スカウトはもちろん、Jリーグのレベルアップを
宮崎さんは、浦和レッズのスカウトになってから13年以上、チームの歴史の証人でもあります。
「90年までは三菱重工サッカーの現役選手だったのですが、91年に三菱自動車の総務に移動しました。三菱重工から三菱自動車に移動したプロ設立準備委員会の一員になったわけです。総務で上司だった人が、清水さん、森孝慈さん(初代レッズ監督、のちにGM)、現レッズ社長藤口光紀さん。あと何人かも重工からいらっしゃったんですけど、そこで準備室を作って本格的に活動を開始した。31歳の時です。Jリーグ開始の93年は強化の担当でした」
しかし、スタートしてから苦難の道でした。
「そこから、魔の連敗が続いた。森さんの人脈でそこそこのベテラン選手を集め、92年天皇杯でベスト4に入ったりしてまずまずの成績をあげていたのですが、開幕でガンバに負けてから全然勝てなくなった。Jリーグ初年度は10位でした。そのあと、94年に出向期間が切れ、本社のレッズ管理部門に戻ったのですが、当時GMの横山謙三さんが来て、レッズにもどる気があるなら、しかるべき担当部門を用意するといってくれ、作ってくれたのが当時あまりなかったスカウト部門だったのです。お前は静岡出身で、体育大学を出ているので、高校の先生や指導者に同級生や後輩が多い。だから、スカウトになるにはうってつけだと。お前のような経歴じゃなければ出来ない仕事だと誘っていただいて、それで95年の3月に再びレッズに戻ったわけです」
新人スカウト時代
「最初の95年は先輩の人と全国を飛び回って顔を覚えてもらう毎日、自分の大学の先輩にご挨拶したりとかしながら、九州から北海道まで色々ついてまわりました。正式な部署は強化部の中のスカウト担当でした」
独立した、明確な組織が出来てなかったのですね。
「なかったですね。僕が最初に92年に来た時も、GMの森さん、その下の強化部長が大久保さん、その下に育成担当、チーム管理、それに外部からチームを強くする補強部門であるスカウト。その3つを、同じ部の中で担当していました。人数も少なかった」