猛暑の夏も、そろそろ退散の準備をはじめたような気配がします。
私に関して、彼の娘に関して、27年間も、村下孝蔵との多くの虚実を語られてきました。
公になり ”事実” とされてしまっている事に対してだけでも、
証拠がないと言われても、せめて、おぼえている限りの事を言葉にさせて頂きたいと思います。
夏も終わりになります。
文字になって 「本」 として売られているもの、「公言」 されてしまっていることに対しては、
本当に長い物語になりますが、
今日のブログ上で、当時あったことそのままを書かせて頂きます。
先日、「村下孝蔵STORY」 の本に触れさせて頂きました。
嘘として、作られた話として、本の文中に書かれてしまっている個所で
”私と、彼との娘のさやか” が関係している部分だけは、書かせていただきます。
156ページの9行目から157ページの4行目までの個所です。
この数行は、嘘です。
当時起こっていた事実は以下です。
私達は、84年8月中旬、彼の退院後すぐ、深大寺に引っ越しました。
それまでは、広島と東京を行ったり来たりの生活でした。
オーディションに受かった時、家族で上京できませんでした。契約の金額が少なく、生活できなかったからです。
それで、一度は、せっかく受かったオーディションだったのですが、
娘もお腹に出来ていたものですから、悩んだ末、本人の希望でお断りしました。
でも、それでは困るといわれ、ソニーの方々が知恵を出してくださり、契約が以下に変更となりました。
家族を養う最低収入は、村下孝蔵を広島営業所の販売促進の管理下という形にし、
広島営業所の契約社員とすることにより確保する。お給料は月額12万円。
当時、私は広島市で教える仕事を、かなり忙しく持っており、収入はありました。
広島在住でいる限り、共働きであれば、何とか生活が保てるのではないか・・との提案でした。
契約社員ということで、衣装代・楽器購入・楽器のメンテについては自費となります。
それでも、広島にいれば何とかなるのではないか・・・と、2人で深夜まで悩んだ末、
プロとしての道に入ることを決めました。
現実は厳しかったです。2Kアパートの家賃3万5千円、キャンペーン用の安物ですが衣装代、
一番きつかったのは、ギターの購入です。レコーディング用と野外ステージ用が必要となり、
デビュー後すぐ購入、もちろんローンで毎月3万円の支払いでした。
2人とも、親の援助はしてもらえませんでした。赤ちゃんの娘もいました。
大変でした。
でも、
82年暮れあたりから、少しづつヒット曲にめぐまれ、そして ”初恋” 。
今度は、
すごい勢いでお金が動き出しました。
色々な変化が、怖いほどおこってきました。
初恋がヒット曲になった、83年の初夏だったと思います。
村下の両親に呼ばれました。両親は私達の住んでいた所から車で5分位の所に
小さな家を借りて住んでいました。
83年初夏のある日
私一人呼ばれ、言われました。義父から 「勤めていた会社を辞めた」 との報告でした。
義父はマツダに、義母は近所で事務員をしていました。
「息子が有名な歌手になったから、息子の名誉を傷つける仕事をしてるといけない」
「会社の皆に、お金もちと言われるのに、ラインで働いてると息子に悪い」
そういわれ、月々、25万円の生活費を出してもらいたいと言われました。
もう、その日に退職されていたので、どうすることもできなく、私は了解しました。
その日から、私がお金の管理を、彼からまかされていた84年11月まで、私は生活費を義母に入れていました。
義父は定年ではありませんでした。確か、55歳前後だったです。
それから、色々なことが起こりました。
本当に言葉にできないほど、色々でした。
でも、一番大きなことは、彼の両親と、鹿児島の嫁ぎ先から突然戻ってこられた(83年)義姉との
お金に対する、価値観と、使い方に対する違いでした。
それで、少し距離をおこう・・・と、彼の提案で、
広島から東京に自宅を移すことにしました。
私の自律神経は、おかしくなってました。
深大寺の家は、会社の方と彼と私で探しました。もちろん借家です。
