2014年06月20日
とんでもない間違い
やってくださいました。
わたしの教学には己義がどうのと散々、言ってき方が。
ありえない間違いをね。
私たちの胸中の「御本尊」は「仮諦の本尊」です。
ですって。
どうしたら、こういう解釈になるんでしょうかね。
我々の胸中にある御本尊が仮諦であるなら、
空仮中の三諦が揃った、御本尊に唱題したところで、
仮諦の部分でしか感応できませんから。
何があっても成仏などできません。
こんなことは、少し思索すれば気づけることでしょう。
ゆえに、我々の胸中にある御本尊も
空仮中の三諦が揃った、御本尊であるということが事実です。
戸田先生の指導を拝しても、
こんなことは常識中の常識ですよ。
空仮中の三諦などというと、ちょっとわからないでしょうが、これは空諦、中諦、仮諦と、仏法哲学において、この世の中の実相がどういうものか、われわれの命がどういうものであるか、ということを考える考え方を根幹として、「空仮中の三諦」というのがあるのです。これは、天台大師の師匠である南岳(なんがく)大師が考えだした哲理なのです。
このなかで、私がこうして生きているのは、仮の実体です。私はこのままかといってもそうはいかないでしょう。もう十年もたって、私がもし生きて六十七歳にもなったら「先生、ずいぶん変わりましたね」ということになるでしょう。
しかしこれだって、私は二十歳のころは美男子だったのです。そしたらその美男子と、いまのように美男子でないのと、どちらがほんとうなのか、それはどちらもほんとうです。ですから仮の実体というのです。いまのは仮の実体としか見えません。これを仮諦といいます。
空諦とは、あるといえばある、ないといえばない、こういうところのものを有無にかかわらず、真の実在をば空諦というのです。私の生命も空諦です。おまえはおじいさんの時があるといえば、それはいまはないでしょう。
たしかにおじいさんではない、私は青年です。しかしおまえは赤ん坊の時はなかったかといえば、なかったのではない、あったのです。そうなると生命は空であります。
それであって戸田城聖は中道法相(ちゅうどうほっそう)、戸田城聖は厳然として永遠にそなわっている、これが中諦であります。
この御指導のどこに、我々と変わらなかった、肉体を持たれた戸田先生が
「仮諦の本尊」だと仰せでしょうか。
もちろん、肉体とか我々が持っている認識能力で見ることのできる姿かたちというものは、
仮諦であるということは、その通りです。
しかし、目に見えない生命の部分を含めると、
当然、我々の胸中にある御本尊も空仮中の三諦が揃ったものであることは間違いありません。
きちんと一生成仏抄にも明確です。
抑妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり、然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無にへんして中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり、此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く
この方の御本尊への理解はおかしい。
ちょっと宗門時代との混乱期の影響がある。
そう感じていましたがね。
でもよくわかりました。
こういう解釈をされていれば、外道になっていたのだから、仕方ない、とね。
もうね、御本尊という最も大事な部分で
こうした誤った解釈をしていることが恐ろしい。
こういう己義をさも正しそうに語っていることで、
それを読んだ人が、「そうなのか」と思う。
それがいかに恐ろしいことか、きちんと認識されたほうがいいですね。
一生成仏抄に曰く――
只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり
この御文にあるとおり、そもそも「心も及ばず語も及ばずと云う事なり」であるのだから、
言葉で説明など出来ようはずがないのである。
それを偉ぶってするから、こういう間違いを犯すのでしょう。
浅ましい凡夫がわかろうはずなどない。それが真実ですよ。
それでもあえて伝えやすく言うなら――
曼荼羅御本尊も、我々胸中の御本尊も中道一実ということです。
その中道一実を言葉で説明するために、
空諦、仮諦という言葉を用いざるを得なかったんです。
言葉のもつ限界とはそういう部分にあるんですよ。
妙法は一仏乗ですよ。
すべて欠けることなく備わっているんですよ。
妙とは円満ですよ。
それなのに、事もあろうか――
私たちの胸中の「御本尊」は「仮諦の本尊」です。
とは、何事ぞや。
私はこういう点も、きちんと記事にしましたが、読んでおられなかったのでしょうね。
また、ある人が“観心”について質問したときにも、戸田先生は「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり」との御文を拝し、(中略)
大聖人の御意をもって拝するならば、「己心を観じて」とはすなわち御本尊を信じるの義であり、「十法界を見る」とは妙法蓮華経を唱うる義であることを明確にされた。
その結論は、ただ御本尊を信じて妙法を唱えれば、御本尊の十法界はまったく己心の十法界と合して一なりと観ずることができる――これを末法の観心というのである、とのお話であった。
要するに“観心”とは信心である。
普通に読めば感じ取れるはずですよ。
観心本尊とは、日蓮大聖人が顕された文字曼荼羅御本尊を拝し、信じたうえで
唱題しているときにしか観心本尊できない。
そういうことであると。
勤行・唱題しているときしか観心本尊できない。
そう師匠は仰せです。
一生成仏抄にもそうあります。
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
我が胸中の御本尊(一念)は、大聖人の御本尊(一念)と同じであると信じます!
