1973年大阪
ボトム・ライン
 大阪梅田のアーケード街を歩いていくと、エスカレータがあり、入ると客席に囲まれたダンス・フロアー、正面には生バンドのステージがある大箱の店です。
 生バンドが交代する間の時間は、普通チークタイムなのですが、なぜかソウル(R&B)が流れて、踊れた。
 私は、当時踊りの見本がなかったので、空手の型、バック転、などのアクロバット・ダンスでごまかしてました。
1974年〜1977年大分
トレッカ
フリーダム
ピープル・ステーション
赤い靴

 学校が大分市だったので、大分で踊っていました。
 学校が休みになると、大阪、東京のディスコで1ヶ月ぐらいバイトをして残り期間は遊びまくるため、帰りはスッカラカンでした。
 「赤い靴」ではDJとウエイターをやりました。
 この時代にステップ・ダンスを20曲以上つくり北海道から沖縄まで、昼間は観光旅行、夜は旅行先のディスコでナンパ旅行でした。
 このころビー・ポップ・クルーのメンバーだったカーク君(当時高校生、後に天宮リョウと踊っていたが当然当時は下手だったと思います。)が店に来ていました。
 彼に会うと「白いバギーパンツの人」と言われます。(昨年末麻布10番の「セブン」で会ったときも)

 この頃のステップは各地方、各店でオリジナルがあり面白かったですよ。

 踊るときはタンクトップとレコード・ジャケットみたいな格好をしていました。
 稚内のマックスとか旭川のガラスでDJボックスが囲まれていた店とか、高知市の一番館、佐世保のムゲンその他多数。
1975年〜1978年
アップル・ハウス(新宿)
ブラック・シープ(新宿・渋谷)
最後の20セント(六本木)
メビウス(六本木)

 新宿のアフロヘアーの巨大な黒人の顔の口を入ると、エレベーターでアップル・ハウスに行きます。2階吹き抜けのフロアーで頭上中央に出てくる、UFO型のDJブースでは、小林克也がジョンオジサンを一人二役の掛け合いで、絶妙なDJをしてくれます。
 同じビルの地下は、新宿ブラック・シープで、TVのソウル・トレインのような中空丸形ダンス場ではソウルフルな踊りをしています。
 今は2つに分けられて、居酒屋「カチカチ山」
 17歳からここで踊ったり、DJをしていた私と同い年の阿部さんとは、その後NAPA−Jの店長で再会、今は渋谷のアジアンヒートかな?

 渋谷のブラック・シープは、なぜか踊り場中央に専用エレベータがある。
そこでボトル・キープするとカードにメモリを入れ、他の店でも同じ量のボトルが飲める。
 最後の20セントでは、格好いいバンドの曲で赤い絨毯のフロアーで靴を脱いで踊ります。
 メビウスでは、打ちっぱなしの壁にディスコと言うよりは、今のクラブに近い雰囲気で踊りました。
1976年〜1978年
横浜ソウルトレイン
ウエストサイド(横浜)
新宿ソウルトレイン

 横浜ソウルトレインとウエストサイドは、(株)タイトー新入社員時代に綱島寮にいたとき東横線でよく行きました。
 東横線、横浜駅を右に行くとギャルお姉さんの多いウエストサイド、左に行くと黒っぽいというかソウルフルの横浜ソウルトレインでした。
 大阪から横浜にかけて踊りでは、結構影響を残したと思います。
 博多で元バリバリのビーポップクルーのヨシ坊も横浜ソウルトレインで影響を受けたと言っていました。(本人は知らないと思いますが)
 新宿ソウルトレインは、東中央口を出てカンタベリー3号館前を通り一本目を左に曲がりミドルクラスのビルの正面エレベーターを上がるとあなぐらタイプのお店です。
曲と雰囲気は良いのですが、客は少なかった。 
1976年〜1978年
カンタベリービバ館
カンタベリーギリシャ館
チェスターバリー
bigトゥモロー
プレイハウス
 言わずとしれた、新宿のメインディスコです。
 私のホームディスコはチェスターバリーでした。上下ヨーロピアンタイプのGパンGシャツでモデルで踊っていました。
 プレイハウスは、扇形ダンスフロアーと生バンド、ソウルドラキュラ時代です。
 その後、ニューヨーク・ニューヨークとなり今はリキッド・ルームとなっています。
 同系列のビッグ・ツゥモローからゼノンのアズマ店長の仕掛けでしょう。
1978年
シンデレラ(新宿)
シーホース(大宮)
キイヨエ(上尾)
 映画のサタディ・ナイト・フィバーとともに新宿東和会館に巨大(直径3m)ミラーボールとともにできたディスコシンデレラは、気の入った店でした。
 世界ディスコ・ダンス・コンテストで優勝したテリー・ダン(大阪)と最終バトルをしたマイクさんもよく来ていました。
 ゲット・ダウンで私とバトルをしたのですが、本人は忘れていて、その後新宿NAPAーJで一緒に踊っても思い出さなかったようです。
 大宮駅東口を右に500m程度行くとシーホースは有りました。
 造りは、横浜のウエストサイドに近く、週末は大盛況でした。
 キイヨエは、狭いソウルバーなのですが、老舗ですと言っても当時は目新しい店ですしタイトー桶川寮から行くには手頃でしたし今でも上尾駅そばにあります。
 親父さんも年をとりましたが健在だと思います。私の家から歩いて15分程度ですが最近は行っていません。
 一度、六本木のウィズという店に若いおねいちゃん(浮気かな?)ときて、踊りを見て私に「一度踊りに来てください」と言われましたが、オイオイ10年前の私を忘れましたか?
 ZOOのタコも行っていたようです。
1979年
カサブランカ(浜松)
メビウス(浜松)
ブラザー(浜松)
サンジェルマン(浜松)
 この時期は浜松に10ヶ月ぐらいいました。
 カサブランカは、店長のミッキー(博多から戻ってきた)の巧妙なDJで週末は盛り上がっていました。
 タイトー浜松営業所を退職後5ヶ月ぐらいサンジェルマンの店長をしていました。
 私の前の店長は、大吉さんといい神戸のカルチェラタン、大阪梅田のクレージー・ホースを立ち上げた草分けの人でした。
 落ち着いた煉瓦造りのカルチェラタン、クレイジー・ホースは、お気に入りでよく行きました。

ディスコ時代からのレポート No.1