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三菱重工業(みつびしじゅうこうぎょう)

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年月日 できごと 写真
1917 三菱合資会社から造船業の一切を引き継いだ三菱造船(株)が設立される 情報源のサイトへ
1921 神戸造船所の電機製作所が三菱電機として独立 情報源のサイトへ
1934 三菱航空機と合併し三菱重工業(株)となる。社史は創業から敗戦後の財閥解体により 情報源のサイトへ
1934 三菱造船と三菱航空機が合併し、三菱重工業が創設された。 ちなみに「重工業」という言葉は、小弥太が英文の「Heavy Industries」に当てて発案した造語である 情報源のサイトへ
1945 同社はGHQの財閥解体によって日本重工業、日本重工業、西日本重工業の3社に分割された。 しかし、当初は3社で製品の棲み分けを決めていたものの線引きが曖昧になっていき、やがて製品群の重複が多数発生した 情報源のサイトへ
1950 発足した西日本重工業(株)は、長崎造船所・下関造船所・広島造船所・長崎精機製作所・広島精機製作所の事業を継承。 情報源のサイトへ
1950 日本重工業・西日本重工業(いずれも本社は東京都央区 )・日本重工業(本社は神戸市)へ分割 情報源のサイトへ
1950 だが、三菱重工は当時GHQの指令に従って、日本重工業・日本重工業・西日本重工業の三社に分割されており、そのうちの「日本重工業サッカー部」としての創部である。 情報源のサイトへ
1952 社名変更に伴い「新三菱重工業サッカー部」へ、三社の再統合により「三菱重工業サッカー部」となったのは 情報源のサイトへ
1952 生駒友彦、村田忠男ら関西学院大学サッカー部出身者が加入し本格的な強化が始まる。 情報源のサイトへ
1956 全国都市対抗選手権で準優勝し、全国リーグ創設前の強豪クラブの一つとしての地位を確保した。 情報源のサイトへ
1958 サッカー部を東京本社に移転。新三菱重工業サッカー部に名称変更 情報源のサイトへ
1964 GHQにより分割されていた3社が合併し三菱重工業サッカー部へ名称変更 情報源のサイトへ
1964 合併し、再び三菱重工業(株)となってからの 情報源のサイトへ
1964 ちょうど高度成長の追い風もあって、3社は再統合を計画。この計画には「財閥の再来」などと非難する声も挙がったが、他の三菱グループにも協力を仰ぎながら、1964年 情報源のサイトへ
1964 行われた東京オリンピックでは片山洋、谷昌三を日本代表へ輩出。 情報源のサイトへ
1964 3社が合併し、新生・三菱重工業株式会社(本社は東京都千代田区が誕生 情報源のサイトへ /%E5%85%89%E5%AD%90%E9%83%8E%E8%AA%95%E7%94%9F%E6%97%A5%20010.jpg /imgf16e7547zik6zj.jpeg
1965 創設時から参加しており、JSL通算最多勝利・通算最多勝ち点を記録する。また、古河(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、日立(現柏レイソル)と並んで、丸の内御三家の一画を成し、リーグ運営の中心にあった 情報源のサイトへ
1965 創設時から参加したが、練習場所や練習時間の確保が難航。また当時は社業を最優先し選手達も様々な部署に所属していた為、合同練習する機会が少なく他のクラブの後塵を拝した 情報源のサイトへ
1965 第1回日本サッカーリーグに参加 情報源のサイトへ
1966 杉山隆一、横山謙三。 情報源のサイトへ
1966/11/30 森孝慈らメキシコオリンピックで活躍する事となる選手達が加入した。これらの選手達は中心選手として後の栄光の時代を支えた 情報源のサイトへ
1967 三菱重工川崎工場内に照明設備付きの専用グランドを確保するなど環境改善や選手の待遇改善(選手達を総務部に転属させた)に取り組み、それが功を奏し1970年代には多くのタイトルを獲得した。 情報源のサイトへ
1970 分社独立。現在は、三菱重工会長(当時・現相談役)の西岡喬が三菱自動車の会長を兼務 情報源のサイトへ