そう唱えなさいと言われているじゃないですか。
いいですか、唱え、読むんですよ。
ということは、声に出し、御本尊を拝見しながらということですよ。
胸中唱題も悪くはないが、まず基本は御本尊を拝して、題目をあげることです。
戸田先生は、きちんとそこまでご指導くださっていますよ。
声仏事を為す、耳根得道、開目抄ですよ。これが揃って本当の観心本尊ができるんです。
それなのに、事もあろうか――
私たちの胸中の「御本尊」は「仮諦の本尊」です。
とは、何事ぞや。
確かに、「空」論は、仏法の法理としては非常に難易度の高いものであるから、
誤解釈している人は多いでしょう。
でも、これはヤバイ発言ですよ。
間違った我見もここまでのレベルになると、恐ろしいです。
というか、もうこれ邪義でしょ。
きちんと学ばれることをお勧めしますよ。
見て見ぬふりはしませんよ、私は。
何十年信心してきたから信頼できる。
そんなことはないのですよ。
きちんと学んでいない人は何十年信心しても、間違った信心をしているのです。
気をつけていきましょう。
正直ね、読んでいて寒気というか恐怖を感じましたよ。
なぜ、ここを間違える……と。
ま、いいですよ。それは私の胸中での出来事なので。
遺恨があった私に言われても、聞く耳なんかもたない。
まあそうかもしれない。
でも、それは問題じゃないんです。
聞こうが、聞くまいが、正そうが正すまいが、関係ないんです。
私は私の立場にあって、言うべきことを言っているだけなので。
わたしの教学には己義がどうのと散々、言ってき方が。
ありえない間違いをね。
私たちの胸中の「御本尊」は「仮諦の本尊」です。
ですって。
どうしたら、こういう解釈になるんでしょうかね。
我々の胸中にある御本尊が仮諦であるなら、
空仮中の三諦が揃った、御本尊に唱題したところで、
仮諦の部分でしか感応できませんから。
何があっても成仏などできません。
こんなことは、少し思索すれば気づけることでしょう。
ゆえに、我々の胸中にある御本尊も
空仮中の三諦が揃った、御本尊であるということが事実です。
戸田先生の指導を拝しても、
こんなことは常識中の常識ですよ。
空仮中の三諦などというと、ちょっとわからないでしょうが、これは空諦、中諦、仮諦と、仏法哲学において、この世の中の実相がどういうものか、われわれの命がどういうものであるか、ということを考える考え方を根幹として、「空仮中の三諦」というのがあるのです。これは、天台大師の師匠である南岳(なんがく)大師が考えだした哲理なのです。
このなかで、私がこうして生きているのは、仮の実体です。私はこのままかといってもそうはいかないでしょう。もう十年もたって、私がもし生きて六十七歳にもなったら「先生、ずいぶん変わりましたね」ということになるでしょう。
しかしこれだって、私は二十歳のころは美男子だったのです。そしたらその美男子と、いまのように美男子でないのと、どちらがほんとうなのか、それはどちらもほんとうです。ですから仮の実体というのです。いまのは仮の実体としか見えません。これを仮諦といいます。
空諦とは、あるといえばある、ないといえばない、こういうところのものを有無にかかわらず、真の実在をば空諦というのです。私の生命も空諦です。おまえはおじいさんの時があるといえば、それはいまはないでしょう。
たしかにおじいさんではない、私は青年です。しかしおまえは赤ん坊の時はなかったかといえば、なかったのではない、あったのです。そうなると生命は空であります。
それであって戸田城聖は中道法相(ちゅうどうほっそう)、戸田城聖は厳然として永遠にそなわっている、これが中諦であります。
この御指導のどこに、我々と変わらなかった、肉体を持たれた戸田先生が
「仮諦の本尊」だと仰せでしょうか。
もちろん、肉体とか我々が持っている認識能力で見ることのできる姿かたちというものは、
仮諦であるということは、その通りです。
しかし、目に見えない生命の部分を含めると、
当然、我々の胸中にある御本尊も空仮中の三諦が揃ったものであることは間違いありません。
きちんと一生成仏抄にも明確です。
抑妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり、然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無にへんして中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり、此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く
