よもちかブログ

「私の世界」の話をしよう。

男らしさの鎧を脱ぎ捨てる「男性学入門」

先日、こちらの本を読みました。「男性学入門」です。

男性学入門

男性学入門

 

 

読んでみて思ったのは「男性も大変なんだなぁ」ってことです。男らしさという鎧を身にまとって、苦しい思いをしている人が多い、と書いてあって、なるほどと思いました。女性も女らしさに縛られると苦しいけど、男性も男らしさに縛られると苦しいのは同じで、「男(女)らしさ」っていうのはロクなもんじゃないなーと感じたのでした。

 

本のなかで一番衝撃だったのは、「いじめ自殺は圧倒的に男子生徒が多い」という項目でした。男の子は、強さとか逞しさとか、そういうものを求められてしまうので、外部に助けを求めにくく、ギリギリまで頑張って、そしてプツンと切れてしまう。そうやって自殺や犯罪など、自己破壊的な行動に出てしまいやすいのだなぁと思って、なんだかすごくつらい気持ちになりました。そんなに頑張らなくたっていいのに、助けを求めたっていいのにって思うのですが、「男らしさ」に縛られていると、難しいのかなと想像しました。

 

本のなかにはこんな記述があります。

「“客観的で合理的”な視点をもち、泣き言を言わず一人で堪え、他者、とくに女に対して庇護(ほんとうは支配)できる力をもっているのが一人前の男である」といった、<男らしさ>への男たちの“思い込み”によって、女たちはこれまでさまざまな「迷惑」(というより被害)をこうむってきた。しかし、男たちは、女性たちの批難に耳を貸さず、この重く窮屈な<男らしさ>の鎧を、ときには生命を賭けて守ってきたのである。

 

私はこの文章を読んで「そう、これこれ」と思いました。男らしさは男性にとっても窮屈で重いだろうし、女性にとっても迷惑なものだしで、まさに「誰得」な状態だよなぁって感じるのです。女らしさも、女性にとっては窮屈で面倒くさい上に、男性にとっても負担の増える状態に持ち込まれてしまう面倒臭いものだと思います。こちらも「誰得」です。

 

男らしくとか、女らしくとか、そういう自分が選択したわけではない偶然持って生まれた性別の型(しかも男はこう!女はこう!と偏見に満ち溢れた型)に嵌められるのは、男女関係なく不愉快なものだと思います。少なくとも私は不愉快です。私は身体的にも社会的にも女性ですが、おしとやかではない言葉だって使いたいし、身体の線の出ない中性的な服を着たいと思うし、ピンクよりはブルーが好きだし、ヒールの靴よりスニーカーが好きだし、坊主頭にしたいときだってありますし、化粧はなるべくしたくありません。でも可愛いものは好きだし、アロマキャンドルハーブティーにワクワクするし、ケーキは大好物だし、料理はあまり得意じゃないけれど掃除は大好きです。そういう嗜好や性質は、男らしいとか女らしいとかいう枠で考えるのではなく「自分らしい」という言葉で捉えたいなと思います。

 

だから男性も、男らしさに捉われず、自分らしく生きてくれたら、みんなが得だよなって思います。弱みを見せたっていいし、感情的になってもいいし、“客観的で合理的”でなくってもいいと思います。なぜなら人間は不合理なものだし感情的なものだし主観的なものだからです。自分のなかの人間らしい部分を否定していたら苦しくなってしまいます。

 

上記の本は、ちょっと難しいことも書いてあって、ちゃんと読みこなすことが出来たわけではありませんが、全体的に面白くてためになる本だなって思いました。

 

よもちかでした。