倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(2)
昨日に引き続いて、倉山満『嘘だらけの日中近現代史』(扶桑社新書140,2013)の誤りについて記述する。
なお、底本には2014年1月31日の初版第12刷本を用いたが、初版初刷なら分からないでもない凡ミスが、
この本は何故か大量に出てくるのである。
3,間違いだらけの秦王朝滅亡「三世皇帝?」「鹿が馬?」
倉山氏は言う。
「秦は、二世皇帝の時代にはもう腐敗と動乱が始まり、三世皇帝の時代に始皇帝の死後三年で滅んだのは記述のとおりです。「馬鹿」という言葉が生まれるのもこの時代です。つまり皇帝が馬を見せて『これは鹿だ』と宣言し、『いえ陛下、これは馬です』と間違いを正した家臣を殺したという逸話に由来します。」(同書P24)
今後の引用文は、上記のように誤記もしくは学問的に誤謬の有るおそれのある箇所は字を大きくし、下線を引くこととする。
この短い文章で既に4箇所も誤りがあるのである。
1)三世皇帝
秦に三世皇帝などという人物は存在しない。なぜかといえば、二世皇帝の末期には既に反乱軍が旧・秦国以外の領域をほとんど支配しており、王朝の体をなしていなかったので、二世皇帝の後を継いだ子嬰は「秦王」と称して三世は名乗らなかったからである。このあたり史記でも通鑑でも読んでおれば分かりそうなものである。
2)馬鹿という言葉
この言葉の語源には諸説あるが、この逸話を出典とする説はかなり疑問があり、現在ではほとんど顧みられていない。まず、「馬鹿」を音読みして「バカ」とならない(バロクとしかならない)という点が最大の弱点である。現在有力なのは、天野信景の梵語「莫迦」語源説、佐藤喜代治の禅語「破家」語源説、松本修の白氏文集「馬家」語源説の三説であろう。詳しくは松本修『全国アホ・バカ分布考』(新潮文庫)をお読みいただきたい。
3)皇帝が馬を見せて『これは鹿だ』と宣言し
史記秦始皇本紀を見る限り、丞相の趙高が皇帝位を乗っ取ろうとしてやったことである。皇帝がいったのではない。以下に史記当該部分の原文を引く。
「八月己亥,趙高欲為亂,恐群臣不聽,乃先設驗,持鹿獻於二世,曰:“馬也。”二世笑曰:“丞相誤邪?謂鹿為馬。”問左右,左右或默,或言馬以阿順趙高。或言鹿(者),高因陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高。」
すなわち、丞相の趙高が帝位に登る野望を持ち、おのれの意に臣下たちが従うかどうか試そうとして、鹿を持ってきて「馬だ」といったのである。この違いは大きいよ。あと、馬と鹿がどこでひっくりかえったんでしょうね…史記を読んでおればこんなミスはしないのである。
4)『いえ陛下、これは馬です』と間違いを正した家臣を殺したという逸話に由来します。
相手が丞相なんだから陛下なわけがないんですが…馬と鹿をまた勘違いしている。
このように、わずか数行で次々に誤りが出てくるのである。
ちなみに、史記は太平洋戦争中、学徒出陣した将校の方々にも読者があり、もはや靖国におられる方々や、その戦友の方々にも史記研究家はおられたのである。例えば、小竹文夫氏(史記の現代日本語訳を初めて行った)・武田泰淳氏(名著『司馬遷ー史記の世界』の著者)などである。戦地で史記を紐解かれた方も多く、「シナはこんなことでどうなることじゃ…だが、わたしはシナを史記があるかぎり見捨てんよ」と小竹氏は戦地で述懐されたそうだ。
小竹文夫・武田泰淳・牧田諦亮の三氏は陸軍にいたが終戦処理で中国に残っていた。昭和21年、三人で正月に史記滑稽伝を読んでうたた感慨に堪えなかったという。その頃日本では鈴木貫太郎首相が部下から貰った史記を喜んで読んでいた。
こういう命がけで日本のため、東アジアのために働かれた方々の過去の業績を粗末にしているように私には思える。
そういう経緯もあり、史記は昔の反中保守知識人にも愛読者が多いのだ。日本人は史記が好きだし、史記そのものが中華思想に反対して匈奴を褒めているので、反中知識人でも昔は史記を褒める人が多かった(渡部昇一とか谷沢永一とか)のである。渡部昇一氏は十八史略名言集を書いているぐらいだ。
