| ※ご注意:本頁は2003年取材当時の内容です。 |
| ラーメンに秘められた はかり知れない バワー |
『久留米 大砲ラーメン』 (株式会社 大砲) 『店主』 (代表取締役社長)香月 均 1958年(昭和33)3月生まれ |
| ラーメンは久留米を救う | 1998年(H10)4月。地場産業を支えてきた大手企業の倒産が連鎖を生み、久留米は先のまったく見えない凋落へ進んでいきました。 同年の秋『低迷する久留米を私たちの手で復興しよう』と立ち上がった男達がいます。 『久留米大学経済学部長 駄田井 正教授を団長に、ラーメンで久留米のまちおこしを、と願うメンバーがラーメンの殿堂※を視察に訪れたのです』。(原 達郎著『久留米ラーメン物語』あとがき) 活動は急速な進展を迎えます。翌1999年1月、久留米商工会議所 平木 貞視 副会頭を委員長に「久留米ラーメン・ルネッサンス委員会」が発足。 「ラーメン」を全国に通用する共通言語※※と位置付け、九州ラーメン発祥の地「久留米」に現存する数多くのラーメン店を結集し、官・民・学と一緒に地域復興を図る、全国初の取組みは、この年の秋「第1回ラーメン・フェスタin久留米」の開催に結実します。 1999年11月4日・5日、2日間の開期に、会場である久留米百年橋公園に14万人が来場。入りきれなかったお客様は、ラーメンマップを手に、市内各店へ繰り出しました。経済波及効果は3億4,000万円を記録。以後全国の地域おこしを目指す官・民の団体が久留米へ見学に訪れるようになります。 この「ラーメン・ルネッサンス委員会」発足時、業界代表として副委員長に就任したのが、大龍グループの会長 黒岩 文雄さん。 そして70軒を越える久留米のラーメン屋さんへ『団結』をよびかけたのが、今回ご紹介する『大砲』ラーメンの香月均さんです。 ※ラーメンの殿堂: 1994年3月オープンした「新横浜ラーメン博物館」 ※※全国に通用する共通言語: 日本経済新聞 東京文化部編集委員 野瀬 泰申氏の寄稿文より←click |
「 第5回ラーメンフェスタin久留米」 2003年11月15日(土)16日(日) 久留米市六つ門の「六角堂広場」 で開催されます。 |
| 久留米人気質 『矜持』と『頑固』 |
香月さんが目指した『団結』への道のりは難航をきわめました。 久留米のラーメン店は、どの店にも他地域にない古い歴史があります。 また『自分の店が一番である』という強い信念があります。 そうした誇りや矜持があったからこそ、永く暖簾を守ってこれたとも言えます。 しかし悪い言い方をすれば『頑固』。これが『団結』を阻む原因でした。 「この街でラーメン屋を営んでいけるのは、食べに来てくださるお客様のおかげ。我われを育ててくれたのは、親父の店に来てくださったお客様のおかげなんです。 ラーメン屋を育ててくれた久留米がこれほど凋落したいま、我われラーメン屋が恩返しできないものか。 一軒より二軒、二軒より十軒、店ごとの個性を尊重して、ラーメン屋がまとまれば、きっと久留米のラーメン業界は久留米の活性化に貢献できる」。 香月さんは「ラーメン・ルネッサンス委員会」に先行し、不況が深刻化した1994年頃から粘り強く活動をつづけてきました。 「一度会って話しがしたい」電話で相手にされなければ手紙を書いて、地道に仲間づくりのタネをまいてきたことが、このプロジェクトを急速に進展させた要因の一つ、といえます。 「ラーメン・フェスタin久留米」は今年2003年11月で5回目を迎えます。 |
香月さんの想い・・・ 「私を育ててくれた久留米に 恩返しがしたい」。 |
| 老舗『清陽軒』 からの独立 |
