●Tyler Cowen, “Neuroeconomics and trust”(Marginal Revolution, September 30, 2003)
フィナンシャル・タイムズ紙で(実験経済学から枝分かれした)ニューロエコノミクス(神経経済学)についての特集記事が組まれている。
記事の中では信頼ゲーム1の実験結果が紹介されているが、実験に参加した被験者の多くは協調的な行動を示したという2。その理由は何なのだろうか?
・・・バーノン・スミス(Vernon Smith)教授率いる研究チームは信頼ゲームが繰り広げられている最中にfMRIを用いて被験者たちの脳の活動を観測した。fMRIでスキャンした脳の画像によると、協調的な戦略を採用した被験者らの脳の部位で活発な活動を見せたのは前頭前皮質内側部(特にブロードマンの第8野と第10野)のあたりであった。脳のこの部位は他人の精神状態や動機を予測したり、将来的にもっと大きな報酬を手に入れるために(快楽などの)報酬の享受を先送りしたりする機能と関わりがあることが知られている。一方で協調的な戦略を採用しなかった被験者らの前頭前皮質内側部は実験中に活発に活動することはなかったという。また、実験では人間ではなくコンピュータを相手とした信頼ゲームも実施されたが、自分の相手がコンピュータであることを知った上で実験に参加した被験者についても実験中に前頭前皮質内側部が活発に活動することはなかったということだ。
先にも触れたように、信頼ゲームにおいて被験者の多くが協調的な戦略を採用する理由を互酬性(reciprocity)3に求める意見があるが、fMRIを用いた実験の結果はそのような解釈と整合的なものだとスミス教授は語る。協調的な戦略を採用した被験者たちは(前頭前皮質内側部を働かせて)相手がどのような反応を示す可能性が高いかを思案し、その上で相手を信頼しようと決断したというわけである。
ニューロエコノミクスの研究は脳スキャン頼りというわけではない。実験の過程では脳の活動を観測するだけではなく、脈拍数や皮膚電気活動、体内のホルモン濃度などの測定も試みられており、そのような様々な手法を通じてこれまでに多岐にわたる事実が発見されてきている。排卵日にあたる女性はその他の人々と比べると信頼度が低い(信頼できない)というのもそのような事実の一つである。
おそらく引用の最後で触れられている「事実」が気になることだろう。こういう事情のようだ。
ポール・ザック(Paul Zak)教授が実施した信頼ゲームの実験では、(「受け手」の役割を務めた)排卵日にあたる女性はその他の人々に比べるとずっと少額のお金しか「送り手」のプレイヤーに渡さなかったという。そういう意味で排卵日にあたる女性は(少々荒々しい表現を使うと)信頼度が低い(信頼できない)というわけだ。ザック教授は語る。「この結果は生理学的には次のように説明できます。排卵日の周辺ではプロゲステロンが大量に分泌されますが、そのためにオキシトシンの働きが弱められることになるのです4。また、進化生物学的には次のように説明できるでしょう。(排卵日にあたることもあって)妊娠しやすい状況では、自分が他人に信頼されていることを仄めかすシグナルに過剰に反応しないよう特に慎重になる必要があります5。また、妊娠しやすい状況ではできるだけ資源を手放したくないと考えることでしょう6。」
ザック教授も指摘しているように、「信頼」は経済発展を支える重要な役割を果たしており、それゆえオキシトシンの働きを含めて生理学的な観点から信頼についての理解を深めることは経済発展を促す上でも極めて重要な意味を持っていると言えるだろう。ザック教授の研究はタイの日刊新聞であるバンコック・ポストでも取り上げられているが、そこでは次のように紹介されている。「オキシトシンの分泌はマッサージや食事、セックスを通じても促されるということだが、これらはいずれもタイ人の大好物だ。タイ経済の前途は明るいと言えよう。」
私の同僚であるケビン・マッケブ(Kevin McCabe)がニューロエコノミクスをテーマとしたブログを始めたばかりである。興味がある向きは是非ともチェックされたい。