なお、底本には2014年1月31日の初版第12刷本を用いたが、初版初刷なら分からないでもない凡ミスが、
この本は何故か大量に出てくるのである。
3,間違いだらけの秦王朝滅亡「三世皇帝?」「鹿が馬?」
倉山氏は言う。
「秦は、二世皇帝の時代にはもう腐敗と動乱が始まり、三世皇帝の時代に始皇帝の死後三年で滅んだのは記述のとおりです。「馬鹿」という言葉が生まれるのもこの時代です。つまり皇帝が馬を見せて『これは鹿だ』と宣言し、『いえ陛下、これは馬です』と間違いを正した家臣を殺したという逸話に由来します。」(同書P24)
今後の引用文は、上記のように誤記もしくは学問的に誤謬の有るおそれのある箇所は字を大きくし、下線を引くこととする。
この短い文章で既に4箇所も誤りがあるのである。
1)三世皇帝
秦に三世皇帝などという人物は存在しない。なぜかといえば、二世皇帝の末期には既に反乱軍が旧・秦国以外の領域をほとんど支配しており、王朝の体をなしていなかったので、二世皇帝の後を継いだ子嬰は「秦王」と称して三世は名乗らなかったからである。このあたり史記でも通鑑でも読んでおれば分かりそうなものである。
2)馬鹿という言葉
この言葉の語源には諸説あるが、この逸話を出典とする説はかなり疑問があり、現在ではほとんど顧みられていない。まず、「馬鹿」を音読みして「バカ」とならない(バロクとしかならない)という点が最大の弱点である。現在有力なのは、天野信景の梵語「莫迦」語源説、佐藤喜代治の禅語「破家」語源説、松本修の白氏文集「馬家」語源説の三説であろう。詳しくは松本修『全国アホ・バカ分布考』(新潮文庫)をお読みいただきたい。
3)皇帝が馬を見せて『これは鹿だ』と宣言し
史記秦始皇本紀を見る限り、丞相の趙高が皇帝位を乗っ取ろうとしてやったことである。皇帝がいったのではない。以下に史記当該部分の原文を引く。
「八月己亥,趙高欲為亂,恐群臣不聽,乃先設驗,持鹿獻於二世,曰:“馬也。”二世笑曰:“丞相誤邪?謂鹿為馬。”問左右,左右或默,或言馬以阿順趙高。或言鹿(者),高因陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高。」
すなわち、丞相の趙高が帝位に登る野望を持ち、おのれの意に臣下たちが従うかどうか試そうとして、鹿を持ってきて「馬だ」といったのである。この違いは大きいよ。あと、馬と鹿がどこでひっくりかえったんでしょうね…史記を読んでおればこんなミスはしないのである。
4)『いえ陛下、これは馬です』と間違いを正した家臣を殺したという逸話に由来します。
相手が丞相なんだから陛下なわけがないんですが…馬と鹿をまた勘違いしている。
このように、わずか数行で次々に誤りが出てくるのである。
ちなみに、史記は太平洋戦争中、学徒出陣した将校の方々にも読者があり、もはや靖国におられる方々や、その戦友の方々にも史記研究家はおられたのである。例えば、小竹文夫氏(史記の現代日本語訳を初めて行った)・武田泰淳氏(名著『司馬遷ー史記の世界』の著者)などである。戦地で史記を紐解かれた方も多く、「シナはこんなことでどうなることじゃ…だが、わたしはシナを史記があるかぎり見捨てんよ」と小竹氏は戦地で述懐されたそうだ。
小竹文夫・武田泰淳・牧田諦亮の三氏は陸軍にいたが終戦処理で中国に残っていた。昭和21年、三人で正月に史記滑稽伝を読んでうたた感慨に堪えなかったという。その頃日本では鈴木貫太郎首相が部下から貰った史記を喜んで読んでいた。
こういう命がけで日本のため、東アジアのために働かれた方々の過去の業績を粗末にしているように私には思える。
そういう経緯もあり、史記は昔の反中保守知識人にも愛読者が多いのだ。日本人は史記が好きだし、史記そのものが中華思想に反対して匈奴を褒めているので、反中知識人でも昔は史記を褒める人が多かった(渡部昇一とか谷沢永一とか)のである。渡部昇一氏は十八史略名言集を書いているぐらいだ。