香月さんの店『大砲』はこれまで全国ネットのTV放映ともあいまって「うまい九州ラーメンの店」として、高い知名度を得ています。 『大砲』は香月均さんの父・昇さん(1934〜1997年)が1953年(S28)久留米の明治通りに屋台としてスタートしました。 昇さんは『大砲』創業に先立ち『清陽軒』※で修行、腕をみがいています。 『清陽軒』は昇さんの姉・照子さんの夫である飯田耕作さんが1945〜1947年(S20〜22)ころ屋台で創業。久留米ラーメンの歴史からみると『南京千両』につぎ、『三九』と肩をならべる老舗です。 昇さんは、兄・浩さん、義兄・飯田耕作さんとともに、力を合わせて、独自の味を追求していきます。当時の先駆であった『南京千両』に追いつくのが目標だったといいます。 やがて戦前から続いていた小麦の配給統制が解除(1952年)され、「麺」が自由流通となった翌年に、昇さんは『大砲』創業を決意します。 「伯父たちと父との兄弟仲の良さは、終生かわりませんでした。それでもなお、この時(『大砲』創業時)父はラーメン屋を自分の生涯を賭ける仕事として思い定め、『清陽軒』でではなく、あえて自らの独立心をかりたてるために『大砲』を開いた、と聞き及んでいます」。 『大砲』の屋号は、昇さんの性格を現したものです。 「いったん出て行ったら、帰ってこない。負けん気が強く、こうと決めたらトコトンやりぬく。鉄砲玉のような性格でした。それで『鉄砲』よりも、もっとスケールを大きくして『大砲』に決めたのです」。 ※『清陽軒』: 現在、浩さんの三女のご主人・一木公治さんが経営する久留米市大善寺の店舗。昇さんの弟・英人さんが経営する小倉日明店、守恒店、の3店が暖簾の味を守っています。 『清陽軒』 大善寺町宮本342-7 電話0942-26-8673 定休日 水曜日 『清陽軒 日明店』 小倉北区緑ヶ丘1-1-16 電話093-581-3624 定休日 火曜日 『清陽軒 守恒店』 小倉南区守恒5-6-2 電話093-963-3264 定休日 火曜日 |
『大砲』創業者 香月 昇さん 昭和28年 屋台創業当時の ラーメン 並:60円 |
| デザイナーか? ミュージシャンか? |
『大砲』が屋台から店舗へと移ったのは1967年(S42)香月 均さんが9歳のとき。 「屋台の思い出」は5歳の頃から鮮明に憶えておいでです。 「当時から豚の背脂切りを命じられていましたが、手伝いがおわってからは、ともかく絵ばかり描いていました。 父母とも朝から晩まで大変忙しく立ち働いていましたので、子供などかまってくれはしません。それに屋台で稼いだお金はすぐに翌日の仕入れにまわす、という操業状態でしたから、当時人気のあったオモチャなど、息子に買ってやる余裕もない。 そんなある日、何を考えていたのか、父が一枚の黒板と箱一杯のチョークをくれました。 私は父の屋台のそばで、飽きもせず、描いては消し、消しては描きしていましたが、やがて鉄人28号や鉄腕アトムの絵は黒板からはみだし、深夜の明治通り一杯に描きつづけ、通行人や酔客を驚かせていたそうです。 そりゃ夜中の暗闇に小さな子供がうずくまっていて、覗き込むとチョークで一心に絵を描いているんですから、ふつうギョッとします」。 NYのストリート・アートならぬ、明治通りをキャンバスにした幼い頃の香月さんの絵。忘年会シーズンなどは、まわりに人垣ができていたそうです。 香月さんの絵心は、やがてグラフィックデザイナー志望の大学生活へとつながります。また同時期、博多を中心に、ギタリストとしてプロ志向のバンド活動にも力をいれていきます。 「デザイナーかミュージシャンか」思い悩んでいた卒業直前、父・昇さんと、母・嘉子さんが揃って大病を患い、入院してしまいます。 「その瞬間、私の人生は、全く選択肢に入っていなかった『ラーメン屋のおやじ』に決定してしまいました」。 |
昇さんと奥様・嘉子さん 屋台での撮影 |
| ラーメン屋は ひょっとして クリエイティブな仕事 かも知れん |
