特別連載 映画人生・岡田茂の決断
若き経営者に贈る岡田茂の遺産D
テレビ時代の到来を確信 『白馬童子』がヒット
西条出身で東映名誉会長の岡田茂氏。激動の時代・昭和を生き抜いた「岡田茂」の自伝を振り返りながら氏の実像に迫り、私たちに残してくれた、大いなる遺産を確認する。
▲京都撮影所時代、家族と撮影
東映誕生
1951年4月1日、東映株式会社(資本金2000万円)が発足しました。代表取締役社長には、東急専務大川博氏が就任しました。しかし実際の設立年月日は、1949年10月1日となっています。これは、岡田茂氏が入社した東横映画と太泉映画が合併して設立された東京映画配給株式会社が、その後、制作会社2社を吸収合併して、1951年4月1日に社名を東映株式会社に変更したことによります。東映の出現で、映画界は東映、大映、松竹、東宝、新東宝の5社体制となりました。
大川社長は有能な経理マンであり、多額の負債と借入金で厳しい経営を強いられていた東映を翌年には東証に上場し、わずか5年で、映画界でトップの配給収入を得る企業へと発展させた功績は、現在でも高く評価されています。 当時、岡田氏は京都撮影所の製作課長であり、労働組合委員長に就任していました。現場のスタッフはもとより、俳 優や監督たちからも絶大の信頼を得ており、実質的なゼネラルマネジャーとして、予算の全権を握っていました。徹底した予算管理と人心掌握によって、大川社長の絶対的な信頼を勝ち得ており、「時代劇の東映」の確立に大きく貢献していきます。
時代劇を禁止した占領政策から開放された東映は、戦前から活躍していた片岡千恵蔵・市川右太衛門・月形龍之介・大友柳太朗などの大物俳優とともに、中村錦之助・東千代之介・美空ひばりなどを次々とデビューさせ、東映時代劇ブームを巻き起こしていきました。1956年にはついに、年間配給収入で業界トップとなったのです。
1957年、京都撮影所製作部長に、1960年には京都撮影所長に就任した岡田氏は、将来を見据えて大きな決断をしています。ひとつはシネマスコープの導入であり、もうひとつはテレビ番組の制作にいち早く取り組んだことです。
1955年に渡米し、米国の映画界がシネマスコープという迫力満点の大型画面の映画製作に取り組んでいることに刺激され、他社に先駆け、1957年には日本初のシネマスコープ作品「鳳城の花嫁」を公開しています。
また、テレビ時代の到来を確信した岡田氏は、山城新伍主演でテレビ映画として制作した『白馬童子』をヒットさせ、北大路欣也や松方弘樹を入社させています。
テレビ時代の到来は、予想通り映画産業の衰退につながっていきました。しかし、岡田氏の勇気ある英断は、「時代劇の東映」として培われた監督や俳優、制作スタッフ、設備、衣装、大道具、小道具などすべてが活用できることから、映画製作のノウハウや設備がほとんどないテレビ局にとって、東映は有力なパートナーとなっていったのです。
(エッセイスト・千義久)
自伝「悔いなきわが映画人生」より
入社四年で〈現場の親分〉に大抜擢されて
「悔いなきわが映画人生 東映と共に歩んだ50年」
著/岡田茂
発行/株式会社 財界研究所
発売日/2001年6月
岡田茂氏がすべてを語り尽くした。いま明かされる戦後日本映画史の裏面史。東映50年の劇場公開映画一覧と、東映の年表を収録。
一時、私は京都撮影所の製作課から企画課に配属換えがあったが、現場から復帰を求める声が上がり製作に戻った。そして入社四年目の昭和二十六年十一月、私は京都撮影所製作課長に抜擢された。私は弱冠二十七歳だったのだが、これは、大川社長の鶴の一声で決まった人事である。
製作課長といえば、映画の撮影現場では総指揮者と考えてもらってよい。つまり、製作課長には〈現場の親分〉という役割が求められているのである。撮影現場のベテラン中のベテランが就くのが製作課長で、五十歳以上でないとできないといわれていた仕事に二十七歳の私が就くことになったのである。しかも、製作課では私が一番年下だった。
これには私も困ったのだが、私に任せてくれた大川社長の恩義に応えなければならない。開口一番、私は年上の部下を前にして「とにかく、現在の東映は大ピンチです。私が上司になってこの野郎と思う人がいるかもしれませんが、皆の力が必要です。いやな人は今すぐに言ってください、すぐに部署を変えてもらいます。ただし、製作は私の方針でやらせてもらいます」と単刀直入に自分の考えを話したのだった。幸い、私の製作課長就任に否定的な人は一人も出なかった。若い私に難局を任せようと現 場の皆の気持ちがひとつにまとまったのである。
この時の皆の協力は大変ありがたかった。東映が大きな転換期にあったこともあり、この頃の経験は私の人生で大きな財産になったといまでも感じている。
それからどんどん仕事が忙しくなり始めた。その理由の一つが昭和二十六年九月の日米講和条約締結による時代劇の配給制限の撤廃である。時代劇映画は、チャンバラ、仇討ち物など敗戦国民である日本人にいらぬ刺激は与えないようにとのGHQの指導により、配給数を減らしていたのである。一社につき月間一本、年間十二本と、制作できる時代劇の本数は限られていた。しかも、映画ではチャンバラシーンも極力短くしていた。それで、片岡千恵蔵さんの多羅尾伴内シリーズなど人気の現代劇を生んだのだが、やはり時代劇の俳優は時代劇で真価を発揮するものである。
第九章から転載
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>>B人生を決めた出会いと決断 「鶏口となるも牛後となるなかれ」
ザ・ウィークリー・プレスネット 2014/5/3
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