10-6
「どうしたの? 彩楓に何か用?」
「え、あ、いや、彩楓に用事があるようなないような……」
「どっちなの?」
キョトンとした表情で小首を傾げた彩楓の母親は「まあいいわ」と微笑むと玄関まで歩いて行き、施錠を解くと玄関扉を開ける。
「制服から着替えたらまたこっちにいらっしゃい。今日の夕飯はカレーよ」
言って、彩楓の母親は右手を上げる。ガサガサという音――ここで僕は漸く彼女が右手にスーパーの袋を持っていた事に気付いた。どれだけ緊張していたんだよ、僕は。
「あ、はい、分かりました」
「それじゃあ、また後でね」
「はい、それじゃあ」
玄関扉を閉めて躑躅森宅の中へと姿を消す彩楓の母親。その姿を見送って、僕は深く溜息をつくと再度躑躅森宅を――彩楓の部屋がある2階の窓を仰ぐ。
「……また今度でいいか」
呟くと、僕は自宅に向かって歩き出した。
このまま彩楓と会わずに明日を迎えれば確実に宝船から何か言われるだろう。しかし、それがどうしたというのだ。これは僕と彩楓の問題である。宝船から何かと口出しされる義理はない。
それに無理に会って彩楓の風邪が酷くなったらどうする。更に状況が悪化してしまうではないか。
それなら彩楓と会わない方が良いというものである。
……って。
「完全に言い訳だよなあ、これ」
ここまで分かっておきながら、今の散々語った心の内を言い訳だと理解していながら、それでも彩楓に会いに行かない僕ってどうなのだろう。
喧嘩云々に関わらず、宝船が僕に毒舌を浴びせるのも分かるというものだ。
「…………」
自宅の玄関に辿り着き、扉のノブに手を掛けたところで僕は今一度彩楓の部屋を見上げた。窓のカーテンは閉め切られており、中の様子を伺う事は出来ない。
「……はあ」
暫く彼女の部屋を見つめた後、小さく溜息をついた僕は私服に着替えるために帰宅した。
● ● ●
ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ……。
「……ん」
真っ暗な闇の中で延々と鳴り続けるその音であたしは目を覚ました。何の音だろうと風邪で朦朧としている意識の中で暫く考えたあたしは思い出す。そうだ、これは体温計の音だ。
脇に挟んでいた体温計を取り出す。どうやら、熱を測ろうと体温計を脇に挟んだところで眠ってしまったらしい。
「…………怠い」
明りの灯されていない薄暗い天井を見つめたままあたしは擦れた声で呟いた。やはり、風邪によって起こるこの体の怠さは何度経験しても慣れない。慣れるものでもないんだろうけど。
「今……何時……」
鉛のように重い腕を上げてベッドの棚の上の充電器に挿したであろう――風邪のせいなのか記憶が曖昧だ――スマートフォンを取ろうとして、まだ右手に体温計を持っていることに気付いた。
「……う」
体温計に表示された数値を見ようと思ったけれど、止めた。体温計を見ようと見なかろうとどちらにしても今のあたしは風邪を引いているのである。それなら体温計を見る必要なんてないのだ――いや、実際は体が怠くて面倒なだけだけど。
そんなこんなで、あたしは体温計をベッドの棚に置くと、同じくベッドの棚の上にあるスマートフォンを手探りで探し当て、現在の時刻を確認する。
「……午後8時」
午後8時ならば、我が家の夕飯は既に終わっている頃か。あたしの家では午後7時頃に夕飯を食べるのが決まりのようになっているのだ。
夕飯……夕飯かあ。今日の夕飯は何だったのだろう。多分、あたしは風邪を引いているので夕飯が何であったにしても精々おかゆくらいしか食べられないのだろうけど……ああ、白米が恋しい。お母さん何作ってくれたのかなあ。ちゃんと夕飯を食べられた直斗が羨まし――。
「…………」
そう言えば、あたしと直斗喧嘩してたんだっけ。
昨日の昼間、学校で直斗と言い争いをしたことを思い出す。あと、あたしの上履きを直斗の顔面に当てたことも。
「…………」
汗のせいでぐっしょりと濡れたパジャマ。物凄く気持ちが悪くて、それに、昨日の雨の中のジョギングをあたしに思い出させる。
思えば、あの喧嘩さえなければあたしはこうして風邪を引くことはなかったのだろう。
そうだ。
あの昼休みの喧嘩も。
あたしが風邪を引いたのも。
「……全部……あたしが悪い」
昼休みの喧嘩だって、直斗がそういうことに疎い事くらいあたしは知っていたはずだ。
あの雨の中だって、意地になって直斗の言葉を無視しなければ風邪だって引かなかったはずだ。
それなのに……あたしは。
「……あたしって、やっぱり馬鹿なんだなあ」
普段直斗から言われ慣れてはいるけれど、改めて実感するとやっぱりショックだな。
何が幼馴染だ。
幼馴染とは名前ばかりで、あたしは直斗のことを全然理解していない。
直斗が好きなアニメや漫画だってよく分からないし。
……それなら。
それなら宝船さんの方がよっぽど――。
「…………」
……直斗。
「直斗……今どうしてるかな」
「呼んだか?」
急に聞こえてきた声にあたしは目を見開いた。朦朧としていた意識が段々とはっきりしていく――仰向けになっていた重たい体を裏返して、あたしは声のした方を振り向いた。
「……直斗?」
そこにはいつの間にか直斗の姿があった。突然部屋の中に現れた直斗は携帯ゲーム機を片手にベランダに通じる窓を閉めるとこちらに歩いてきた。
「彩楓、お前不用心すぎるぞ。2階の窓だからって開けっ放しは危ないだろ」
「……それは……昔からの、癖で……って、直斗こそ、どうしてここに……」
「どうしてって……何と言うか、その、あれだよあれ」
言いながら直斗はあたしのベッドに背中を預けるようにして凭れ掛かると携帯ゲーム機の電源を入れた。
「お見舞いだよ、お見舞い」
「……お見舞い?」
「そう、お見舞い」
「…………」
直斗が……お見舞い?
あたしを?
「……ふふっ」
「な! お前今笑っただろ!」
「ご、ごめ、ん」
あたしも部屋の壁に背中を預けながら笑いを堪えつつ赤面している直斗に向かって返答する。そりゃ笑っちゃうよ。だって、直斗がお見舞いとか似合わないし。
「全く……それで?」
「何?」
「お見舞いって、何をすればいいんだ?」
「え?」
「え?」
予想外の質問にあたしは目を何度か瞬く。対する直斗も瞼をパチパチと何度か上げ下げしている。
「何をすれば、って……直斗……何をすればいいのかも分からずに……お見舞いに来たの?」
「仕方ないだろ。アニメやゲームやラノベで散々お見舞いのシーンは見たけど、それは全部女子が男子にするものばかりだったから何をしたらいいのか分からないんだよ」
「…………」
苦笑するあたし。あたしの幼馴染は相変わらずのオタク脳だった。
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