バンドの後輩がプロになり、デザイナー仲間がアニメ作家として名を上げていくようすをTVでみるにつけ、香月さんは「漫然とラーメン屋を継いだ自分」に、割り切れない思いがつのります。 そんなある日、訪れた邂逅。 知人に連れられ、天神・西通りに開店した「若い女性に評判の博多ラーメン店」の暖簾をくぐります。 白木一枚板の大テーブルに、墨書きしたメニュー。BGMはジャズ。店員はバンダナにハッピ。旧来ラーメン屋の概念をくつがえす『コンセプト』を持った店作りです。しかも出されるラーメンはとんこつ臭を抑えた美味なもの。 「ひょっとしたら、ラーメン屋はクリエイティブな仕事かも知れん」。 1985年、開店当初の『一風堂』で受けたこの衝撃が香月さんの大きな転機となります。 1991年(H3)6月にオープンした郊外型の『大砲 合川店』は、香月さんが創造した久留米初のモダンなラーメン店として、大きな評判を呼びます。 店の設計、建築、内装・インテリアには、香月さんが過去に学んできたグラフィック・デザイナーとしての感性が生かされ、快適なリズム感のあるBGMの選曲は、バンド時代の経験が生かされ、若い女性が一人でも気兼ねなく入れる「快適空間」が構築されました。 いうまでもなく肝心かなめのラーメンは、幼いころから父・昇さんを手伝って身に付けた味覚と、調理技術のノウハウが生きています。 本田宗一郎さんに「人生に無駄はない」という有名な格言があります。 香月さんは歩んできた道のりを余すところなく、『合川店』で一本の線につなげました。 まもなく評判を聞きつけた『一風堂』の河原 成美さん(株式会社 力の源カンパニー 代表取締役社長)が社員を連れ『合川店』を訪れます。 このおり香月さんは『一風堂』にインスパイアされたことを告げ、以後両オーナーの長い付き合いが続くことになります。 |
屋台をやめ1967年(S42)に 店舗営業を開始しました。 1979年に改築、1992年に改装、 今にいたる本店。 『大砲 本店』 久留米市通外町11-8 電話0942-33-6695 年中無休 旧『大砲 合川店』 久留米初 「ラーメン屋のニューウェーブ」 として評判になった店。 (現在の合川店は移転新築) |
| スープの 煮込み時間は半世紀 |
さて、香月さんが父・昇さんから受け継いだ「味」です。 『大砲』は『清陽軒』をルーツにしているとはいえ、両者の味はかなり異なります。 『清陽軒』は久留米系では古いタイプで、軽くサッパリした味が楽しめるのに対し、『大砲』は濃厚、深いコクが特徴です。 それぞれ、独自の元ダレを使用しているのはもちろん、素スープの採り方が異なります。『清陽軒』(小倉)では常に、一番だしと二番だしとのブレンド。 『大砲』では「当店のスープの煮込み時間は半世紀です」と謳い、その技法を『呼び戻し』と名づけています。 ************************************************ 大砲ラーメンでは、創業以来、一度たりともスープの釜を 空にしたことはありません。その日つくったスープを完全に 使い切るのではなく、常に少しだけ残しておく。 そして、翌日の仕込みのときにこれを生かし、 その都度新鮮なスープと豚骨を継ぎ足していくことで、 1日また1日と味を積み重ねていく。 これが、秘伝の"呼び戻しスープ"です。 ********************************『大砲』パンフレットより 『呼び戻し』は、久留米ラーメンの一部の老舗では、古くから用いられた技法。ただし、香月さんが命名するまで、その技法をさす言葉は存在しませんでした。 「良い響きです。幼い頃から当たり前と思っていたんですが、新鮮に感じましたよ」(『南京千両』宮本宝委さん)。 「率直に思いました。このネーミングはうまい!やられた、と」 (『潘陽軒』前田 研三さん)。 |
ラーメン 並:420円 昔ラーメン 並:450円 |
| ラーメンは ジャズであり ブルースである (CI)導入時に策定された ロゴマーク |
1989年CIの導入、1991年合川店に始まる独自の店舗構築・・・お客様に対し一意で『大砲』をアピールする工夫は、表面的なものではなく『大砲』の企業文化にもとづいたものです。 一昨年(2001年)小郡店の開店につづき、昨年はイメージ旗艦であった合川店を、移転改築しています。両店は『大砲』創業時の昭和28年をイメージし、しみじみ心なごむ店になっています。 実はここにも『地域とともにある』という香月さんの想いが生きています。 『大砲』の新メニュー「昔ラーメン」に使用される「シナチク※は、再現が不可能といわれた福岡・八女産の『干し竹の子』を、八女郡矢部村の農家の方々の協力で復刻したものです。 