工藤 公康
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実働29年の稀代のサウスポー
昨年12月に現役引退を発表した工藤公康氏が「プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2」に登場する。西武に入団以来、つねに球界を代表する投手として活躍。3球団で日本一を経験し、横浜では13球団から勝ち星を挙げた。日本プロ野球史上もっとも長い実働29年の左腕の野球人生とは――。
取材協力:ダイワロイネットホテル横浜公園
インタビュー日:2012年1月12日
工藤さんには自らパソコンを操作しながらゲームを楽しんでいただきました。
- 工藤
- ユーザーの皆さんは、自分の好きなチームがあるんでしょうが、でもほかのチームにも好きな選手がいる場合もあり、このゲームは自分のオリジナルチームを作れるところが魅力ですね。
いきなり岩隈久志投手を引き当てました。
- 工藤
- そうでしたね。カードを引いてなかなかいい選手に当たらない場合もあるんでしょうが、実際のプロでもチームにいい選手がどれくらいいるかというと、そこまで多くいるわけではないですからね。
プロでもオールスターチームのようにというのはなかなかないですよね。
- 工藤
- このゲームではオールスターチームを作るのも可能ですし、トレーニングをしてスキルを上げて育てる、投手力重視、攻撃力重視と、ユーザーが何に目的を置くかで遊び方が変えられるということが、いいところですね。
トレードもできるんですよね。
はい。
- 工藤
- トレードでもチーム編成ができるわけですね。それからゲームの中にテレビ中継があって、解説者が試合が終わった後にコメントを入れるっていうのも面白そうですね。
「このチームはこういうところを強化した方がいい」というような感じで。
それをユーザーが聞いてよりチーム強化を図る。
面白いですね。
- 工藤
- また二遊間でより多くゲッツーを取れる、外野からの連携がよりうまくいく、そういう特別なカードがあっても面白いかなと思いましたね。
いろいろ貴重なご意見ありがとうございます。
工藤さんは29年間現役でプレーしました。巨人時代には通算200勝も達成しています。
2失点完投、自ら決勝2ランを放ち通算200勝を達成した
- 工藤
- 200勝というのは意識してなかったですね。
若い頃は「目標は200勝です」と言ってましたが、マスコミ向けで、内心は「オレなんか無理だよ」と思ってましたし(笑)。
最終的にそれができたのは、当時の堀内(恒夫)監督が、調子が悪くてもノックアウトされても「気持ちを切り替えて行ってこい」とマウンドに送り出されたことですね。
でも、直前に2、3試合足踏みをしたんで、プレッシャーがどんどん強くなってきたんですよ。
それだけ勝っている工藤さんでも、プレッシャーが掛かるんですね。
- 工藤
- 199勝のあと、次の試合ですんなり決めていれば、そんなこともなかったんでしょうけど。
勝てない、また勝てないとなって少しずつ気持ちが変わっていったんでしょうね。
プレッシャーも糧にしていかなければならない、そういうことも勉強になりました。
大ベテランでもそういう経験は大事なんですね。
- 工藤
- そういうプレッシャーの中でプレーして、成功するにしろ失敗するにしろ自分たちの糧にしていかなければならないですね。
それを乗り越えれば、次に同じような場面があっても冷静にプレーができるんでしょうね。
最終的には通算224勝した工藤さんですが、プロの原点は西武でした。プロに入ってまず思ったことは。
- 工藤
- 高校生が入ってすぐに通用する世界ではないと思いましたね。
よくあるパターンですけど、何年かやって芽が出ず、トレードされて1、2年で終わって行く、自分もそうなるんだろうなと考えました。
上(一軍)でやっている人は足の速さ、肩の強さを見ても特別なんだと。
なんでここにいるんだろうという感じでいたね。
でも1年目から27試合に登板しました。
- 工藤
- 登板といっても左バッターへのワンポイントでしたから。
「投げろ」と言われたから投げてただけで、そのときは目標もなかったですね。
どちらかというとブルペンにボールやロジンバッグを置いたり、ホームのときはノックボールを出したり、水を持って行ったりと、プレー以外のことが思い出されますね。
徐々にプロの水にも慣れて、一軍で活躍するようになりましたが、
きっかけは?
