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サイ・ゴダード(3月18日)
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【サッカー】山口蛍 若きボランチを支えた父の存在2014年6月18日 紙面から
世界最高のMFと言われるヤヤ・トゥーレにも臆することはなかった。14日のコートジボワール戦で、守備で体を張り続けたMF山口蛍(23)は「悔しい思いしかない。満足感は全然ない」と振り返る。昨年7月のA代表デビューからわずか1年。今や日本代表の中盤に欠かせない存在として成長した若きボランチには、誰よりも感謝を伝えたい父の存在があった。 ◆離婚と転職自然豊かな三重県名張市で生まれた山口は、小学4年のときに両親が離婚。2つ上の兄・岬さんと蛍の兄弟のためにすべてをなげうったのが、社会人チームでサッカーをしていた父の憲一さん(47)だった。兄弟に寂しい思いをさせないために、大阪府内で務めていた会社を辞め地元に転職。休日は兄弟が所属するクラブのコーチを務めた。 ◆弁当と送迎兄弟に不自由なくサッカーをやらせるため、早朝の新聞配達に加えて夜のバーでのアルバイトと、3つの仕事を掛け持った時期もあった。もちろん、昼の弁当を含めた3食の用意と、中学時代に片道約2時間かけてC大阪の練習に通った蛍の駅への送迎は欠かせない。「忙しいとか、きついとか、そういうことを考える暇はなかったですね」。そんな生活は、蛍がユースに昇格してC大阪の寮に入るまで続いた。 ◆課題と助言地元で教えていた小学生のころから、蛍の能力はずばぬけていた。他の子どもと同じ課題を与えても簡単にクリアしてしまう。「マンネリ化しないように」とどんどんハードルを上げ、ときには平均台の上でリフティングをさせたこともあった。C大阪のジュニアユースに合格し手を離れてからも、恥ずかしがる蛍に隠れて試合を見に行ってはアドバイスを送った。家族をつなげたのは、いつもサッカーだった。 その関係は、日本代表となった今も変わらない。試合後は細部のアドバイスをメールで送る。「プロ選手には失礼かもしれないけど、ポジショニングとか。第三者として見たら、『そこまで引かんでいいんちゃうかな。そこ2、3歩前やったらあのカウンター防げたんちゃう』とか」。昔から返事はない。しかし憲一さんは送り続ける。 ◆照れと感謝蛍は言う。「もちろん今も素直に聞けますよ。自分自身もそうやったなっていうところを的確に言ってもらえる。ちっちゃいころから教えてもらっていましたし、オレの気持ちも一番わかってくれている。あまり返信はしてないですけど」 口下手な蛍は、父への感謝をモノで表す。履かなくなったスパイクは実家に送るが、時折そこにメッセージ入りの新品を交ぜる。昨年6月の父の日には「いつもありがとう!」と記した。代表に定着した昨年11月には、アウディの新車を贈った。今年の父の日のプレゼントは、ブラジルW杯への招待となった。 「蛍という名前は、暗い中でもしっかり照らして、一瞬一瞬を輝いて生きてほしいという意味合いでつけました」と憲一さん。水が汚れて数は減ったが、6月のこの時期は今も実家の周りで蛍が舞うという。山口が、初戦を落とし暗闇に包まれた日本を導く光となる。 (宮崎厚志) <山口蛍(やまぐち・ほたる)> 1990(平成2)年10月6日、三重県名張市生まれの23歳。173センチ、72キロ。小学3年時に箕曲ウエストでサッカーを始め、中学からC大阪の下部組織に所属。09年にトップ昇格。当初は攻撃的MFだったが、ボランチにポジションを移し、10年の広州アジア大会でU−21日本代表に選出。12年ロンドン五輪でも主軸として4強入りに貢献し、昨年A代表デビュー。 PR情報
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