決めた理由は、広島に当時住んでいた家と間取りが似ていて、
家具など、ほとんど購入しなくても、そのまま使えるというメリットがあったからです。
そして、明るかったからです。
普通の家です。大きくはありません。
1階に、リビングダイニングと7畳くらいの和室、そして、納戸。
2階に、6畳と4畳半の和室。広めなベランダ。
玄関脇に、車1台分入るガレージと、物置。そんな家でした。
84年8月中旬です。
引っ越しをして、家族3人だけでの生活がはじまりました。
退院後の体調は良く。健康な暮らしでした。
私は、専業主婦で、引っ越しの荷物は、すぐに、きちんと片づけました。
そのうち、夢のつづきが入った”花ざかり”のアルバムレコーディングがはじまり、
毎日多忙な日々になってきました。10月はじめに終了予定でした。
「レコーディングが終わったら、少し休みをもらえるから、山中湖に行こうよ」 と、
彼から言われ、私と娘は楽しみにしていました。
10月初旬、私の体調がおかしくなってきました。疲れが出たのか微熱がありました。
もともと、ブログにも書かせて頂いてますように、あまり丈夫でない私は、体調に神経質でした。
広島で、検査も兼ねての里帰りをしたいと彼に言いました。
彼は、「レコーディングが終わってからなら、僕は大丈夫だから」 と言ってくれてました。
里帰りは、当初10月25日出発予定にして準備をしていました。
それが、28日にのびました。
きっと・・・今、ブログを、これを読まれていられる皆さまは、
こんなに時が過ぎているのに、どうして、なぜ、昨日のことのように書けるのか…不思議でしょうか。
28年近く経ってます。
でも、きちんと、おぼえてます。いえ、私は、忘れる事が出来ないままです。
まず、なぜ日にちが延期になってしまったのかを、ご説明します。
その当時から、ギターで彼を支えて下さっていたギタリストの経田さんが、23日だったでしょうか・・
いえ、10月24日だったでしょうか、早朝に深大寺の家に来られたのです。
彼は、風呂敷に包んだ長い大きな包みを抱え、玄関に立ってられました。
午前中の来客など、全くない我が家でした。連絡もなく突然こられました。驚きました。
私は、お目にかかるのは、その日で2度目でした。引っ越しの最中に、奥様と陣中見舞いに
来て下さったのが初対面と記憶してます。
和室でお茶を出したころ、まだ眠っていた彼が、パジャマ姿で2階から降りてきました。
4歳だったでしょうか、娘も、ちょこんと彼の横に座っていました。
経田さんが持参されたのは、木札?のようなものでした。
長く大きなもので、墨で”村下孝蔵”と大きく書かれ、経編のようなものが、他にも細かく書かれていました。
経田さんは、「北海道の母親が信心している神様が、これから、大変な事がおこる。
あなたの息子さんも、巻き込まれる。防ぐには、100日村下孝蔵さんの枕の下か、お布団の下に、
この木札をおいて眠ってもらうしかない」 と大真面目に、色々語られ。
「北海道から、昨夜東京に、飛行機で母が持ってきたから・・」 と。
「直ぐ、届けろと、母に言われ、朝から持ってきました」 とのことでした。
経田さんには、綺麗な和室で、ちゃんとお座布団も出し、きちんとお迎えしました。
訳もわからず、私たちは、木札を受け取りました。
その夜、彼は、枕の下に置いたり、お布団の下にひいたりしてましたが・・・。
長く、かなり大きかったので、ごわごわするから眠れない・・と、言いだしてました。
結局、私の提案で、枕元に横にして置き、眠りました。
25日に、広島に帰宅予定だったのですが、レコーディングが終わった直後の”お札騒ぎ”で、
何だか、心配になり、数日のびてしまいました。
でも、29日が私の実父の誕生日でしたので、28日中には広島に着きたくて、
結局28日の午後の新幹線で、広島の実家に帰ることにしました。
私は体の検査も希望してましたので、10日位の里帰り予定にしました。
冷蔵庫の中は食品でいっぱいにして、ちゃんと、私の出来る事はしてました。
東京駅まで、彼の運転で、レコーディングしたアルバムの曲を聞きながら、
