10-5
「どうしたんだよ、こんな雨の中」
そう言いながら僕は彩楓の方に歩み寄る。すると、雨の音の合間に彩楓が呟くのが聞こえた。
「……ジョギング?」
「ジョギング?」
思わず聞き返してしまう僕。予想外の返答に声が裏返ってしまった。
「ジョギングって、何もこんな天気の日にやらなくても」
「最近は帰って来てからジョギングに行ってるの。体力つけないといけないし」
「体力つけるって……部活じゃ駄目なのか?」
「駄目なの。ってか、直斗には関係ないでしょ。それじゃあね」
「あ、おい」
僕を冷たくあしらって呼び止める声も聞かずに彩楓は住宅街の通路を小走りで移動し始め、すぐにその姿は雨に隠れて見えなくなってしまった。
「何だよあいつ。どうしてあんなに怒って――」
と、疑問に思ったところで思い出す。
今日の昼間の出来事を。
「……そう言えば、今僕とあいつ喧嘩してるんだっけ」
雨の中、彩楓が向かった方を見ながら僕は溜息混じりに呟く。
失念していた――先程の宝船とのことですっかり記憶から抜け落ちてしまっていたのである。
「……まあ、大丈夫だろ」
言って、僕は彩楓と会話するために一度通り過ぎてしまった我が家へと向かい出す。
「時間が解決してくれるさ。いつもそうだったし」
玄関にあるちょっとした屋根の下で傘の水を払い、帰宅する僕。
「明日になれば、あいつもすっかり忘れているかもしれないしな」
呑気にそう言いながら傘立てに傘を仕舞い、僕は靴を脱いで2階の自分の部屋へと向かう。
しかし、翌日彩楓は学校に来なかった。
そして、担任の南足先生からの知らせでどうして彼女が学校を休んだのか――その原因を知ることになる僕。
どうやら、彩楓は風邪を引いたらしかった。
◆ ◆ ◆
宝船とアニメテオに行った翌日――つまりは彩楓が風邪を引いて休んだ日の昼休み。
彩楓の席を横目に僕はコンビニで買ったパンを頬張り、昼食を食べていた。
「…………」
まあ、雨合羽を着ているとは言ってもあんな雨の中をジョギングすれば風邪も引くだろうな。正直、南足先生から彩楓が欠席すると聞いた時点でその原因は分かっていたようなものだ。
しかし――。
「……馬鹿も風邪を引くんだな」
「躑躅森さんがいなくて寂しそうね、萩嶺君?」
そんな言葉と共に僕の前の席に座ってきたのは宝船だった。僕の机の上に持参した弁当箱を置くと、椅子を持ったまま半回転して僕と向かい合うように座り直す。
「さっきからずっと躑躅森さんの席の方を見ているし」
「別に寂しくなんかねえよ。ただ、馬鹿も風邪を引くんだなと驚いていただけだ」
「当たり前でしょう。馬鹿になって風邪を引かなくなる――つまり、馬鹿になることで風邪のウィルスに対する耐性ができるのであれば、私も馬鹿になるわよ」
「確かにな。馬鹿になって風邪を引かなくなるのなら、そっちの方が賢い生き方のような気もする」
「風邪薬代も浮くしね」
「そこかよ」
宝船、意外とケチな女なのだろうか。
「まあ、『馬鹿は風邪を引かない』という言葉の本当の意味は『馬鹿は風邪を引いたことすら気づかない愚か者である』――ということらしいから、実際は馬鹿も風邪を引くのだけれどね」
「そうなのか。それじゃあ、やっぱり馬鹿になるよりも賢い人間でいた方が得なんだな」
「当たり前じゃない。萩嶺君何を言っているの? 馬鹿なの?」
「馬鹿じゃねえよ」
「よくよく見てみれば、萩嶺君風邪を引かなさそうな顔をしているもの……羨ましいわ」
「それは馬鹿みたいな顔ってことなんだな? そうなんだな?」
まさか『風邪を引かなさそうな顔』という言葉が罵倒文句になり得ようとは……日本語って恐ろしいな。
「それで、萩嶺君は躑躅森さんがどうして風邪を引いたのか、心当たりはあるの?」
「どうしてそれを僕に聞くんだよ……まあ、心当たりはあるけどさ。多分、昨日雨の中ジョギングをしたせいだと僕は考えてる」
「雨の中をジョギング? それまたどうして」
「さあな。部活だけじゃ体力作りが足りないとか何とか言っていたような」
「ふーん……でも、躑躅森さんの言葉の真意はともかくとして、萩嶺君は躑躅森さんが雨の中をジョギングに向かう直前に出会っていたということよね?」
「まあな」
「どうして止めなかったのかしら。いくら風邪を引かなさそうな顔をしている萩嶺君でも昨日の雨の中でジョギングなんかしたら風邪を引くことくらい分かりそうなものだけれど」
「遠回しに人のことを馬鹿呼ばわりするな」
何という高騰罵倒テクニックである。罵倒テクニックって何だ。
「いやほら、僕と彩楓今喧嘩しているだろ? だから止めようとしたんだけど……僕の言うこと聞いてくれなくてさ」
「……なるほど、そういうことね」
「そう、そういうこと」
「つまり、萩嶺君が全面的に悪いという訳ね」
「そうそう――ん?」
何?
