朝テレビを付けたらワールドカップをやっていた。
この言葉を言うのは少し忍びないのだけど、実は自分はワールドカップ、そもそもサッカーにまったく興味がない。話のネタにニュースのハイライトみておしまいって感じ。
どうも今日の結果はギリシャ相手に引き分けて結構厳しい状況らしい。
あんまりサッカー知らないので、コートジボワールとかギリシャとかって言うてたいしたことないから余裕なんじゃないの? とか思ってたら、聞いてビックリしたのだけど、FIFAランキングとかとかだと、ギリシアとかコートジボワールとか日本よりずっと上らしい。
欧州圏はサッカー強い、って言うけれどなんかすごく納得いかない感ある。
あんなに毎年毎年、国をあげてサムライブルーだのニッポンだの何だの盛り上がってて、絶対的な人口とか練習環境も圧倒的に有利で、スポンサーもたんまりついて、何一つ不自由ない環境でプロとしてやってるはずなのに、全然日本弱い。なんで成長しないの??感覚的にベスト8常連、たまに金メダルみたいな感じだと思ってたのに全然違うじゃん。何これ。
方やギリシャなんてついこないだまで、経済難で国家まるごと破綻の危機に瀕してて、公共インフラは止まるは、暴動で火炎瓶は飛び交うわとかやってて、サッカーの練習とかしてる気配ないけど、さくっと日本より強いっていうのはなんだかすごい不思議な感覚がするのだ。
設備や環境や資金の面で日本が何一つ負けてる要素ないのになー
って思ったら、LINEの田端さんがFacebookでまさにの面白い投稿をしていたので引用。
田端 信太郎 1時間前 · 編集済み ·
今日の試合の勝敗に関わらず、はっきりしたことがある。こんだけ国を挙げても、日本のサッカーは、なかなか急にはレベルが上がっていないということだ。でも、考えてみても面白いのは、人口では劇的に勝る中国もインドもサッカーは激弱。人口や経済力とサッカーの強さは無関係のようだ。つまり「文化」(の蓄積)が足りないということなのだろう。文化というのはカネでは買えない。促成栽培もできない。 ずっと以前に、バリ島に休暇で行き、妻の希望もあって現地の料理教室にオプショナルツアーで参加した。料理教室は、朝6時にホテルに迎えのクルマがやってきて市場に仕入れに行くところから始まる。スミニャックあたりの魚市場に行って、私は驚愕した。魚市場なのに、氷もなく、市場の商人たちは早朝とはいえ、強い日差しの当たる日なたに魚を晒して、ハエが魚にタカるのを追い払う気も見せない。 そうか!これでは生魚を食べれば当たるに決まっている!そう私は直感した。決して料理人の腕の問題ではないのだ!と。(実際に妻はサラダで食あたりになった。。) つまり、刺身クオリティの生魚が食べられるということは漁師から仲買人、運送業者、小売業者、料理人全てのプロセスで「生魚とはこう扱われるべき」という当たり前のレベルの積み重ねがあって初めて可能になる、文化的なことなのだ。 文化というのは、つまりは、これぐらいはやって「当たり前」と思われて共有されていることのレベルが高い、ということなのだな、とそのとき肌身に染みて分かった。 皆さんがサッカーに対して「当たり前」と思っているレベルはなんだろうか? 代表ユニきて騒ぐこと?ではないはずじゃなかろうか。 〜SFOにてW杯試合前の君が代を聞きながら。
田端 信太郎 - 今日の試合の勝敗に関わらず、はっきりしたことがある。こんだけ国を挙げても、日本のサッカーは、なかなか... | Facebook
田端さんは、目に見えない「文化」の蓄積が決定的なレベルの差だ、と言っていてバリ島での生魚の取り扱いを日本と比較して例としてあげていた。確かに日本人であればこの生魚への振る舞いは素人目に見ても信じがたい!と思うだろう。このように日本では「生魚の取り扱いに対する当たり前」のレベルが高い、ということが結局世界的にも評価の高い寿司や刺身といった料理を生み出すことにつながっている、というのだ。
すごくしっくりきた。
文化と言うと高尚な感じがするが、これはわかりやすく言うと僕は「全体の構成が見えている」ということだと思っている。
つまりその人が、全体の構成を見ているか局所的な目線で見ているか、というのが結局物事のレベルに大きく影響するのだ。
先の魚の例で言うと、漁師は魚を釣って、港まで持って行くところまでが仕事。
仲買人は競りを仕切るところまで、運送会社は魚をお店に運ぶまで、小売業者は魚を店に並べるまで、料理人は魚を裁いて料理するところまで。
それぞれ全く仕事の内容は違う。だからそもそもで言えば、漁師は魚を釣って港までもっていくのが仕事なのだから、考えることはいかに魚をいかにたくさん釣るかであって、魚の鮮度や魚料理についてあれこれ考える必要はない。それを考えたところで、それがじゃあ明日俺が釣れる魚の総量に差がでるのか?ってなる。
同じように料理人も魚なんて単なる食材のひとつでしかないんだから、魚が手に入ればそれで仕事ができるわけで、魚の生態やら流通やら漁師のことを知ったところで何かすぐに変わる訳でもない。
でも、日本だったらそんなことはない。漁師は自分たちの釣った魚が最後にはどのように消費者まで届くのかの全体像を理解して後々の流通や食卓へ並ぶ最適なタイミングにまで思慮を張り巡らせているし、料理人もまたしかりである。
自分たちのやっていることが、全体のエコシステムの中でどういう位置づけなのかという全体の構成を理解していて、その上で自分の専門領域に特化している。
特化しているところ、例えば漁師が魚を釣る部分の技術力に関しては、日本の漁師もバリ島の漁師もそこまで差がないかもしれないし、場合によってはバリ島の人たちが簡単に魚を釣るのかもしれない。
でも、それだけだ。魚をつかった料理の生産から末端までを描いている上で魚を釣っている人間と単に魚を釣っているだけの人間とでは、おいしい魚料理を消費者に届けるという行為において言語化すらされない節々の所作で圧倒的に差がでるだろう。
日本のサッカーもこういう感じなのかもしれない。
全体のコンテキストの中で自分が関わる位置づけを理解した上で目の前のことに取り組む、
これは料理やスポーツだけでなく、ビジネスにおいてもとてもとても大事なことだと思う。
昔から自己啓発にあるあれだ。
何も言わず指示通りに闇雲にレンガを並べさせるだけでは人は心が折れてしまう。
でも、レンガでつくられた教会をつくろう、まずはこの部分からだ、という全体像を示してあげると、レンガを組み立てる大きな目標ができ楽しくなるし、教会をつくるんだったら、こうした方がいいよな、といった工夫やアイディアが湧いてくる。
やっていることは同じレンガを組み立てるという作業なのに、できあがるのは圧倒的に違うだろう。
ビジネスにおいてもこの差は同じように決定的に出ると思う。
そしてこういう全体の構成が見えている、という人こそ本当に希有な人であり得難い人材なのだ。
自分はそういう人をめざさないといけないし、またそのような人を見抜く能力が必要なのだろう。