山中湖の予約の話をしたりしてました。
東京駅に行く、高速道路に入ったころ、
突然娘が 「青いスコップを忘れた」 と半泣きになりました。
彼は笑いながら、あやしてました。「帰るまで、ちゃんと取っておくから、どこに置いてるの?」
娘は、「パパ、おうちにもどって!」 と、珍しくわがままを言いました。
彼は、困って 「駅でおもちゃ買ってあげるぞ」 そう言いました。
娘は 「ベランダに忘れた。お外じゃない」 と、泣きながら言ってました。
私は、2人の会話を、カーステレオから”夢のつづき”が流れている中で、穏やかに聞いてました。
東京駅で、チケットを買い、レストランに入りました。
私と彼は、パスタのようなものと、飲み物。
娘は、お子様ランチでした。
駅内で、彼は娘にミッキーの付いたプラスチックのオモチャを買って、御機嫌をとってました。
普通預金に200万入ってました。
彼は、キャッシュカードを、私は印鑑と通帳をもち、生活費に必要なものは、出すことに決めました。
すぐに、帰るつもりでいました。
だから、ボストンバックひとつでした。実家ですから。
ホームまで送ってくれました。新幹線のドアが閉まるまで、デッキで話しをしてました。
ドアが閉まりました。発車しました。娘が「パパ!バイバイ!」 って手をふりました。
彼も手を振ってました。
その日が、私たちの最後の日になるとは、夢にも思っていませんでした。
数日後、私は実家で、普通に過ごしていました。
三浦さんという、当時のマネージャーから実家の私に電話がはいりました。
「優子さん、東京へ、深大寺の家に帰らなくていいんですか!大変なことになってますよ!」
「どうしたの?」
「広島の、村下さんの御両親とお姉さんが、深大寺の家に引っ越してこられてて。
カーポートまで、荷物の山です。お義父さんの自動車も来てます!」
「まさか・・・・」
「優子さん、本当です。御存じなかったのですか!」
私は、信じられませんでした。
娘をつれて、私の弟の運転で、村下孝蔵の実家まで、すぐに行きました。
空っぽでした。カーテンも、表札も、植木鉢も・・・何もない・・空家になってました。
私の両親は、火のように怒りました。両家が戦争をはじめました。
里帰り中に、家に入りこまれたなんて・・・なんて、どう考えたら良いのかもわかりませんでした。
両家の争いは、すごかったです。
もう、帰ることはできませんでした。
ひどい事が、つぎつぎ起こり、心神喪失になりました。
200万の普通預金も、数日後には引き出されてて、通帳は0円になってました。
色々なことがありました。とても、かけません。
でも、皆さんに質問されて、答えられない事は何ひとつありません。
事実ですから、つじつまなど合わす必要ありませんから・・。
きちんと、答えられます。
年が明けて、離婚届が送られてきました。
義父の文字で、義父の印鑑でした。
荷物も送られてきました。段ボール6箱位。古いものばかりでした。
着るものと、娘のものに困ったので、深大寺の家に、しかたなく電話いれました。
電話には、義母がでました。
私は、 「荷物送ってください」 と言いました。
彼女は 「孝蔵と結婚してから買ったものは、孝蔵のものです。
結婚前にアナタが買ったものだけが、アナタのものです」 と電話切られました。
だから、20代のものは、ほとんど何もありません。写真もありません。
娘の赤ちゃんから5歳までの写真も、私の22歳から29歳位までの写真もありません。
みんな深大寺の自宅に置いてました。今日まで、一枚も、送られてきていません
靴も、バックも下着も、化粧品も、娘の本も机も、お人形も・・・そして、青いスコップも。
送ってもらえませんでした。
何もありません。弁護士も、もちろんお願いしました。2人、お願いしました。
でも、だめでした。10年裁判になるといわれました。
相手が普通でないと・・変人で、手に負えないと・・。
私は、戦い疲れ、戦うのを放棄しました・・・・。
生活費も、、娘の養育費も、慰謝料も、1円も支払われることなく、今日まで生きてきました。
事実です。