1970 三菱自動車工業株式会社 - 本社:東京都港区、1970年 情報源のサイトへ
1975 三菱グループ操業100周年の記念事業の一環として東京都豊島区巣鴨に総合スポーツクラブ「三菱養和クラブ」が設立されたが、森健兒はこの事業に尽力している。また、同クラブのサッカースクールには三菱サッカー部OBが指導者として迎えられ、ユース年代の各大会で好成績を収めると共に多くの選手を輩出した 情報源のサイトへ
1978 JSL、天皇杯、JSLカップの3冠を達成 情報源のサイトへ
1986 日本サッカー協会が導入したスペシャル・ライセンス・プレーヤー(ノンアマ)制度にも消極的[1]で、アマチュアリズムの牙城を頑なに守る保守派の代表的存在、読売クラブや日産自動車等のプロ志向のクラブに対し、「サラリーマン・サッカー」と揶揄され敬遠される存在であった。 情報源のサイトへ
1986 基盤技術研究所設立 情報源のサイトへ
1987 ライセンス・プレーヤー(LP)、ノンプロ(NP)、アマチュアの三段階に区分された。1987-88シーズンのリーグ年鑑によれば、他のJSL1部参加11チームの登録選手の殆どがLPかNPで登録されているのに対し(唯一の例外が読売クラブに所属していた当時、高校生の菊原志郎)三菱の登録選手24名全員がアマチュア登録となっていた 情報源のサイトへ
1989 JSL2部降格 情報源のサイトへ
1990 子会社の三菱自動車工業にチームを移管して「三菱自動車工業サッカー部」へと名称を変更した[2]。そして従来のアマチュア至上主義を転換して、名門としてのプライドもあってプロリーグ参加へ名乗りを挙げる事になった 情報源のサイトへ
1993 日本サッカーリーグ全史』(日本サッカーリーグ、1993年) 情報源のサイトへ
1998 『レッズと浦和-純愛サッカー物語』(山岡淳一郎著、浦和レッドダイヤモンズ後援会、1998年) 情報源のサイトへ
1998 『浦和レッズの幸福』(大住良之、アスペクト 1998年) 情報源のサイトへ
2002 『空っぽのスタジアムからの挑戦』(平塚晶人、小学館 2002年) 情報源のサイトへ
2003 本社を東京丸の内から東京品川に移転 情報源のサイトへ
2003 (三菱重工横浜ビル) 情報源のサイトへ
2003 (大代表) 情報源のサイトへ
2003/1 三菱自動車工業から分離・独立。三菱ふそうバス製造、菱和車体工業を子会社に持つ 情報源のサイトへ
2004 『「Jリーグ」のマネジメント』(広瀬一郎、東洋経済新報社 2004年) 情報源のサイトへ
2004 ISBN-10: 458303685X 情報源のサイトへ
2004/7 三菱重工業神戸造船所に勤務していた54歳の男性が、同造船所の複数の社員による『監理技術者』の資格者証の不正取得があったとして、社内のコンプライアンス委員会にメールで通報したところ、設計補助の担当を外されて閑職に回され、さらに 情報源のサイトへ
2005 三菱自動車工業を持分法適用会社とした。 情報源のサイトへ
2005 自然エネルギープラント 情報源のサイトへ
2005 第二次世界大戦情報源のサイトへ /047_1.jpg
2007 H-IIAロケットの打ち上げ業務、商業打ち上げ受注業務をJAXAから移管される。 情報源のサイトへ
2007/6 関連会社へ出向(休職派遣)を命ぜられ、「報復人事を受けた」として、出向の取り消しと、慰謝料など110万円の支払いを求める労働審判を神戸地裁に起こした[1]。 情報源のサイトへ
2008 YS-11以来の国産旅客機となるMRJの事業化を決定。事業会社である三菱航空機株式会社を設立する 情報源のサイトへ
2008/3 期のもの 情報源のサイトへ
2008/8 「新キャタピラー三菱株式会社」から社名変更。今後キャタピラー社主導の経営に移行予定 情報源のサイトへ
2009/2 本サッカーリーグ 情報源のサイトへ
2009/1/13 同社を相手取って、神戸地裁姫路支部に対し、正社員としての地位確認を求める訴訟を起こした[2]。 情報源のサイトへ
2009/1/14 ^ 提訴:「偽装請負だ」と三菱重工を--兵庫の男性 毎日新聞 2009年1月14日 情報源のサイトへ

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