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オタク研究会は現在新入部員を募集していません。 作者:二三四五六七

第10章

10-8

「全くもう……直斗は」

 あたしはそんな感じで直斗に呆れながらも、ベッドの上で膝を抱えながら無意識に微笑んでいた。

 それは安心したからだと思う。直斗が、あたしのことを汗臭くないと言ってくれたことに対して、だ。

 そして、直斗がそう断言してくれたことが何より――嬉しかったから。

「…………」

「…………」

 それからは暫くの間、あたしも直斗も無言の時間が続いた。直斗がゲームを操作する微かな音を耳にしながら、汗で濡れた体が段々と冷えてきたのをあたしは感じて、とりあえず布団に潜り込もうとする。

 そこでふと思い出した。

 そうだ、あたしと直斗は喧嘩をしていたのだった。

 謝るなら今しかない。多分、この現状だとあたしの風邪が治って学校に行ったとしても普通に直斗と会話をすることができると思う。喧嘩をする前のように、普段通りに、今までのように話すことができるはずだ。

 でも、それじゃあ、駄目だ。

 曖昧なまま終わらせたくない。この喧嘩も、そして――これからのことも。

「すぅ……ふぅ」

 直斗に聞こえないように小さく深呼吸をして、あたしはベッドの上に座り、ゲームをしている幼馴染の背中と向き合った。

「……あの、直斗――」

「そう言えば」

 すると、直斗はあたしの言葉を遮って突然その場に立ち上がった。

「電気、付けてなかったな」

「え? ああ、うん、そうだね」

 直斗の言葉に辺りを見渡す。そう言えば、直斗が来てから部屋の灯りを付けていなかった。完全に太陽が沈んでしまったこの時間帯では部屋の中は真っ暗である。ゲームの明りのせいで直斗の顔は見えていたし、今まで普通に会話していたから気付かなかった――というか、電灯なんてどうでもよかった。

 直斗はゲーム機を片手に部屋の入り口付近まで歩くとそこの壁にあるスイッチを押して部屋の電灯を灯した。ピッ、という小さな音の直後に眩しい光があたしの部屋を明るく照らし出す。急に明るくなった部屋にあたしは思わず目を細めた。

「よし、これで大丈夫だな」

「う、うん、そだね」

「それからさ、彩楓」

「ん? 何?」

「この前は……その、悪かったな」

「…………」

 あまりにも何の前触れもなく直斗が言ったものだから、あたしはその言葉に対するリアクションをすぐに取ることが出来なかった。

「……え、え? な、何が?」

「だから、この前の昼休みのことだよ。僕とお前は喧嘩をしただろうが」

「あ、あー、はいはい……それね」

 いや、本当は分かっていた。直斗があたしに何に対して謝罪しているのか。それがこの前の昼休みのことだということは分かっていた――けど。

 まさか、直斗から先に謝ってくるなんて。

 お見舞いと言い、この謝罪と言い、直斗は一体どうしてしまったのだろう。

 珍しいこともあるものである。

「何か結構軽い感じだな。お前、ひょっとしてそこまで気にしてなかったのか?」

「え? ああいや、す、凄く気にしてたよ? 夕飯のメニューよりも断然直斗との喧嘩のことを気にしてたし!」

「重要度が分からねえよ」

 呆れ顔で言われてしまった。あたしにとって夕飯のメニューの内容は死活問題なのだ。

「そ、それにしても……珍しいね。直斗から謝ってくるなんて」

「いや、その、何だ。色々と考えた結果、今回は僕が悪いかも知れない……って思ったからさ。仮に喧嘩が僕の責任なら、お前が今回風邪を引いたことだって、大元の原因は僕にある訳だし」

「そ、そんなことなっ、げほっ、けほっ」

 急に声を張り上げたせいで咳き込んでしまった。俯くあたしの視界の外から「おいおい大丈夫かよ」という直斗の声が聞こえる。あたしは「だ、大丈夫」と何とか返して息を整えると再度口を開いた。

「……そんなこと、ないよ。喧嘩だって、あたしにも悪いところはあるし、この風邪だって、あたしが意地張って招いた結果だし……だから、だから、その」

 視界が歪む。これは咳のせいで瞼に溢れた涙のせいだろう。いや、この涙はそれとは別のものなのかも知れない。あたしはそんな歪んだ視界で直斗の姿を必死に捉えながらこう言った。