この方の御本尊への理解はおかしい。
ちょっと宗門時代との混乱期の影響がある。
そう感じていましたがね。
でもよくわかりました。
こういう解釈をされていれば、外道になっていたのだから、仕方ない、とね。
もうね、御本尊という最も大事な部分で
こうした誤った解釈をしていることが恐ろしい。
こういう己義をさも正しそうに語っていることで、
それを読んだ人が、「そうなのか」と思う。
それがいかに恐ろしいことか、きちんと認識されたほうがいいですね。
一生成仏抄に曰く――
只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり
この御文にあるとおり、そもそも「心も及ばず語も及ばずと云う事なり」であるのだから、
言葉で説明など出来ようはずがないのである。
それを偉ぶってするから、こういう間違いを犯すのでしょう。
浅ましい凡夫がわかろうはずなどない。それが真実ですよ。
それでもあえて伝えやすく言うなら――
曼荼羅御本尊も、我々胸中の御本尊も中道一実ということです。
その中道一実を言葉で説明するために、
空諦、仮諦という言葉を用いざるを得なかったんです。
言葉のもつ限界とはそういう部分にあるんですよ。
妙法は一仏乗ですよ。
すべて欠けることなく備わっているんですよ。
妙とは円満ですよ。
それなのに、事もあろうか――
私たちの胸中の「御本尊」は「仮諦の本尊」です。
とは、何事ぞや。
私はこういう点も、きちんと記事にしましたが、読んでおられなかったのでしょうね。
また、ある人が“観心”について質問したときにも、戸田先生は「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり」との御文を拝し、(中略)
大聖人の御意をもって拝するならば、「己心を観じて」とはすなわち御本尊を信じるの義であり、「十法界を見る」とは妙法蓮華経を唱うる義であることを明確にされた。
その結論は、ただ御本尊を信じて妙法を唱えれば、御本尊の十法界はまったく己心の十法界と合して一なりと観ずることができる――これを末法の観心というのである、とのお話であった。
要するに“観心”とは信心である。
普通に読めば感じ取れるはずですよ。
観心本尊とは、日蓮大聖人が顕された文字曼荼羅御本尊を拝し、信じたうえで
唱題しているときにしか観心本尊できない。
そういうことであると。
勤行・唱題しているときしか観心本尊できない。
そう師匠は仰せです。
一生成仏抄にもそうあります。
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
我が胸中の御本尊(一念)は、大聖人の御本尊(一念)と同じであると信じます!
そう唱えなさいと言われているじゃないですか。
いいですか、唱え、読むんですよ。
ということは、声に出し、御本尊を拝見しながらということですよ。
胸中唱題も悪くはないが、まず基本は御本尊を拝して、題目をあげることです。
戸田先生は、きちんとそこまでご指導くださっていますよ。
声仏事を為す、耳根得道、開目抄ですよ。これが揃って本当の観心本尊ができるんです。
それなのに、事もあろうか――
私たちの胸中の「御本尊」は「仮諦の本尊」です。
とは、何事ぞや。
確かに、「空」論は、仏法の法理としては非常に難易度の高いものであるから、
誤解釈している人は多いでしょう。
でも、これはヤバイ発言ですよ。
間違った我見もここまでのレベルになると、恐ろしいです。
というか、もうこれ邪義でしょ。
きちんと学ばれることをお勧めしますよ。
見て見ぬふりはしませんよ、私は。
何十年信心してきたから信頼できる。
そんなことはないのですよ。
きちんと学んでいない人は何十年信心しても、間違った信心をしているのです。
気をつけていきましょう。
正直ね、読んでいて寒気というか恐怖を感じましたよ。
なぜ、ここを間違える……と。
ま、いいですよ。それは私の胸中での出来事なので。
遺恨があった私に言われても、聞く耳なんかもたない。
まあそうかもしれない。
でも、それは問題じゃないんです。
聞こうが、聞くまいが、正そうが正すまいが、関係ないんです。
私は私の立場にあって、言うべきことを言っているだけなので。