特別連載 映画人生・岡田茂の決断
若き経営者に贈る岡田茂の遺産 F

不採算部門の切り捨て、合理化に踏み切り 新しい映画産業の姿に向かって挑戦

 西条出身で東映名誉会長の岡田茂氏。激動の時代・昭和を生き抜いた「岡田茂」の自伝を振り返りながら氏の実像に迫り、私たちに残してくれた、大いなる遺産を確認する。


▲社員旅行にて岩淡(左)と腕相撲に興じる

社 長 就 任

 44歳の岡田茂氏は、映画本部長に就任すると劇場映画については、「不良性感度」というフィルターをかけた「任侠路線」「エログロ路線」を徹底しました。

 テレビ映画は「良性感度」の考え方のもとに、次々とお茶の間劇場の人気番組を誕生させていきました。1971年、テレビ本部長も兼務した岡田氏は、劇場映画とテレビ映画との政策理念の立て分けを、さらに徹底して実行していきました。このことが、映画を中心とした娯楽産業としての「東映」を、確固不動の地位に築き上げていったのです。

 この当時、大川社長の子息・大川毅専務は大ブームとなった「ボーリング」を中心とした、脱映画産業を意図した娯楽産業構築を推進していました。しかし時代の変遷は激しく、ボーリングが衰退し始めると、脱映画プロジェクトに反対する労組をはじめとする多くの社員たちの批判が大川専務に向けられました。1971年、その収拾に動いた岡田氏は最後の手段「ロックアウト」戦術に打って出て、何とか窮地を脱したのですが、その年、大川博社長が死去するという突然の訃報に見舞われたのです。

 岡田氏は断固固辞するも、その人望の波には抗しきれず、ついに社長に就任することを決断したのでした。

 社長に就任した岡田氏は、躊躇(ちゅうちょ)なく不採算部門の切り捨て、合理化に踏み切りました。ほとんどのボーリング場の売却、東京タワータクシーの営業停止、東映フライヤーズの売却、東映動画の合理化などを一気呵成(かせい)に実行したのです。

 岡田社長時代の特筆すべき実績の一つが「アニメーション」です。労組問題を抱える東映動画の社長に、一線を引いていた今田智憲氏を復帰させ、「キャンディ・キャンディ」「ドラゴンボール」「銀河鉄道999」「北斗の拳」「美少女戦士セーラームーン」などのアニメの名作を次々と制作し、大ヒットさせたのでした。

 1990年初頭、バブル経済の破綻、デフレ不況に見舞われた日本経済。株価の急落、不動産価格の暴落、金融引締めによる大型企業倒産など、高度経済成長に酔いしれていた日本経済にとって驚天動地の時代転換でした。

 岡田社長は激動する時代の変化に対応するために、1993年、代表取締役会長に就任するとともに、新しい映画産業のとるべき姿に向かって挑戦を開始しました。

 大きな声で、かまわず広島弁で話し、広島・西条の酒をこよなく愛した岡田氏は、ふるさと広島(西条)を愛する気持ちは人一倍強く、東京広島県人会の会長を引き受け、瞬く間に、4000人の会員を擁する日本一の県人会に育てあげています。また、1989年、広島県が主催した「海と島の博覧会」では因島会場のスポンサーとして全面協力しています。

 東急の総裁・五島昇氏が健在のうちに、1980年、東急レクリエーション社長に就任し、東急グループとの復縁をしていますが、これなど岡田氏の人生哲学を端的に物語るとも言うべき出来事だったと思うのです。

 現在映画産業は、シネマコンプレックス時代が到来するとともに、インターネットによるオンデマンド配信が主流となり、アイフォンなど新たな情報機器の登場などが、映画産業に大きな影響を与えています。

 また、少子高齢化や団塊世代のリタイヤ、グローバル時代の到来など、激しい次代の変化の波が押し寄せてきていますが、「東映グループ」は、ニューリーダー・岡田裕介会長を先頭に、激変する次代の大波を堂々と乗り切っていっています。

 郷土の生んだ昭和の英傑「岡田茂」が心血を注いで育て上げた「東映」がますます発展していくことは間違いないと確信しています。

(エッセイスト・千義久)


自伝「悔いなきわが映画人生」より
大川博社長が急死、岡田社長誕生の真相


「悔いなきわが映画人生 東映と共に歩んだ50年」
著/岡田茂
発行/株式会社 財界研究所
発売日/2001年6月
 岡田茂氏がすべてを語り尽くした。いま明かされる戦後日本映画史の裏面史。東映50年の劇場公開映画一覧と、東映の年表を収録。

 八月二十四日、政財界人、映画人が多数集まった東京青山葬儀所で大川社長の社葬はしめやかに執り行われたのである。葬儀委員長には映画産業団体連盟会長の永田雅一・大映社長にお願いしたのだった。

 そこで誰が次期東映社長に就くのか、という問題がにわかに浮上したのである。ゆくゆくは息子さんの毅専務を社長にしようというのが大川社長の考えだろう、と私は思っていた。

 今だから打ち明けることなのだが、事実は違ったのである。私が大川社長の病院を訪ねた時、雅子夫人は「主人はいざとなったらあなたに頼みますと日頃から申しております」と話したのだ。毅専務も同じ意見だというのである。

 私は「今はまだそれを言うべき時ではありません。私は最大の協力を惜しまない。毅さんあなたがやるべきです」とだけ申し上げたのである。

 大川社長がご逝去した後、すぐにある映画関係者から私の自宅に電話がかかってきた。毅専務が国際部でニューヨークに駐在していた頃から昵懇にしていた人物なのだが、葬儀の後で毅専務も交えて三人で会いたいというのである。三人は新橋のある料亭に集合した。その人物は毅専務と私を前に「今日二人を呼んだのはほかでもない。社長問題でもたもたしているようでは大変なことになりますよ。今ここで即刻決めよう」と話したのだった。

 私は間髪入れずに「社長は毅君がやるべきだ。代表権も あるし、何も差し支えない」と率直な考えを述べた。これに対して毅専務は「私は社長になる意思はありません。岡田さんがやってください。私には自信がないんです」というのである。

 私は「今日中に決めるといっても私の決心が固まらない」と言い残してその場を辞したのだが、帰宅するとすかさず家に電話が入り「君しかいない。早く社長就任を受けてくれ」と決断を促すのである。私は坪井与・東映専務の意見を聞いて「皆が推すのなら男として引き下がれない」と社長に就くことを決意したのである。すぐに毅専務が私の家まで挨拶に来たのは印象深かった。この社長交代には、東急電鉄の五島昇社長など第三者が介在した、という噂も流れたりしたが、真相はこの通りである。

 社葬の翌日、昭和四十六年八月二十五日に臨時取締役会が開催され、私は第二代目の東映社長に就任したのである。

第十五から転載

バックナンバー

>>E映画とテレビのすみ分けを明確に 「不良性感度」という考え方

>>Dテレビ時代の到来を確信  『白馬童子』がヒット

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>>@腕白大将は遊びのなかで、リーダーの資質開花

ザ・ウィークリー・プレスネット 2014/6/14

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