福岡大空襲:「庶民にとって戦争とは」…19日が69年

毎日新聞 2014年06月18日 14時09分(最終更新 06月18日 16時12分)

板の間にある開口部で防空壕について語る立石武泰さん=平川哲也撮影
板の間にある開口部で防空壕について語る立石武泰さん=平川哲也撮影
防空壕の内部。この先にあった空間は福岡沖玄界地震で崩落した=福岡市博多区で、平川哲也撮影
防空壕の内部。この先にあった空間は福岡沖玄界地震で崩落した=福岡市博多区で、平川哲也撮影

 ◇「戦争追体験」…博多町家下の防空壕を公開

 1000人以上の死者・行方不明者が出た福岡大空襲から19日で69年。当時利用された防空壕(ぼうくうごう)が、福岡市博多区の築100年を超す町家の建物内に現存する。大正時代から続く老舗額縁店「立石ガクブチ店」。10年前から防空壕を公開している3代目の立石武泰さん(62)は「庶民にとって戦争とは何だったのか。想像力を働かせて見てほしい」と話している。【平川哲也】

 防空壕は1階店舗部分の床下にある。床板を兼ねる約70センチ四方の蓋(ふた)を外し中に入ると、汗ばむほど湿度が高い。何度か埋められ、現在は深さ約130センチ。側面と天井をコンクリートと木板で囲った横穴を2メートルほどはって進むと、砂地の壁にぶつかる。以前はその先に約4メートル四方の空間があったが、2005年の福岡沖玄界地震で崩落したという。

 国の指導もあり、防空壕は終戦前年の1944年に立石さんの祖父安兵衛さん(故人)が造った。博多のような住宅密集地では屋内の床下に掘ることも珍しくなかった。資材が不足した当時、穴の上に雨戸などで蓋をしただけの防空壕が多かったが、額縁職人の安兵衛さんは「凝り性」だったようで、堅固な天井のある造りとし、側面には貝殻の装飾さえ施していた。

 立石さんが母初枝さん(先月、93歳で死去)に聞いた話では、45年6月19日の空襲当日、安兵衛さんら家族3人は警戒警報と同時にこの防空壕に潜り込んだ。爆撃機が過ぎ去った後、約2キロ東の公園に逃げたという。

 空襲で博多の街は焼け野原になったが、立石さんの店がある一角は、南隣にあった、当時としては珍しいコンクリート造りの病院が壁となって被災を免れた。一方で同じ博多区内に住む親戚3人は完成直後の防空壕内で死亡した。木造家屋が燃え、床下にある簡単な造りの防空壕で多くの市民が犠牲になったのだった。

 「君のところに防空壕があるやろ。戦争遺跡として見せちゃり」。防空壕を公開することにしたのは、小学校時代の恩師でもあり、福岡大空襲の証言活動を続けていた川口勝彦さん(故人)に掛けられた一言がきっかけだった。立石家同様、奇跡的に残った町家もバブルの前後には大半がマンションなどに建て替えられ、防空壕が残る家はほとんどなくなっていた。

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