その縁で訪れるようになった矢部村で、1881年(M14)に創立した矢部村立飯干(いぼし)小学校が廃校になることを知り、村長さんや村民のみなさんのご理解をいただき、校舎の一部を両店に移設しています。 子供たちの手で幾星霜にわたり、ピカピカに磨き上げられてきた木材を、随所に配した店内は、単にノスタルジックな店舗空間というより、だれもが記憶の奥底にもつ原風景を呼び覚ますような、あたたかな感覚にとらわれます。 「生い立ちの古い、うどん・そばは音楽でいえばクラシック。それに対してラーメンはジャズなんですよ。あるいは社会の底辺から支持を得てきたことを考えると、ジャズのルーツである4拍子のブルース、といっていいかもしれません。 ジャズやブルースが永遠にそうであるように、ラーメンも計り知れないパワーとエンターテイメント性を秘めているんです」。 大砲は (1)昇さんによる創業期。 (2)均さんにバトンタッチされ久留米ラーメンのニューウェーブとなった時期。 (3)そして現在・・・と大きく三つの進化をとげています。 アピールする「貌:かお」は時代とともにかわっても、香月さんの根底にあるのは 『地域とともにある 地域固有の食文化』です。 この想いをお客様にも、社員にも、わかりやすく具体的に、ビジネスモデルとして昇華させた企業が、現在の『大砲』の姿といえます。 ※「シナチク」: いまでは、とんこつラーメンに欠かせない「紅しょうが」。 そのルーツは戦後久留米ラーメンの屋台が中国産メンマの代用品として、八女産の「干し竹の子」を食紅で染めた「シナチク」とされています。 北九州市小倉北区黄金の『東洋軒』(ご主人の槇さんは久留米のご出身)でも、創業以来40年、丼の中央にこの食紅で染めた「シナチク」がのっています。 |
新しい合川店の外観。 名作アニメ『千と千尋〜』の舞台 "油屋"のモデルといわれる道後温泉の 建築様式をとりいれています。 『大砲 合川店』 久留米市合川町字穴町729-1 電話0942-44-1116 年中無休 |
| 「虚のラーメン文化」 から 「真のラーメン文化」へ |
「ラーメン番組」は低予算でも高視聴率が稼げる、マスコミにとって最大のメリットがありました。新聞の番組表にも雑誌にも、紙面には『ラーメン』という活字がいつも踊っていました。 しかし、久留米に限らず、全国各地のラーメン屋が『B級グルメ』としてオピニオンリーダーに喧伝される時代は、もはや過ぎ去ろうとしています。 ブームに乗るかたちで、イワクやコンセプトの「ありげ」な、味よりも低コストを重視したFCのロードサイド店が、次々オープンしては屋号が変わり、消長を繰り返しています。 ブームが急速に沈静化をみせる中、これから淘汰され、生き残るのは「手作りの・家業の・本当の味」と香月さんは考えています。 現在『大砲』9店舗では、その命といえるスープを、各店で「調理認定者」のスキルをもった担当者だけが厨房に入り、完全に1店ずつ手作りで採っています。 効率からいえば、集中厨房で一括して素スープをとり、各店へ供給するほうが、常時均一の味が実現でき、また豚骨素材の個体差からくる歩留まりも、最小限に抑えることができるのかもしれません。 しかし集中厨房では、手作りラーメンの醍醐味である、出来たてスープの『炊き出し感』を提供することは、まず不可能です。 さらに日・祝日の昼時、『大砲 合川店』の前をとおりかかると、駐車場までつづく長い行列ができているのを、目にします。 香月さんの厳命は 「お客様が多いときほど、行列ができているときほど、1杯1杯の丼を大切に、想いを込めて、慎重に調理しなさい」です。 「消費者のラーメンに対する関心が完全にさめきったころ、首都圏での展開に入ろうかな、と考えています。 そこでは、『本質的なラーメン文化』を築きたい。この数年来、演出されてきた『虚の文化』から『真のラーメン文化』を実現したい、と考えています」。 2003.06.13 文責:式島 健治 |
小郡市上岩田1102-1 電話0942-72-0332 年中無休 |