江夏 豊

優勝請負人 江夏 豊

優勝請負人 江夏 豊

12球団も一斉にキャンプイン! 今年もプロ野球の季節が始まった。プロ野球に負けじとますます盛り上がる「プロ野球チームをつくろう! ONLINE 2」の世界に、史上最強の“優勝請負人”が登場。阪神の大エース、そして救援投手の存在を確立させた江夏 豊氏だ。今回はプロ入り前の貴重なエピソードも大公開。さて、あなたのチームでは江夏投手を先発、抑えどちらで使う!?

江夏さんはこれまで、野球のゲームをされた経験はありますか?

江夏
僕らの子供の頃は、鉛筆を転がして出た目で「ヒット」とかいう遊びをしたり、野球盤で遊んだぐらいですね。実は決して野球少年ではなかったんですよ。好きか嫌いかといえば、嫌いなほうだった。と言うのも、兄たちとは年齢が離れていたんです。兄同士がキャッチボールをしていると、僕も加わりたいのだけれど、一緒にやっても顔に当てたりして泣くわけです(笑)。そうすると、兄も僕とはやりたくない。ただ唯一、一緒に遊べたのがその鉛筆を転がす野球ゲーム。これならば、体力差も関係ありませんからね。

実技とは違い、ゲームならどなたでも対等に競い合えますからね。

江夏
しかし、このゲームは選手の動きもスムーズだし、すごいものですね。投球フォームなども本人にとてもよく似ている。

ありがとうございます。江夏さんのチームと実際の球団を対戦させることもできます。

江夏
じゃあまずは横浜と……これ、相手は一軍メンバーばかりじゃない! さすがにこれで勝つのは難しいなぁ、このチームは先発投手も少ないし。中継ぎ登録でも、この選手を先発に起用させるか……(と熟考されるも、横浜に完敗を喫し)う~ん、やはり一軍メンバーは強いということか(笑)。

毎日こつこつと強化していけば、いずれ勝てるチームができると思います。さて、江夏さんが本格的に野球を始めたのは、大阪学院高へ進学後だそうですが?

江夏
中学でも野球部には入部したんです。しかし、クビになりましてね。強いチームで部員も多かったんですが、練習が始まると新入生はネット裏の田んぼで球拾い。だけど野球部に入ったのだから、僕は野球をやりたい。だから一級上の先輩に直訴をしたら、生意気だと(笑)。それで辞めたのですが、これが監督の不在中に起きた事件だったので、なんとか復帰させようと、監督も尽力してくださったんです。しかし結果的にダメで、するとその先生までもが監督を辞めて、陸上部の顧問になったんですよ。

それで陸上部だったのですね。

江夏
でも陸上に限らず、その先生のおかげでいろんなスポーツをやらせてもらいました。中学3年になって、当時は就職する生徒も多く、僕もそのつもりだったのですが、その先生が「高校へ行って野球をしろ」と。

先生としては、何としても江夏さんに野球をしてもらいたかったのですね。

江夏
ですから浪商(現・大体大浪商)、報徳学園、北陽(現・関西大北陽)といろいろな学校へ見学に行きました。結果、入ったのが大阪学院。当時の大阪は「私学6強」と言われた時代でしたが、学院はそれよりワンランク弱くて、おっとりとしたチームでした。

甲子園までは届かなかったものの、江夏さんの時代に大阪府の上位に入りました。

江夏
  1年は3回戦、2年でベスト8、3年がベスト4でした。当時、学院、北陽、そして浪商は、同じ阪急京都線沿線でしてね。もちろんライバルですが、監督同士はある種、団結していた。特にウチの監督は野球経験者ではありませんでしたから(笑)、技術は浪商、北陽の監督さんから教わりましたよ。しかし、浪商とは同じブロックで、必ず3回戦で当たるわけです。ここを勝てば、藤井寺や日生で試合ができる。2年の時に、初めてこの浪商に勝てたんです。

3年生になった66年9月、一次ドラフトで阪神入りが決まります。

江夏
あの年は、9月に高校生と社会人、11月に国体出場の高校生と大学生を対象に、二度のドラフトがありました。ただ恥ずかしながら、自分がプロに目をつけられているという意識は、まったくなかったんです。ですからプロなんて、夢にも思わなかった。大学に進む予定でしたしね。

