大野 豊
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カープの黄金時代を支えたサウスポー
広島の黄金時代を支え、2013年に野球殿堂入りを果たしたサウスポー・大野豊氏が「プロ野球チームをつくろう! ONLINE2」に登場。軟式からプロ入りした異色の経歴を持つ大野氏に、プロ入りの経緯、先発とリリーフの苦労など現役時代を語っていただいた。
取材協力:ANAクラウンプラザホテル広島
取材・構成:永山智浩
写真:澤田仁典
「野球つく」を実際にやっていただきましたが、いかがでしたか。
- 大野
- チームを編成するときに、いろいろ考えられますし楽しめますね。
今回の試合は延長までいく接戦でした。
- 大野
- ゲームですが、試合になると緊張感、ワクワク感があり、勝ちたいという気持ちが生まれてきましたね。映像もリアルだし大人がのめり込めるものですね。
今後、大野さんにはレジェンドカードとして、ゲームに参加する形になります。現役選手で対戦したい打者もいるんじゃないですか。
- 大野
- 阿部(慎之助)、中田(翔)のような長打力のある打者には投げてみたいですね。僕の現役時代は巨人への対抗意識が強かったですから、特に巨人の選手と対戦したいという気持ちは強いですね。
巨人と名勝負を演じた大野さんは、軟式野球からのプロ入りという異色の経歴を持っています。
- 大野
- 三菱重工三原から誘いがあって、合同練習にも1週間ほど参加したんですが、硬式でやれる自信もなく、また家の事情もありましたので、地元の島根県で唯一軟式チームのある出雲市信用金庫に就職しました。
プロになろうと思った心境の変化は?
- 大野
- たまたま3年目にカープのコーチ・山本(一義)さん、エースの池谷(公二郎)さんが出雲に野球教室に来ました。その時、チームが手伝いをして、それが縁で話をしたり、食事をしたり、初めてプロの人との接点ができいい刺激になりました。それから出雲高校と硬式で練習試合をやったんですよ。久しぶりに硬式で投げて5回で13奪三振。これは硬式でもやれるかなと変な気持ちになって。また、隣の平田市(現出雲市)の1つ年下の青雲(光夫)という選手が阪神のテストを受けて合格した。そんなことが重なって、ひょっとしたらプロでもできるんじゃないかなと思ったんですよ。
それでカープに?
- 大野
- 高校1年のときの監督が南海の方とお付き合いがあって、「南海と連絡を取って、話が進んでるんだけど」と言われたんですが、僕も偉そうに「パ・リーグよりもセ・リーグがいいです」と言ったんですよね(笑)。その監督は山本一義さんの法大の先輩でカープ入りの話が決まったんです。僕にはいいきっかけや出会いがあったということですね。
出会いということでは、プロ2年目の江夏豊さんとの出会いも大きいですよね。
- 大野
- 1年目の9月4日に初登板して、1/3回、5失点で防御率135。普通だったらそこで終わりですよ。そんなときに江夏さんが南海から来られて、古葉(竹識)監督が「大野を見てくれ」と言われました。フォームも直されましたし、いろいろ見ていただきました。
それから江夏さんにつなぐ、いまでいうセットアッパーに。
- 大野
- いまのセットアッパーとは違いますけどね。初回途中から8回まで投げて、明日もあるからなと言われたこともありますし。左投手が弱い巨人戦で突然先発したこともありましたね。
78年には、ヤクルトの連続試合得点を129でストップさせた。これがプロ初完封。
- 大野
- 実は、その前の日にリリーフ登板し、マニエルに満塁本塁打を打たれたんですよ。その日、古葉監督に「おまえ、今日先発で行け」と言われて(笑)。でも言われたことに対して意気に感じて投げた経験が、あとあと生かされましたね。
江夏さんが抜けた81年からは抑えでした。
- 大野
- 名前はストッパーでも、真のストッパーじゃなかった。江夏さんと比較もされましたし、辛かった時期ですね。3年間やりましたが、当時はもう2度とやりたくないと思いました。
84年からは先発になり、いきなり4月に2完封する活躍でした。
- 大野
- 開幕から9連勝して、先発ってこんなに楽なんだと思いましたよ(笑)。そのときは15勝はできると思っていましたから。でも勝てなくなって、気負いすぎて肩も故障して。
大野さんが先発としてもっとも輝いたのが88年。13勝(うち4完封)、セ・リーグでは13年ぶりの1点台の防御率1.70でタイトルを獲得しました。
- 大野
- 現役22年の中で完成とは言えませんが、それに近いピッチングができた年でした。13勝しかできなかったというのはありましたが、14完投して、内容的には安定していた年ですね。最初の年にとんでもない防御率を残して、それ以来防御率にはこだわっていましたし、1点を取られても諦めない、最少失点に抑えればチームは勝てるという思いが、ピッチングに出たと思います。
この年は沢村賞も受賞しました。
- 大野
- 過去13勝で沢村賞を取った人はいないので全然考えてなかったんですよ。本当に驚きましたが、選んでいただいて感謝しました。
翌年も1点台の防御率1.92でした。
- 大野
- そうですね。1点台の数字には満足していましたが、期待された中で勝ち星(8勝)が伴わなかったので、力が足りなかったんだなと。
91年からは、再びストッパーに。
- 大野
- 先発の役割は完投と思って投げていたのですが、90年(6勝11敗)は気持ちの上で燃えるものがなくなってきました。1イニングが辛くて、5回投げるのもきつかったです。それで山本(浩二)監督に先発は無理だということを相談しました。自分としては中継ぎで使ってくださいというイメージだったんですけど、津田(恒実)とダブルストッパーでいこうということになりました。91年、津田が病で戦列を離れ、僕が務めることになったわけです。その当時はもう1イニング限定のストッパーでしたから、最初にやったときとは違って、気持ち的には余裕を持って投げられましたね。
チームも中日を逆転し優勝。胴上げ投手にもなりました。
- 大野
- 入団して5度目のリーグ優勝でしたが、初めてマウンドで迎えて。この年は自分でも信じられないような内容で投げられました。目に見えない力、津田の気持ちが僕に乗り移って力になっていたような気がしますね。
95年には40歳で再び先発になりました。
- 大野
- 前の年から三村(敏之)監督が先発の佐々岡(真司)と抑えの僕を逆にしようという考えを持っていたんですよ。でもお互い拒否してまして(笑)。先発はもう自信がなかったんですよ。でも説得されて先発に戻るんですが、なかなか感覚がつかめなくて。でもオールスター明けにノーワインドアップに変えたら、徐々に感覚が良くなってきましたね。
97年には42歳で最優秀防御率のタイトルを受賞します。
- 大野
- タイトルを取れるような数字(2.85)じゃないですよね。これはチームメートがタイトル争いをしていた投手をよく打ってくれて、自分の力と言うよりもチームメートが取らせてくれたタイトルでしたね。
最後にレジェンドカードで大野さんは先発になるのですが、先発とストッパー、どちらか一方と言われたらどちらを選びます?
- 大野
- どちらもやりがいはありますからね。難しいですが、どちらかと言われれば、自分のイメージとしては先発ですね。
- 大野 豊(おおの・ゆたか)
- 1955年8月30日、島根県出雲市出身。出雲商高から出雲市信用金庫を経て、テストで77年に広島に入団。先発として2度の最優秀防御率、88年には沢村賞、91年にはストッパーとして最優秀救援を獲得。43歳となる98年まで22年間、現役生活を送った。通算成績は707登板、148勝100敗138セーブ、1733奪三振、防御率2.90。