西村幸祐の仕事

           
 
 
Memory of World Cup FRANCE フランス大会の思い出-1 



パリの休日・1998年7月2日   (初出「2002CLUB」・『八咫烏の軌跡』所収)

 1998年6月30日、ボルドーとサン・テチエンヌで決勝トーナメント第一ラウンドの最後の2試合が行われ、ベスト8が出揃った。サン・テチエンヌのイングランド対アルゼンチン戦は、色々な意味でワールドカップの歴史に新たなドラマを書き加える試合になった。7月2日、この日は、決勝トーナメントが始まる前の試合が全く行われないワールドカップの休日だった。
 パリの休日と言えば優雅な響きだが、起床はその頃連日午後1時ぐらいになってしまい、それまでの取材資料の整理や、ポート・デ・ベルサイユにある国際メディアセンターへ出かけて情報収集をしたりするだけで時間がなくなってしまった。しかも、この年のパリは異常気象だった。とにかく寒い。特にその前後の三日間夜は肌寒く、風邪気味になってしまった。それでも、少し時間ができ、午後8時過ぎに東京でいえば銀座に当たるオペラ界隈に出かけることができた。

 当時、オペラ界隈の表情は、ほとんどいつもと変わらなかった。ワールドカップ用の店内装飾をしている店は少なく、違うのは、時折各国のレプリカユニフォームを着た人々とすれ違うことぐらいだ。それも一次リーグの頃は各国のレプリカとすれ違ったが、大会が進むにつれてアルゼンチン、ブラジルぐらいしか眼にしなくなっていった。パリ在住の西部謙司氏と待ち合わせたことがある、私のお気に入りのうどんや国虎屋に行き、カツ丼を注文する。店主のMさんによると「ワールドカップ不景気」だと言う。

「とにかく暇で死にそうですよ。いつも7月になれば観光客も多くなるのに、今年はワールドカップだということでみんな敬遠してしまったんですね。それに、ワールドカップのお客さんも全く来ませんでしたよ。こんな時に観光すればどこも空いているしいいんですけどね」
 それはそうだ。観戦ツアーはパリに立ち寄るツアーは極一部であり、一般の観光ツアーはワールドカップの影響で大きなホテルを押さえることができなかったからだ。
「2002JAPAN」(2002CLUBの当時の名前)の観戦ツアーでもパリ一泊というコースがあったが、なんと、ナントを夕方バスで出発し、夜11時にホテルにチェツクイン、翌朝7時半にシャルル・ド・ゴールを発つというのだから、一泊に偽りはないが、とんでもないスケジュールだった。あのコースに参加した4名の方は全員クロアチア戦を観戦できたのが、せめてもの慰めだった。

 そんな彼らのことを思い出したのも、日本にとって少々嬉しいニュースがあったからだ。国際プレスセンターでのFIFAの広報担当による毎朝のブリーフィングで、クーパー報道官が日本のサポーターを大いに褒めた。「今大会のフェアプレー賞の候補になった」と彼は言明したのだ。代表チームはフェアプレー賞選考の対象になる前に一次リーグ3戦全敗で帰国せざる得なかったのだが、サポーターは一躍世界で名を挙げることができたのである。
 この日本サポーターへのメッセージは、フランス大会前から問題になっていた噴出したフーリガン問題に対する、FIFAの全世界へ向けた意志表示だった。イングランド、ドイツのサポーターが相次いで暴動を起こし、全世界の非難を浴びたことから、FIFAなりの政治的発言と受け取れる。しかし、だからと言って日本サポーターの価値を貶めるものではない。

 

 6月20日、ナントの試合では、会場整理に当たっているボランティアスタッフが日本サポーター横の通路に座り、埋め尽くした日本人サポーターの歌声に合わせて「アレ!アレ!ジャポン!」と大声で唄っていた姿を思い出した。
「だって、素敵な応援でしょ! フーリガンと違うし、チケットもなくてみんな苦労して、試合も苦労してたし」。こう言ったのは、ナント在住のボランティアスタッフで28歳になるミッシェルだった。
 チケット問題も大きな禍根となった。トゥールーズではスタジアムでばったり遇った顔見知りのサポーターが僕を見つけて泣き出したことがあった。彼女は97年の最終予選で中央アジアに遠征していた筋金入りのサポーターだ。カザフスタンで初めて会ったのだが、何しろ清水出身だ。その彼女が泣き出したのだから只事ではない。

「酷い人がいたんですよ。みんな入れなくて困っているのに、トゥールーズの街中で、日本人に50万なら売ってやるって言ってたんですよ。こんな所に来て、日本人がそんなことを言っていたんですよ。おまえ日本人なのか、情けなくて、悔しくて悔しくて・・」
 そういいながらも彼女の目は涙で一杯になり、こう続けた。
「ウルトラスも入れなくて、朝日君(ウルトラス日本のリーダー、植田朝日)が俺はいいからって言って、みんなを入れようとしているんだけど、みんなが朝日が入らないとダメだって言って・・」

 その日のFIFAの発表を聞いて、そんな場面が私の頭に蘇って来た。
 トゥールーズではチケットをもがれ、悲壮感に溢れていた日本サポーターも、ナントではかなり余裕が見受けられた。みんな苦しい体験をしながらダフ屋との交渉にも慣れていったのだろう。その余裕を私は逞しく感じたが、当時日本では、サッカーの取材をしたこともない人間がしたり顔をして、そんな窮状に陥った彼らを「天罰」と朝日新聞に書いていた。私は、その書き手に天罰が下ることを楽しみにしていたが、サッカーの神は残念ながらそんな輩を無視してしまった。

