なんかね、ものすごい勢いとレベルで世界が「正しく」なっていっている気がするんだよね。
ヤジの件なんて一昔前には問題にもならなかったよね。これは情報化社会の典型的な効果なんだと思うわけですよやっぱり。
そりゃね、堅苦しい世界ですよ。冗談も言えない。ありとあらゆる場所が公共の場と化しているものね。友達と電車内で交わしたちょっとした会話ですらセクハラだ差別だと非難されたりしてね。
それは、正しさの代償として仕方のない犠牲なんですよ。
ただね、一つだけこの社会において大事なものが欠けていると思うんですよね。
誰しもが100%の正しさを持つことは不可能だから、正しくないことを必ずやってしまうんですよ。そのことを烙印にしてはいけないよねって。
ちょっと前の食い逃げ事件でしきりに「こんなことで一生棒に振るような晒しをすべきでない」という方向の擁護(あるいは晒し批判)があったんですよね。そこでふと立ち止まって考えると、僕たちが「過去の過ち」に対して取り返しのつかないものだと考えているのであれば、それは最終的には優生学的な断種に至る道なんじゃないかって思ったりもするんですよね。
そうじゃなくて、もはや過去に何かをやらかしたらそれが明らかにならないことはありえない、という社会になりかかっているわけじゃないですか。ってことは、それを前提とした社会を構築していかなければならないというのが僕たちのミッションなんじゃないかな。
じゃないと、誰かの正しさが世間の価値観や個人の自由を完全に縛る世界にしか帰結しないんじゃないかな。そうじゃなくて、問題が起きたらそれを解決し、個人の属性から問題を外していく、つまり、「適切に赦していく」ことがないと、単なる息の詰まる社会の出来上がりなんじゃないかなー。
正しさの変質を許さない正しさがあったとしたらそれは本質として正しくないよね、とも思ったりします。