それが、阪神だけでなく、巨人、東映、阪急の4球団が1位指名でした。

江夏
もしも巨人に入っていたら……というのもそうですが、そもそも人の縁とは不思議だと思うのが、鈴木啓示という存在です。彼は一つ上で、前年のドラフトで近鉄に入りましたが、本人は何としても阪神に入りたかったんです。彼はライバルであり、友人でもあって、練習試合で投げ合った時、延長15回0対0の引き分けでしたが、僕が15奪三振、鈴木が27奪三振(笑)。こんなすごい高校生左腕がいるのかと驚き、そして目標にもなったんですよ。ですからもし、阪神が前年に鈴木を獲っていたら、江夏を指名することはなかった。なぜなら、2年続けて高校生左腕を上位で指名はしないでしょう。

巡り合わせですね。しかも江夏さんの1年目である67年から、お二人揃って6年連続で奪三振王となるわけですし。

江夏
日本最強左腕と言えば、当然400勝の金田正一さん。だけど僕にとって左なら鈴木、右は山田久志なんです。こういう選手たちと一緒に野球ができた。それは自分にとって、本当に大きな誇りです。

プロ入り後も伝説的なエピソードが満載の江夏さんですが、やはり外せないのが王貞治さんという存在だと思います。

江夏
王さんをライバルというのはおこがましいことなんですが、村山実さんの「オレのライバルは長嶋茂雄だ。だから豊は王をライバルにしろ」という言葉。自分の身体の中心に、ビシッと稲妻が走った気がしましたね。

攻略法は常に考えていたのですか?

江夏
もう何十時間、何百時間と考えました。いろんなシーンを想定してね。でも、どんなに考えても答えは出ないんです、マウンドで実際に投げないと。ですが広島に移って、キャンプ中にあることがポッと頭に浮かんだ。それまでなぜ気付かなかったのかと思うぐらい、初歩的で簡単なこと。

それは何ですか?

江夏
いろんな投手が王さんに打たれたくないから、あらゆる攻略法を考えました。タイミングを狂わすとか、コースを突くとかね。でも実は、もうその時点で王さんのペースにはまっているんです。野球という競技で、主導権を持っているのは投手。王さんに限らず、打者の誰もが投手のフォームを見て、タイミングを合わせているのに、投手が勝手に意識をしすぎているから、自分のペースで投げられない。勝手に考え、勝手に悩んで、自分自身を追い詰めていたわけです。

本来の力を自ら出していなかった……。

江夏
これに気付いた途端、ものすごく気持ちが楽になって。そうしたら面白いもので、成績も良くなるわけです(笑)。あれだけ苦労したのにね。

やはり野球は奥深いですね。江夏さんは他にも救援投手の地位を築かれるなど、多大なる功績を残されました。

江夏
自分でも悔いのない野球人生を歩ませてもらいましたよ。鈴木の話もそうですし、村山さんのこともそう。他にも大勢の人たちと巡り会えました。野球に限らず人生そのものにも言えることですが、いい上司、いいライバル、いい仲間がいたから、自分はやれた。野球選手ですから力はもちろん大事ですが、まずは〝人〟……改めてそう思いますね。
江夏 豊
江夏 豊(えなつ・ゆたか)
1948年5月15日生まれ。
大阪学院高から66年の1次ドラフト1位で阪神入り。1年目に12勝を挙げ、225奪三振はリーグトップ。翌年は世界記録となる401奪三振をマークした。71年のオールスター第1戦では、史上唯一の9連続奪三振、73年には延長11回、自身のサヨナラ弾で無安打無得点試合達成と、数々の偉業を成し遂げた。76年に南海へ移籍し、抑えに転向。救援投手の地位を確立し、広島では79、80年の日本一、日本ハムでは81年のリーグ制覇と、優勝請負人として名を馳せる。18年間の通算成績は829試合に登板し、206勝158敗193セーブ、2987奪三振、防御率2.49。

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