 

 ところで、6月30日の試合はクロアチアがルーマニアを破ったことが驚きだったが、その好試合も午後9時からのイングランド対アルゼンチン戦のために霞んでしまった。現地メディアが大きく紙面をさいて伝えていたのは、もっぱらサン・テチエンヌの試合だった。
 イングランドに帰国した選手団の模様をテレビニュースが伝えていたが、ホドル監督の、自信が微塵も揺らいでいないかのような表情が、実に印象的だった。ベッカムが退場になった審判の判定には大いに疑問が残ったが、あれもワールドカップである。イングランドは12年ぶりに訪れたアルゼンチンに屈辱を晴らす機会を、またしてもジャッジによって奪われてしまった。あのシーンだけでなく、後半34分のキャンベルのHDゴールもシアラーのキーパーへのチャージで取り消されたが、あれも微妙な判定だった。しかし、ベッカムがあれで退場なら、その前日のオランダ対ユーゴ戦でベルカンプは退場になるべきだった。とにかく今大会はバックチャージを厳しく取り締まると事前にFIFAがコンファームしていたにもかかわらず、バックチャージがファールにならないケースも目立ち、判定基準の曖昧さが大きな問題を残してしまった。

 あの時、帰国したベッカムは、当時、日本で城が受けたバッシングと比較にならないほどの罵詈雑言を浴びせられた。審判の判定が厳し過ぎると言っても、狡猾なシメオネの策略にはまったベッカムは非難されても致し方なかった。当時、後のベッカム夫人となるスパイスガールズの一人と浮き名を流した上に、彼の経験の無さを露呈させたことが槍玉に挙げられたからだ。

 シメオネは日本戦ではあれだけ狡猾な演技をする場面を見せることなく終わったが、それは日本がそこまでの演技を強いるプレッシャーを試合で彼に掛けなかったからだ。しかし、あの試合は違っていた。両国にとって絶対負けられない試合だった。ベッカムは確かに倒れたまま膝を曲げてシメオネの脚を蹴ったのだが、あれほどシメオネが痛がるのはアカデミー賞ものの演技であった。その証拠に、審判がカードを手にし、シメオネに示そうとしたとき、アルゼンチン選手はなぜか必要以上に焦って審判に詰め寄ったからだ。

 

 オペラ界隈のカフェでホドル監督の伝記を繙(ひもとい)た。5月にローザンヌに入るとき、トランジットのヒースローで買った本だが、ローザンヌで会った後藤健生が「つまらなそうな本だね」と言って腐したので読む気がしなかったのだが、以外と面白かった。ホドルは小学生の頃から「イングランドのために戦える選手になる」と思ってサッカーを始めた典型的なサッカー少年だったが、代表監督になるということは選手時代は微塵も思っていなかったそうだ。

 ホテルに戻る前にフナックに寄った。ここのフナックは連日深夜12時過ぎまで開いているので、CDを冷やかしていたら、3枚も買うはめになってしまった。ローザンヌでも3枚CDを買ったが、どれも大当たりだった。ジャズのバリトンサックス奏者であるジェリー・マリガンがアルゼンチンタンゴの大御所ピアゾラと共演した1974年ミラノ録音のアルバムは最高だった。オルランド・モライスの「フットボール」という最新アルバムも良かったし、学生時代から探していたグレン・グールドのデビューアルバム、バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」も素晴らしかった。

 ところが、今日は当たり外れが出てしまった。ブラジル人ミュージシャン、ミルトン・ナシメントのアルバムはジャケットも秀逸、ジョアン・ジルベルトのオリジナルバージョンばかりを集めたフランスEMI制作のアルバムも良かった。ところが、ミッシェル・ルグラン作のサウンドトラックのアルバムが酷く退屈だ。いわゆる駄版を掴まされてしまった。フランスはさすが映画の国だけあって、CD売場にサウンドトラックの一大コーナーが設けてある。その装置に騙されたわけではないが、映画音楽は余程のものでないと音だけでは鑑賞に堪えられない。本当は「ロシュフォールの恋人たち」のサントラを欲しかったのだが、見つからず、これを手に取ってしまった。これなら、当時パリでヒットしていたダライ・ラマの半生を描いたマーチン・スコーセッジ監督の「KUNDUN」のサントラの方が良かっただろう。音楽はフィッリプ・グラスだった。

 じつは、こんなCD選びもサッカー観戦と同じで、駄版を掴まさられることがあるから、名盤の価値が本当に解るのである。ワールドカップの本大会ではCDの駄版に匹敵する試合はほとんどないが、各国のリーグ戦では、それがスペインリーグであろうと、セリエAであろうと、Jリーグであろうと、駄版はある。特にJリーグでは駄版が多いだろう。しかし、多くの駄版を聴くことによって、名盤を聴き分ける鑑賞法も養えるのだ。
 ------さあ、明日になれば、いよいよ、準々決勝が始まるな。これからの試合は、全試合が名盤であることを期待しよう。と、そんなことまであれこれ考えた束の間の休日もフランス大会の楽しい想い出だ。

この項続く >>>

 
 
 
 

 


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2004 Kohyu Nishimura