僕が全面的に悪いとな。
「待て待て、どうして僕に全面的に非があるという結論に至る」
「当然でしょう。どこをどう見てもどの角度から見ても地球の裏側から見ても今回の一件は萩嶺君が悪いわ」
「そんなにか」
「ええ、そうよ。どこをどう見てもどの角度から見ても地球の裏側から見ても萩嶺君は犯罪者予備軍にしか見えない」
「それは全面的に否定したいな!」
ブラジルやアルゼンチン辺りの人からも犯罪者予備軍と見なされるというのはどうなのだろう。僕もうブラジルにもアルゼンチンにも行けないじゃん。リオのカーニバルが観たいだけの人生だった。
「大体、躑躅森さんが雨の中強引にジョギングに行ってしまったのは萩嶺君との喧嘩もあって上手くあなたと会話ができなかったから。つまり、その喧嘩の原因となった萩嶺君に今回の一件の原因があるという訳よ」
「そ、そうなのか……?」
そもそも、今回の一件の大元の原因となった-―と宝船は言っている――彩楓との喧嘩において、僕が原因になったということもいまいち理解できていない僕である。
まあ、喧嘩両成敗という言葉もある。仮に僕が喧嘩を起こした原因ではなかったとしても、僕だって悪者なのだ。処罰を受けるべき対象なのである。いや、宝船の言う犯罪者予備軍ではないが。
「……分かった。彩楓には後で謝る。でも、僕があいつに謝ったとしても、あいつの風邪が治る訳じゃないしな」
「確かに萩嶺君の土下座程度じゃ蟻ですら動かないだろうけど」
「おい」
というか土下座はしない。謝りはするけど。
「それでも、謝罪をすること以外に、萩嶺君には躑躅森さんに対してできることがあるでしょう?」
「できること? 何だよそれ」
「……萩嶺君、散々アニメやゲームやラノベを読んで来ているのにも関わらず分からないのね。ピンと来なさいよ。それじゃあ、いつまで経っても風邪を引かなさそうな顔のままよ」
「…………」
時間が経過すれば治るのだろうか。
「本当に萩嶺君は鈍いわね……幼馴染とか友達とか、そういう近しい関係の人が病に倒れたら必ず起こるイベントがあるでしょう」
呆れたようにそう言って椅子に背中を預けながら腕を組んだ宝船はジト目で僕を見据えてこう言った。
「お見舞いよ」
◆ ◆ ◆
「お見舞いねえ……」
放課後、相も変わらず曇天が空を覆う薄暗い住宅街の通路にて、躑躅森宅を見上げたまま僕は呟く。
思えば、こんな時間に帰ってきたのは久しぶりな気がする。普段は最終下校時刻ギリギリまで宝船と一緒に部室にいるからなあ……家でゲームとかしても電気代の無駄だし。まあ、するけど。
「って、現実逃避は駄目だな」
自分にそう言い聞かせて僕は目の前のインターホンを視界に捉えた。
「…………」
何故だろう。数日前までは気軽に――そう、RPGの最初のステージに突入するくらいの気持ちで気軽に押せていた躑躅森家のインターホンが押せない。
まるでインターホンのボタンから特殊な波動が放たれているかのように僕の体は動かない。腕が上がらない。
駄目だ、何か緊張してきた。
まずインターホンを押したとして、それで彩楓が出たとして、どうする? 「お見舞いに来たから家の中に入れてくれ」とでも言えばいいのか――いやいや、昨日の今日である。そう易々と彼女が僕を家の中に入れてくれる保障はない。それどころか更に事態が悪化する可能性だってある。
というか、彩楓の風邪の具合も分からないのである。インターホンを押したところで彼女が応じてくれない可能性もある。まあ、それはそれで事態を悪化させずに済むので良いと言えば良いのだが。
しかし、彩楓に出会わずに謝罪を先延ばしにした所で今度は宝船から何か言われてしまいそうだ。あれだけ昼休みに僕を彩楓の家に向かわせたがっていたのだから、彼女の真意は分からないにしても、現状を打開しないまま明日呑気に学校に向かっては確実に毒舌を浴びせられる。
それは嫌だ。しかし、彩楓に謝るというのも物凄く緊張する。
というか、色々な考えが頭の中で渦巻いて更に腕が重くなっているような気がする。
今日は一旦退くか?
そしたら学校で宝船に。
いや、しかし、でも。
「あら、直斗君じゃない」
「うわっ!」
突如意識の外から聞こえてきた声に僕は思わず声を上げて跳び上がった。声がした方を振り向くと、そこにいたのは彩楓の母親であった。
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