- 工藤
- 84年にアメリカに野球留学してからですかね。
それまでは練習はやらされるものだったのが、
やるものだという考えが変わりました。
ウエート・トレーニングなどいろいろ取り組みました。
宮田(征典)コーチから教わり10キロ増しでスピードも出るようになりましたし。
当時は広岡達朗監督でした。
- 工藤
- 広岡監督がやっている、例えば100メートルを100本などの練習で
球が速くなる、コントロールが良くなるということはなかったんですよ。
それじゃ無駄だったか、というとそうではない。
そういう練習についてこられない、すぐ故障してしまう選手は
プロ野球の世界では生きていけないんですよ。
最低限のことができて、なおかつ自分で目的意識を持って練習できる人だけが生き残っていける世界。
そのときは感じなかったんですけど、あとになってそう思いました。
それから西武の黄金時代を支える投手となります。
- 工藤
- その頃はリーグ優勝して当たり前で、日本シリーズをどうやって勝つかというのが目標でしたね。
日本シリーズに関して言えば、相手の分析などすごく時間をかけてやりましたし。
86年から94年の森祇晶監督のときは9年間で8度のリーグ優勝でした。
89年に優勝していれば9連覇だった。
- 工藤
- 89年は近鉄のダブルヘッダーでブライアントに4連発を食らって、9連覇はできませんでしたが、それぐらいの強さはありましたよね。
3連戦や6連戦の最初の試合をすごく大事にするチームがあるんですが、西武はまったくそんなことを考えなかったですね。
自分が3連戦の最初でダメだったら、後の2人が勝つだろうし、自分が勝てばあとは1勝1敗でいいだろう、そう思っていました。
また絶対に負け越せない3連戦、ここという試合は絶対に取ってましたしね。
それができたから西武は優勝できたんでしょう。
95年にはFAでダイエーに移籍、そこでも工藤さんの存在は重要でした。
- 工藤
- 負けることが当たり前、何かあるとすぐ言い訳をしてしまうチームは弱い。
ダイエーに入った時は、そんな感じでしたが、「趣味じゃなく仕事としてやってるんだから」ということは言って、選手の意識を変えていきました。
99年に優勝したときは全然違うチームでしたか?
- 工藤
- すべて悪いところが抜けたわけではないですが、先輩であろうが後輩であろうがダメなことはダメと言える、いい方向に向くチームにはなってましたね。
00年に2度目のFAで巨人に移籍し、07年には人的補償で横浜に行き、13球団から勝ち星を挙げました。
- 工藤
- 横浜に入ったときは、自分は年俸ではなくて、必要としているところで仕事をしたかったということですね。
サラリーマンがそれなりの給料をもらっていても「窓際」だったらやりがいを感じない。
給料が安くても、いろいろな仕事を与えられ、評価されてどんどん上がっていく方がいいじゃないですか。
そういう「やりがい」というのは大事ですね。
最後に工藤さんはレジェンドカードとして登場していただくのですが、現役時代に対戦を楽しみにしていた選手はいましたか。
- 工藤
- それはいなかったですね。打たれてイヤなバッターはいっぱいいましたが。
僕は試合にいいピッチングをして楽しみたいなというタイプでした。
打たれたり抑えたりするプロセスを経て、最後は勝利につながる、そういう楽しみ方をしていました。
- 工藤 公康(くどう・きみやす)
- 1963年5月5日、愛知県豊明市出身。名古屋電気高で3年夏に甲子園に出場しノーヒットノーランを達成しベスト4。ドラフト6位で西武に入団。黄金時代の左腕エースとして活躍。FAで95年にダイエー、00年に巨人に移籍。3球団で日本一になっている。07年には横浜、10年には西武に移籍した。実働29年、通算成績は635登板、224勝142敗3セーブ、防御率3.45。タイトルはMVP2度、最優秀防御率4度など。