「期限ありきではない」

 こんな前提で始まったはずの集団的自衛権をめぐる与党協議が、いつの間にか大詰めを迎えつつある。

 きのう、安倍首相と公明党の山口代表が会談し、22日に国会が閉会した後も、議論を続けていくことを確認した。

 与党協議の焦点は、集団的自衛権の行使を認めるかどうかではなく、どの範囲まで認めるかに移っている。

 首相は、遅くとも7月初めまでに閣議決定をする構えだ。

 たとえどんなに限定をつけようとも、集団的自衛権を認めるのは、歴代内閣が憲法9条によって「できない」と言ってきた他国の防衛に、日本が加わるということだ。

 専守防衛に徹してきた自衛隊が、これまで想定していなかった任務のため海外に出動することになる。

 首相が、憲法解釈の変更に向けた検討を表明してから、わずか1カ月あまり。教科書を書き換えねばならないほどの基本政策の転換に、国民の合意が備わっているとは言い難い。

 実質的に期限を切ったなか、与党間の政治的妥協で決着をつけていい問題ではない。

 ここはいったん、議論を白紙に戻すべきだ。

■協議の限界あらわに

 きょうからの与党協議の焦点は、政府が示した15事例の具体的な検討から、自民党の高村正彦副総裁の私案を下敷きとした閣議決定の文案に移る。

 公明党幹部によれば、15事例は議論のための「小道具」に過ぎず、その役割はもう終わったのだという。はじめからわかっていたこととはいえ、それではいままでの協議は何だったのか。空しさが残る。

 一方、高村私案には重大な懸念がある。

 「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」。これが、「他国に対する武力攻撃」に、日本の自衛隊が武力を使うにあたっての条件だという。

 一見、厳しい枠がはめられているようにも見える。だが、結局は政府がこの条件にあてはまると認定さえすれば、自衛隊は武力を使える。

 ここに「限定容認論」のまやかしがある。

 あいまいな要件のもと、自衛隊が他国を守る武力行使に踏み出す。いったん認めてしまえば、「必要最小限」の枠などあっという間に広がっていくのは目に見えている。

 公明党の要求を受け、閣議決定にあたってはもう少し厳しめの表現に修正されるかもしれない。だが、その本質は変わりようもない。そして、その修正がまた、公明党を容認に引き込むための新たな「小道具」となる矛盾をはらむ。

 公明党が「連立離脱」というカードを早々に封印して行われた協議の限界である。

■広がる首相の狙い

 「日本人が乗っている米国の船を、自衛隊は守ることができない。これが憲法の現在の解釈だ」。与党協議は、先月の首相の記者会見での訴えを受けて始まった。

 ところが、いざ始まってみれば、政府の狙いがそればかりにあるわけではないことが次々に明らかになった。

 ペルシャ湾を念頭に置いた自衛隊による機雷除去への首相のこだわりは、その典型だ。

 一方、首相は記者会見や国会審議で、中国の軍備拡張や東シナ海での自衛隊機への異常接近などを例に挙げて、安全保障環境の変化を強調した。

 中国の軍拡は日本への脅威となりつつある。ただ、多くの国民が不安に感じている中国の尖閣諸島に対する圧力は、集団的自衛権の議論とは直接には関係がない。本来、個別的自衛権の領域の話である。

 政府が事例に挙げた離島への武装集団の上陸への対応も、自衛隊が警察権にもとづいて出動する際の手続きを簡素化することでほぼ決着。議論の焦点はもはやそこにはない。

 なぜ、こんなちぐはぐな議論のもとで、集団的自衛権を認める閣議決定になだれ込もうとしているのか。

■憲法に背を向けるな

 答えは明らかだ。日本の安全を確保するにはどうすべきなのかという政策論から入るのではなく、集団的自衛権の行使を認めること自体が目的になっているからだ。このまま無理やり憲法解釈を変えてしまっては、将来に禍根を残す。

 集団的自衛権が日本の防衛に欠かせないというのなら、首相は「命を守る」と情に訴えるのではなく、ことさら中国の脅威を持ち出すのでもなく、理を尽くして国民を説得すべきだ。

 そのうえで憲法96条に定めた改憲手続きに沿って、国民の承認を得る。

 この合意形成のプロセスをへなければ、歴史の審判にはとても耐えられまい。