード」が、言い換えれば、受験界から明確な「目的意識」が、消失してしまったことにあると思います。


順を追っていうと、ロー時代になって、

①「試験に関係のない勉強」を大量にすることになった結果、目的意識が拡散

②目的意識の拡散によって、手段(教材)も拡散、「手を拡げる」ことが常態化

③受験界から、一冊の教材を「潰す」という習慣が完全消滅してしまった。


ということです。


こうして確実なものが何もなくなった受験界では、それぞれの受験生が、それぞれ好きなやり方をもって、(「確実に」ではなく)「確率的に」受かっていくことしかできなくなった、ということなのだと思います。


某受験雑誌に、ある合格者の体験談が載っていました。その合格者は、短答用の問題集として、メインの問題集を1冊、プラス、サブの問題集を2冊、合計3冊の問題集をやったということでした(そもそも、3冊もやってしまうという時点で、いかにも新司的な「拡散型」の勉強法なわけですが…)。
そして、その合格者がいうには、「メインの問題集については、徹底的に“潰す”ことを目的とし、(なんとなんとここ驚いてください→)
9割の正答率を目指した」そうなのです。

・・・「潰す」という概念のイメージがない方には若干分かりにくかもしれませんが、そもそも「正答」することと「潰す」ことは全く違います。「正答」は、「潰す」ことよりもはるかに簡単に達成できるレベルです(比較的問題数の少ない問題集なら、2回くらいやれば、正答率だけなら9割行くんではないでしょうか)。

この「正答」について、「9割」などという極めて低い水準を、あろうことか「目指した」、などと言っているわけですから、この合格者が自分のメイン問題集に傾けた情熱の希薄さが分かろうというものです。

現在の新司受験生が使う「潰す」という概念は、このように、極めて「軽~い」ものになっています。

こんなに軽ければ、たしかに何冊も「手を拡げる」ことができるよなぁ、と言いたくなってしまいます。

しかし、こんな時代だからこそ、逆に、明確な目的意識を持ち、目的と手段とを一定程度連関させる姿勢さえあれば、誰でも簡単かつ確実に合格をgetできる、そんな状況になっていると思います。


こういう考え方は、現在の受験界では少数派だと思いますが、過度に難しい勉強を好む多くの受験生や、ネット上やロースクールの「実力者」の存在にどこか疑問を感じている方には、何か届くものがあるのでは、と思い、少し長々と書いてみました。





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