誤解されないで下さい。
お金を請求するために、これを書いているのではありません。
お金の請求など、するつもりは、全くありません。
世の中で、村下孝蔵がヒットメーカーだった時代です。
街を歩きながら、日々・・私は、気がおかしくなっていきました。
84年11月末に、村下とは、一度だけ広島駅で会いました。
そして、その年の12月20日に、一度だけ、電話で話しました。
それで、終わりになってしまいました。
義父からの離婚届けが届いたのは、年が明けた85年でした。
彼の両親からのメッセージで、孫娘の親権は、ゆずると・・・引き取って欲しいと言われました。
すてられた・・・と、思います。お金もありませんでした。
2000万円、私が持ち逃げしてることになってました。
「優子さん、お金返しなさい」誰もが、仲人まで、そんな風に質問しました。
そんなこと、してません。
どんどん、私は、壊れて行きました。
信じられない出来事が、渦をまいてました。
85年の暮だったでしょうか、東京から、事務所の方がこられました。
広島市にあった、セントラルホテルのロビーで、大きな声で、怒鳴られました。
「村下さんの大切なギターを3本ぬすんでるだろう、受け取りに来た。
アンタなんか、死んでしまわないと、村下さんにつぐなえないぞ!」 事務所の方に怒鳴られました。
私は、心が本当に壊れてました。
でも、反論しました。私は、盗んでません。
「売り飛ばしたんだろう!」 と大声で言われ、ホテルのカフェでみんなにみつめられました。
確かに、広島でギターは8本ありました。
引っ越しのとき、大切だから自分の手でもっていきたいと、
8本あった中で、3本は私の実家にあずけてました。時間のとれる時に自分でもって帰ると。
私の父がまだ生きていました。
「本人が、なぜ、取りに来ない。ギターの方が、自分の娘より大事か」 話をすると、又怒りました。
一番辛いのは、彼が、私より、両親の言葉を信じて、私を疑ったまま、
・・・そのまま、死んでしまったことです。
彼は、私と娘を迎えに来ませんでした。一度も、娘のお誕生日とか、何もありませんでした。
あの日、新幹線のホームが最後です。
忘れたくありません。
幸せな、大切な、思い出です。
そして、再婚相手の裕子さんも、同じように、自宅を出されました。
彼女は亡くなりました。
私は・・・生きてしまってます。
真相に近いか、遠いか・・わかりません。証拠はありません。
でも、事実です。
書かせていただいたことは、公になって誠実な形で世の中に出てしまっている部分への、反論です。
書かせて頂いた事は、氷山の一角です。理不尽な出来事は、底なし沼のようにあります。
つい、最近も、同じような目にあいました。
戦いは、おしまいにしたいです。
言葉にもならない出来ごとの中で、生きていました。
私が再婚しても、再婚した家に電話をしてくるような村下家の方々です。
電話は2005年に2度。義母からでした。
すぐに、私は切りました。怒りからか・・・吐いてしまいました。
電話があったのは、私が深大寺の家に「荷物を送ってください」とお願いした日から、はじめてでした。20年です。
娘を、お金目当てで狙われている・・と直感しました。義母は猫なで声でした。
毎日ブログ書くつもりでした。
色目で見られることなく、不安なく、音楽をしたい・・と思う気持ちではじめたブログでした。
売名行為なんて・・・・そんな・・小さな熟語ではありません。
売名行為と言われはじめ、やはり・・・でも、辛くなりました。
元気になるまで、しばらく・・・おやすみします・・・。
長い文章を、個人的な出来事を、最後まできちんと読んでくださったこと
本当に感謝します。
ありがとうございました。
ゆうこ
SilverAge Eメール 2012年08月25日(土)22時13分 編集・削除
とてもとてもシリアス・・・
>・・・つい、最近も、同じような目にあいました。・・・
が気になりますが、ここまで大変なエネルギーを使われたんだと思います、
人間誰しもエネルギーが減ったら充電は必定、
しっかり元気を貯めて復活してください・・・ネ!・・・