2014年06月20日

フィクションにおける嘘はどこまで許される?(前編)

『美味しんぼ』問題に関連して。

 僕が今、ハマってるマンガに、森薫『乙嫁語り』がある。
 前から存在は知ってたけど、読んだことがなかった。少し前に、ある番組で紹介されていて興味を持ったもんで、本屋に行って買ってきた。


 とてつもないマンガだな、おい!
 服や絨毯などの細かい柄をすべて手描きしているのもすごいけど、僕が衝撃を受けたのは第一話で、ヒロインのアミルが馬を駆りながらウサギを射るシーン。驚異的なデッサン力、素晴らしい躍動感。これには恐れ入った。マンガの、それも絵だけで息を呑むなんて、いったい何年ぶりの体験だろうか。
 家に持ち帰ったら、妻も録画していた同じ番組を観ていて、
「何も言わんでも、あんたが買(こ)うてきてくれるんとちゃうかなー、と思てたわ」
 うむ、以心伝心!

 妻の感想は「すごく分かりやすい」「すらすら読める」。それは分かる。19世紀の中央アジアという、日本人になじみの薄い設定、それに絵の情報量の多さにもかかわらず、読んでいて「ここはどうなってるんだろう」と詰まるところがない。リーダビリティが高いのだ。
 たとえば士郎正宗とかもすごく絵は上手いんだけど、アクション・シーンでコマとコマの間が抜けてるもんで、何が起きてるか分からなくて悩むことがちょくちょくある。そういうところがない。
 最初、女性キャラの顔が似てるもんで、「これ描き分けられるのかなあ」「誰が誰か分からなくなって混乱しないか」と心配したんだけど、それもなかった。
 画力、プラス、分かりやすさ。これは驚異だ。
「これはプロの仕事やねえ。趣味でマンガ描いてる人間には真似できひんよ」と妻は言う。でも、そうなんだろうか。これって究極の趣味のマンガじゃないんだろうか。あの服の柄だけ見ても、好きでないと描けないと思うんだけど。

 ……とまあ、ここまではほのぼのした話題だったんだけど。

 ある人から、『乙嫁語り』には批判の声があると聞かされた。歴史に詳しい人たちの間では、あのマンガの評判は芳しくない、「歴史的に間違いだらけだ」というのだ。

 はあ?

 いや、あのマンガって、最初に「19世紀 中央アジア」ってナレーションされてるよね?
 僕はあのアバウトなナレーションで、作者が「歴史的に正確に描くつもりはありません」と宣言していると解釈したんだけどな。中央アジアったってむちゃくちゃ広いし、19世紀ったって100年もあるのだから。
「19世紀 中央アジア」というのは、正確な時代や場所を特定しない、つまりファンタジーですよという意思表示だと思うのだが、なぜそれを読み取ってあげないのだろうか。

 だいたい、「歴史的に間違いだらけ」なんてことを言い出したら、時代劇マンガやテレビ時代劇は全滅ではないか。江戸時代なのに既婚女性が誰もお歯黒つけてない時点で、みんなアウトだ。侍が髷を結ってない、それどころか現代の若者みたいな髪型してるキャラがぞろぞろ出てきて、現代人と同じ口調で話す。戦国時代の武将が乗っている馬がサラブレッドだったり。
 しかし、日本史の専門家が『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』や『遠山の金さん』や『一休さん』を非難してるという話は聞いたことがない。たぶん『アルプスの少女ハイジ』や『母をたずねて三千里』とかも、歴史に詳しい人が見たら、間違ってるところは絶対にあると思う。でも、それに腹を立てる人はいない。
 テレビ番組やマンガだけじゃない。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」とかも、時代考証的にはまったくデタラメである。
 なのになぜ、『乙嫁語り』が非難の対象になるのだろうか?

