ディスコ時代からのレポート No.5

六本木
With(ウイズ)
アマンドの横の路地を入ると、
すぐの半地下のお店です。
 ダンスフロアーは木の床で正面には鏡のある、踊りやすいお店でした。
天井が低く手を伸ばすと照明器具に当たり痛い思いをしました。
 当時は、ブレイクダンスの曲からテクノに移行する時期で、ブラック・ボックスの曲などは、ブレイキングで踊るには最適な曲でした。
 ユーロビートとワンレン・ボディコンが一世を風靡した時期でした。
 昔のオカマダンスが曲に合うため、女の子が達が変形させて、ご存じテクノの踊りになってしまいました。
 「テクノダンスって何がもとなの?」と言う人への回答になるでしょうか?
ジュリアナ東京
私はなぜかいつも浜松町から歩いてい
きましたが、田町からの方が近かった。
 テクノダンス最盛期にできた店で、140億稼せいだと言われています。
 当時スタッフは延べ300人いたそうですが、今も残っている方は私の知っている方はツインスターで2人、銀座ジニアス東京で2人、セブンで1人の5人です。
 正面のステージにお店の専属ダンサーの子に引っ張り上げられて、踊ったことも有りました。
 ダンスフロアー両サイドの高さを誇ったお立ち台での女の子達の過激さにはドキドキの嬉しさでした。
 週末は2000から2500以上は入っていました。
 バブル期でしたので女の子もお金を持っていたし、店の周辺には高級外車でのナンパ族が時代を物語っていました。
 その後の終焉は時代の移り変わりを感じさせました。
 本音を言うと踊りに行くとIUよりは、時代を感じに行くという感覚でした。
神楽坂
ツイン・スター
 このお店は、今も飯田橋駅西口をでて、左に行くとネオン看板が見えます。
横断歩道を渡るり300ぐらい歩くと右に
有ります。
 オープン時、日本経済新聞でブライダル産業も含めた営業をおこなうと発表し、それを続けているお店です。
 当初は、有名ミュージシャンを呼んだり、タレント御用達のお店で、私の会社も近くよく行きました。
 今でも紅田店長は、感じの良い対応で頑張っておられます。
 最近は仕事の関係上、たまの金曜日に行くぐらいです。
新宿
ナッパJ
 新宿では珍しく綺麗なお店で、ダンス・スペース、カラオケ・スペース、バー・スペースを持つ総合アミューズメント・ディスコでした。
 鏡も、お立ち台もあり、食事も美味しく文句のないお店でしたが、バブルの崩壊と内部事情のため閉店をしました。
 毎週土曜日には、12時過ぎから私は必ず行っていました。
 オープン当初は、週末激混みで席に座れなかったからです。
 私は、店長とスタッフもとも良く、スタッフの方の結婚式にも参加しました。
 最後の時期の店員でカッコ良い山田さんが、今、銀座ジニアスの入り口にいます。
日比谷
ラジオ・シティ
 有楽町駅を出て富士電気のツインタワー・ビルの地下に有りました。
 大きさも手頃、フロアー正面には鏡があり、昇降型お立ち台を持ったディスコらしいディスコでした。
 店長は13年間休みがなかったそうです、閉店の打ち上げは新宿の「ナッパJ」でした。
 バブルとユーロビートとワンレンボディコンのメッカでしたが、パラパラの流行とバブルの崩壊のおかげで有楽町、銀座のOL客が激減し、ダンス・クラッシクや営業努力はしたが、存続は無理でした。
 本当に店長、スタッフ、お店のつくりの良いお店でした。
 DJにもチャーリーさん(ベルファーレンでまわしていた)、二階堂さん(今、金曜日12時から六本木ソウル・ソニック・ブギーでまわしている)がいました。