June 19, 2014

社会学における実証主義批判の対象は論理実証主義だったか?

『現代思想』6月号の「ポストビッグデータと統計学の時代」に寄稿された太郎丸博さんの論考「統計・実証主義・社会学的想像力」(pp.110-121) を読んだ。全体としては同意できる点が多い論考なのだが、論理実証主義をめぐる論点でちょっと気になったところがある。

太郎丸氏は、論理実証主義を「経験的に真であることが検証された命題と、それらの真の命題から論理的に演繹された命題のみにもとづいて科学的な言明は構成されるべきである」(p.112)という立場としてまとめ、それがいくつかの側面から批判されてきたということを(ラカトシュ、ガーフィンケル、ラトゥール、ヘッシーらを文献として引きながら)紹介している。この論理実証主義のまとめは狭すぎる気もするが大きく外しているというほどでもない。

しかし、太郎丸氏は論理実証主義をこのように理解した上で、以下のように社会学の中での実証主義批判をまとめる。

「かつて社会学を席巻した実証主義批判の中で批判の的となったのは極端な意味での実証主義であり、端的には論理実証主義であった」(p.113)
「1980ー90年代頃の実証主義批判の中では論理実証主義の哲学が批判されるのが通例だったので、どの社会学者が、あるいはどの論文が実証主義的とみなされていたのか、はっきりとは分からない」(pp.113-114)
「当時の実証主義批判者たちは論理実証主義と反証主義の区別もついていなかった」(p.114)

これらの主張には同意できない。これについては私自身かつてまとめたことがある(伊勢田 『認識論を社会化する』2004, pp,155-158, pp.165-173。Platt,  A  History of Sociological Research Methods in America 1920-1960 (1996) やBryant, Positivism in Social Theory and Resaerch(1985)などがネタ元である)。

アメリカ社会学の文脈でいえば、社会学に実証主義という言葉を再導入したのはジョージ・ランドバーグ(たとえば1939年のASRの論文「社会学における現代の実証主義」)だというのは常識に属することだと思うし、当然太郎丸氏も知っていると思われる。この時点ではまだ統計よりも概念に操作的な定義を与えるということの方に力点があった。ランドバーグの考え方は論理実証主義と近いけれども、ジェニファー・プラットの分析ではやはり両者には一定の距離があり、ラザースフェルトらが登場するとランドバーグは積極的に彼らを支持している(Platt 1996, 78-79)。

その後、1940年代後半から50年代にかけて出版された『アメリカの兵士』研究などによって統計的手法がアメリカ社会学を席巻することとなる。その中心は太郎丸氏も言うようにシュタウファーやラザースフェルトである。C.W.ミルズ(Mills 1959)は彼らを「抽象的経験主義」と呼んで批判し、そのほぼ同じ特徴を後にクリストファー・ブライアント (Bryant 1985, p.139以下)は「道具主義的実証主義」(instrumental positivism) と呼んでいる。道具主義的実証主義の特徴は、(1) 自然科学を社会学研究のモデルとみなすこと(2) 社会についての唯名論 (3) 反証主義を批判し帰納主義を採用すること (4) 価値中立性 (5)チームで研究すること、などである。ブライアントの記述は比較的中立的にラザースフェルトらがどういう立場だったかを記述するものだが、5項目のまとめ方自体が、すでに彼らの研究スタイルへの批判となっている。

ラザースフェルトらを「実証主義」と呼ぶのはブライアントにはじまったことではなく、たとえばホロヴィッツは1968年の本で実証主義批判をする際にコロンビア学派を名指しで指名している(Horowitz, Professing Sociology, p.200).ラザースフェルト自身も自分のことを「a European "positivist"」と引用符付きで呼んでいる箇所があり(Lazarsfeld, The Varied Sociology of Paul F. Lazarsfeld, p.12)、自分では使わないにしても他人から実証主義者とみなされているということは自覚していた節がある。

以上のような文献を総合すると、アメリカの社会学で「実証主義」といえばランドバーグとそれを受け継いだコロンビア学派などの統計的研究グループであって、しかもそれが論理実証主義とはっきり異なっていることも一般に認識されていた、と考えるべきだろう。

道具主義的実証主義への批判(批判自体は抽象的経験主義などさまざまな名前の下で行われるが)としては、この方法で研究できる対象が限られてしまうことへの批判や、社会というものを唯名論的にとらえてしまうことへの批判、社会問題から距離を置くことへの批判などが挙げられる(伊勢田2004を参照されたい)。この流れ自体は太郎丸氏の論考でも取り上げられているが、なぜか実証主義批判とは別物という扱いである。

もちろん、太郎丸氏が言うように、社会学における実証主義を論理実証主義と混同しているように見える議論がないわけではない( Hughes and Sharrock の The Philosophy of Social Research, 1990 など)。太郎丸氏が「1980-90年代」と時期を指定していることから、おそらく太郎丸氏の考える「社会学を席巻した実証主義批判」は私の知っている実証主義批判(60年代から70年代にかけてがピークだった)と別のものなのであろう。しかし、こういう話をする際にブライアントの整理を完全に無視するというのは解せない(85年の本であるから「1980ー90年代頃の実証主義批判」には含まれるであろう)。ちゃんとした批判者といいかげんな批判者がいた場合、相手にするべきはちゃんとした批判者の方であろう。



iseda503 at 17:55│Comments(0)TrackBack(0)

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