「あたしの方こそ……ごめんなさい」


 ● ● ●


 再び電灯の消えた部屋であたしはベッドに仰向けになり、暗い部屋の天井を呆然と見つめ続けていた。

「…………」

 あの後――あたしが直斗に謝った後、何があったのかと言えば、あたしと直斗の謝罪合戦が始まった。

 謝罪合戦とは要するに、片方が謝り、それに対してもう片方が謝り、また片方が謝る――というあれである。

 その謝罪合戦を途中で何とか終わらせたあたしは直斗に「明日までに風邪治して、明日は部屋に迎えに行くから」という約束と言うか宣言のようなものをして、直斗と別れた。

「…………」

 それにしても、今日の直斗は一体どうしてしまったのだろう。

 自分からお見舞いに来たり、あたしに謝ったり……。とても直斗がするような行動には思えない。

 誰かからそうするように言われたのだろうか――と、そんなことを考えていたら突然部屋の扉が開き、間髪入れずに部屋の灯りが灯された。

「眩しっ……」

「あら、ごめんなさい。眩しかった?」

 部屋に入ってきたのはお母さんだった。あたしは目を擦りながら上半身を起こす。お母さんの持つトレイには洗面器とおしぼりが載せられていた。

「汗掻いたでしょ? 体、拭いて上げる」

「……ありがと」

 熱のせいで頭がボーっとしている。おかしいな、さっき直斗と話している時はそうでもなかったはずなのに……布団から出ていたせいでまた悪化したかな。

「あら、まだ体怠いの?」

 パジャマを脱ぐあたしの後ろからお母さんがそんな問いかけをしてきた。

「うーん、まだ少しね。さっき直斗と話してた時は結構楽だったんだけど」

「直斗君と話していた時……ふーん」

「な、何よその顔は」

「いやいや、別に何でもないわよ」

 何故かにやにやとしている母親を横目にあたしはパジャマを脱いだ。それから、一応脱いだパジャマをタオル代わりにして胸の辺りを隠すあたし。汗で濡れたパジャマはひんやりとした感覚を肌に伝えた。

 ぬるい温度のおしぼりがあたしの背中に当てられた。

「そう言えば、直斗君とは仲直りできたの?」

 あたしの背中を拭きながら急にそんなことを言ってきたお母さんに一瞬言葉を失った。

「き、気付いてたの?」

「当たり前でしょ。あたしはあなたの母親よ。母親はね、そういうことに敏感なのよ」

「そ、そうなんだ」

「それに、母親は娘のことだったら何だって知っているものなの。例えば、そうね。彩楓、あなたはケーキの中ではチーズケーキが好きでしょう?」

「いや、あたしはどちらかと言うとチョコレートケーキの方が好きなんだけど」

「……まあ、母親でも時々は間違えることだってあるわよ」

「全然駄目じゃん!」

 娘の好みすら把握できていない母親であった。

「それで? 直斗君とは仲直りできたの?」

「……できたよ」

「そう、それは良かったわ」

「……うん、本当に良かった」

「あら、何だか嬉しそうな顔をしているわね」

「う、嬉しそうなんてしてなっ……ってだからその顔は何なのって!」

 どうしてにやにやしてるの!

「仲直りできたなら、早く風邪治さないといけないわね」

「……うん、そうだね」

 お母さんの声を背にあたしは小さく頷く。

 そうだ、あたしは早く風邪を治さなければならない。

 早く風邪を治して、朝直斗を起こしに行ってやろう。

 ベランダを伝って、部屋に入って。

 起きなくても無理矢理起こしてやるのだ。

「よし、背中拭き終わったわ」

「ありが痛いっ!」

 お母さんにお礼を言おうとしたら背中を掌で叩かれた。

「な、何すんの!」

「いや、背中拭き終わったから」

「……いやいや何の理由にもなってないよ!」

「うん、それだけ元気があるなら明日にでも学校行けそうね」

「どーゆー確認の仕方なの!」

 そして、お母さんはクローゼットから代えのパジャマと下着をベッドの脇に用意すると、持って来た洗面器とおしぼりを手にあたしの部屋を後にした。

「……何か変なテンションだったなあ、お母さん」

 パジャマの上を着ながらお母さんが出て行った部屋の扉を半目で見るあたし。汗の染み込んでいない新しいパジャマはとても心地よく感じられた。

 次にパジャマの下を変えるべくあたしはベッドから立ち上がる。それから、ふと部屋のベランダに通じる窓の方を振り向いた。

 大窓のカーテンは既に閉め切られていて、その向こう側は見えない。

 でも、その向こう側には直斗の部屋がある。そして、その部屋には直斗がいる。

 思えば、そう思うだけで色々といつも安心することが出来たっけ。

「……また明日ね、直斗」

 カーテンに向かってそう微笑みかけたあたしはパジャマの下を脱いで残りの着替えに入るのだった。
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