サブカテゴリー

PR:

森孝慈さんが急死 五輪銅メダル、浦和創設に尽力

森孝慈氏
死去した森孝慈氏(日本サッカー名蹴会発足式で、2010年9月27日)
Photo By スポニチ

 サッカーの元日本代表で日本代表監督も務めた森孝慈(もり・たかじ)氏が17日午前9時21分、腎盂(じんう)がんのため東京都目黒区の病院で死去した。67歳。広島県出身。選手として68年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得し、85年には日本代表監督としてW杯メキシコ大会アジア最終予選で本大会出場まであと一歩に迫った。Jリーグでは浦和の創設に尽力し、92年に初代監督を務めた。06年にサッカー殿堂入りした功労者の訃報に、サッカー界は悲しみに包まれた。

 突然の訃報だった。森氏が喉頭がんの告知を受けたのは08年8月。声帯を除去する手術を受けたが、09年11月には快気祝いを行った。その後、転移が見つかって2度入院した。それでも徐々に回復。声帯除去後に出づらくなっていた声も出るようになり、今年6月11日には大宮―浦和戦を観戦に訪れ、元気な姿を見せていた。数日前に再入院していたが、関係者には検査入院と伝えられていた。しかし16日夜に容体が急変し、17日午前、静かに息を引き取った。

 現役時代は正確な技術と鋭い読みを併せ持ったMFで日本リーグのスターだった。日本代表では東京、メキシコ五輪に出場。メキシコ五輪ではストッパーに転向し、銅メダル獲得に貢献した。亡くなったのは東京五輪でアルゼンチンから勝利を挙げた駒沢競技場のすぐ隣にある病院だった。

 監督としては選手を信頼して任せる親分肌の指揮官。木村和司(現横浜監督)ら個性派ぞろいの日本代表を見事にまとめ上げた。当時の日本協会は財政難だったが、自ら掛け合って代表の待遇改善を訴えた。宿舎は旅館からホテルに替わり、日当も出るようになった。

 当時の代表は「森ファミリー」と言われ選手たちは監督退任後も年1回食事会を催し10年以上続いた。メンバーの日本協会の原博実技術委員長は「人柄が良くてうそをつかない。だから多くの人に慕われた」と話す。

 選手を見る目は他の指導者からも評価されていた。93年のW杯米国大会最終予選直前、日本代表のオフト監督(当時)は負傷したDF都並の代役探しを当時浦和監督だった森氏に頼んだ。「そんなにすぐに見つからんよ」と広島弁で言いながら、三浦泰年(現J2北九州監督)の起用を進言した。責任感も強かった。

 明るい性格で話し好き。お酒と焼き肉を愛した。浦和駅近くのガード下の焼き肉店が行きつけ。選手だけでなくスタッフや報道陣を「焼き肉に行くぞ!」と誘った。誰からも愛されたサッカー人がこの世を去った。

  ◆森 孝慈(もり・たかじ)1943年(昭18)11月24日生まれ、広島県福山市出身。現役時代は技巧派のMFとして活躍。修道高3年時に国体、高校選手権で優勝。早大で天皇杯制覇。69年に日本リーグの三菱重工(現浦和)で初優勝。68年メキシコ五輪で釜本邦茂、杉山隆一、横山謙三らと銅メダル獲得。77年引退。国際Aマッチ55試合、2得点。81年に日本代表監督に就任し、85年のW杯メキシコ大会最終予選で韓国に敗れ惜しくも本大会出場を逃す。三菱自動車のプロ化、浦和のホームタウン化に尽力し92年から監督。93年のJリーグ開幕年に最下位となり辞任。その後横浜GM、福岡監督、浦和GMなどを歴任した。

[ 2011年7月18日 06:00 ]

Webtools & Bookmarks

PR

注目アイテム

ニュース

注目アイテム

スポニチwikiランキング

      人気ニュースランキング

        ※集計期間:

        » 続き

        【楽天】オススメアイテム
        クイックアクセス

        2014年W杯ブラジル大会

        Jリーグ

        日本代表

        ACL

        海外サッカー

        コラム

        動画

        スペシャルコンテンツ