 時代物に限ったことじゃない。
『ゼロ・グラビティ』はすごく面白いSF映画だったが、あの映画の科学的間違いを批判する声があると知って不思議に思った。
 もちろん『ゼロ・グラビティ』にも間違っている点はいくつもある。しかし、もっと大きな科学的間違いのあるSF映画なんてゴロゴロしてるのに、なぜよりにもよって『ゼロ・グラビティ』が批判の的になるのだ? 『アルマゲドン』なんかその100倍ぐらい批判されなきゃおかしいはずなのに。
 知り合いのお医者さんの話によると、手塚治虫の『ブラック・ジャック』は割と医者の間の評判がいいらしい。さすがにロボトミーを扱った時は抗議がきたけど、人間を鳥に改造したり、宇宙人の手術をしたりといった突拍子もない話は、医学的にありえなくても、お医者さん的にはOKらしいのだ。
 どうやら荒唐無稽な作品は許容されるが、リアル(に見える)作品ほど「許せない!」と腹を立てる人が出てくるらしい。
 テレビ時代劇の場合、あれはもう日本人にとってスタンダードになっちゃってて、今さら「間違ってる」などと批判するのは野暮である……という認識が浸透してるんだと思う。

 僕が好きなマンガ、徳光康之『濃爆おたく先生』(講談社)にこんなシーンがある。
 巨大人型兵器という設定の不合理性を列挙し、『ガンダム』を「SF失格」と主張するSFマニアの千巣負湾打(せんすおぶわんだ)。それに対して、主人公の暴尾亜空(あばおあくう)がこう反論する。

「なるほど、キサマの言うことは正しい。
 では、今の話と「一年戦争」の他のSF的不合理を改め、
 小説か漫画、アニメなりで作り直したとして、
 そこに、
 そこにワンダーはあるのかい。
(中略)
 いいかッ、キサマが語っているのはSF考証であって、
 SFそのものではない!
 そこにワンダーはかけらもない!
 極論すればSFとはワンダーであり、ワンダーとはおもしろいデタラメだ!
 その「1」のデタラメをデタラメでなくワンダーと感じさせるための「99」のSF考証が確かに必要だッ!
 だがッ、その逆では決してない!」


 僕はこの考えに同意する。というのも、僕自身が「面白いデタラメ」をコンセプトにした作品ばかり書いてるからだ。『時の果てのフェブラリー』も『神は沈黙せず』も『地球移動作戦』も『MM9』もみんなそう。
 もうじき単行本になる『プロジェクトぴあの』もそうだ。『地球移動作戦』の前日談で、ピアノ・ドライブの発明者、結城ぴあのの物語。アイドルにしてマッドサイエンティスト。ありえねーよ!(笑)でも面白いよ。
 今書いてる『BISビブリオバトル部』は、SFではなく現実寄りの話ではあるけど、それでも監修していただいている立命館大学の谷口忠大先生(ビブリオバトルの考案者)に「こんな頭のいい高校生いませんよ」と言われてしまった。分かってますから! フィクションですから!

 だいたいフィクションが学問的に完璧に正しくなくてはいけないっていうんなら、そもそもSFなんか書けない。「光より速い宇宙船」が出てくるだけでアウトだ。タイムマシンも巨大怪獣も超能力も日本沈没もみんな大嘘だ。
 もちろん作者は、その大嘘を、さもありえるかのように、もっともらしく語らなきゃいけない。そして読者の側も、嘘を嘘と知りつつ楽しむスキルを要求される。面白い嘘なら「騙されてあげよう」と思う。
 ジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』とかも、あのラストの謎解きは明らかに科学的に間違っている。でも、それまでの物語が知的でエキサイティングだったから許せるのだ。「間違ってるけど、この結末は面白いからOKだ」と。
 優れた作品に対して、「科学的に間違ってるから許せない」とか「歴史的に間違ってるから許せない」とかケチをつける人は、フィクションを楽しむスキルに欠けてるんじゃないかと思うんである。科学考証とか歴史考証というのは、話をリアルに見せて面白くするための要素にすぎない。
『ゼロ・グラビティ』が面白かったのは、可能な限り科学的に正しく宇宙を描写することで、ヒロインの置かれた状況が絶望的なことを印象づけていたからだ。科学的に穴だらけの話だったら、安直な展開がいくらでもありえるわけだから、あれほどの緊張感は生まれなかっただろう。時代物の考証だって、正確に時代を再現することでリアリティが増して面白くなるのなら、いくらでもやればいいと思う。
 逆に言えば、作者が「事実じゃないけど、こっちの方が面白い」と考えたのなら、科学的・歴史的に間違ったことをやってもいいはずなのだ。
 フィクションにとって重要なのは、「面白いか面白くないか」だ。

 あっ、言うまでもないけど、「面白いデタラメ」でないとダメだからね? つまらないデタラメは、ただのデタラメ。つまらないデタラメを書いておいて「フィクションですから」と開き直られては困る。


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