長崎原爆:貴重な写真を大量に発見 「命ある限り調査を」

毎日新聞 2014年06月17日 20時23分(最終更新 06月17日 21時42分)

爆風と平行して立っていたため倒れずに残った山王神社一の鳥居。右奥に小さく、半分だけ残った二の鳥居が見える。左後方は長崎医科大=長崎市で1945年10月(米軍撮影・米国立公文書館所蔵)
爆風と平行して立っていたため倒れずに残った山王神社一の鳥居。右奥に小さく、半分だけ残った二の鳥居が見える。左後方は長崎医科大=長崎市で1945年10月(米軍撮影・米国立公文書館所蔵)

 【ワシントン徳野仁子】復旧した線路を煙を上げて走る蒸気機関車や、がれきの中で奇跡的に残った大きな鳥居……。米国立公文書館を訪問している長崎市の調査団により、長崎原爆投下の1〜2カ月後に米軍が撮影した貴重な写真が大量に見つかった。

 長崎平和推進協会写真資料調査部会の部会長で被爆者でもある深堀好敏さん(85)が、初日に確認した約200枚の中で特に貴重だと指摘したのが、爆心地から約500メートル離れた三菱重工業長崎造船所浦上寮付近で1945年9月16日に撮影された1枚だ。

 写真にはマスクをつけて歩く人たちが写っており、写真説明には「爆心地周辺の空気を吸うと髪や歯が抜けると信じられていた」と書かれている。当時、一般の市民に放射線の影響はほとんど知られておらず、「毒ガスがまかれた」といううわさもあった。深堀さんは「うわさが広まっていたことを示す貴重な資料だ」と語った。

 同じく爆心地から約500メートルの長崎医科大では、窓際に置いてあった顕微鏡が原爆の熱線でドロドロに溶けている写真が撮られていた。このほか、救護所として使われた新興善国民学校(長崎市)や大村海軍病院(長崎県大村市)での治療の様子を撮影した写真なども確認された。

 調査団は昨年10月にも国立公文書館を訪問。本格的な渡米調査は約40年ぶりだったが、与野党の対立に伴う米政府機関閉鎖と重なり1日しか調べられなかった。被爆資料の収集を続けてきた深堀さんは「被爆の実相を一番伝えるのが写真だ。自分の命がある限り調査を続けたい」と話した。

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