- 訳注;記事で紹介されている信頼ゲームの具体的な内容は次の通り。まずはじめに一人のプレイヤー(「送り手」)に10ドルが原資として手渡される。「送り手」は2つの戦略のうちどちらか一方を選択する。一つ目の戦略は「10ドルを自分の手元に置いておく」であり、「送り手」がこの戦略を選べばゲームはその時点で終了する。二つ目の戦略は「もう一人のプレイヤー(「受け手」)に10ドルすべてを渡す」であり、「送り手」がこの戦略を選べば10ドルの4倍である40ドルが「受け手」の手に渡ることになる。仮に40ドルが「受け手」の手に渡った場合、「受け手」は2つの戦略のうちどちらか一方を選択する。一つ目の戦略は「40ドルすべてを独り占めする」であり、二つ目の戦略は「40ドルのうち15ドルを「送り手」に渡す(自分の手元には25ドル残す)」である。「送り手」がどちらか一方の戦略を選択した時点でゲームは終了する。なお、「送り手」は「受け手」が誰であるかを知らず、2人が顔を合わせることはないものとする。 [↩]
- 訳注;標準的な経済学の予測では、「送り手」は「10ドルを自分の手元に置いておく」を選択するものと考えられる。というのも、2人は顔を合わせることがなく、それゆえ40ドルすべてを独り占めしても「送り手」から制裁を受ける恐れがないため、「受け手」は40ドルすべてを独り占めするに違いないからである。「送り手」もそのことがわかっているため、「送り手」は「「受け手」に10ドルすべてを渡」して手元に何も残らない羽目に陥るよりは「10ドルを自分の手元に置いておく」ことで10ドルを獲得する道を選ぶものと予測されるのである。しかしながら、記事で紹介されている実験では、「送り手」(の役割を務めた被験者)の半数が10ドルを「受け手」(の役割を務めた被験者)に渡し、「送り手」から10ドルを受け取った「受け手」の4分の3が(40ドルのうち)15ドルを「送り手」に返したということである。 [↩]
- 訳注;互酬性=「こちらが好意を示せば、相手も好意で報いてくれるに違いない」と考えた上で相手に好意を示す(相手を信頼する) [↩]
- 訳注;オキシトシンの濃度が高い被験者ほど信頼ゲームにおいて協調的な戦略を採用する可能性が高いとの実験結果が得られている。また、オキシトシンの濃度は他人から信頼されていると感じると高まる傾向にある。信頼ゲームで「送り手」からお金を渡された「受け手」は自分が「送り手」に信頼されていると感じ、その結果として「受け手」のオキシトシンの濃度は高まることになる。そしてオキシトシンの濃度が高まった「受け手」は「送り手」にお金の一部を戻す(「送り手」から寄せられた信頼に報いる)ことになる。排卵日にあたる女性はプロゲステロンの大量分泌によってオキシトシンの働きが弱められるため、「送り手」からお金を渡されても(信頼されても)オキシトシンの濃度はそれほど高まらず、そのため「送り手」に戻すお金も少ない(「送り手」から寄せられた信頼に報いる程度が弱い)ということになる。 [↩]
- 訳注;おそらくは男性に簡単に引っかからないようにするために排卵日にはプロゲステロンが大量に分泌される仕組みになっている(進化の過程でそうなった)という意味なのだろう。排卵日にあたる女性の体内ではプロゲステロンが大量に分泌され、その結果オキシトシンの働きが弱められることになるわけだが、オキシトシンの働きが弱まることで男性から優しくされても(自分のことを信頼しているかのような素振りをされても)それに簡単に応じることはなくなる(応じるというのは子供を授かる行為に同意するということ)。男性に引っかかると一番危険な時期(妊娠しやすい時期)にプロゲステロンのおかげで(優しくしてくる)男性に厳しい眼差しが向けられる格好になっているということなのだろう。 [↩]
- 訳注;おそらくは体内にいる子供やもうすぐ生まれてくる子供のためにもできるだけ多くの(食料をはじめとした)資源を確保しておく必要があり、その必要から(たとえ他人から信頼されてもそれに簡単に報いないという意味で)ケチになっている(プロゲステロンの大量分泌を通じてオキシトシンの働きが弱められている)という意味なのだろう。 [↩]
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