日経ビジネス2月6日号に掲載のテレビ・ウォーズ「黒澤明、“天皇”の孤影」に連動したインタビューです。誌面とウェブを合わせてご覧ください。

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――草創期の東映は経営的に相当きつかったそうですね。

岡田 僕が入ったのは東映の前身である東横映画です。オーナーだった五島慶太さんが満州映画の引き揚げ者を引き受けて映画制作を始めた頃で、随分大変だった。

 五島さんは、ライバルである小林一三さん(阪急電鉄創業者)が東宝をやっているから、「俺にもできる」と思ったんだね。でも、映画はカネがかかるし、最初はそう簡単には儲からない。当時の東横映画は、小さなプロダクションがちょっと大きくなった程度でしたよ。

▼最低の会社からダントツの1位へ

――そこからここまで育て上げた。

岡田 映画会社の中では最低の会社でしたよ。それが、僕が社長の時にはもうダントツで1位になった。

 理由の1つは、ライバルの東宝が大きなストライキを契機に、制作スタッフの多くを追放したこと。映画の制作を断念して、興行会社に変わったようなものだな。

 それから大映もおかしくなった。オーナーの永田(雅一)さんが超ワンマンだったからです。時代劇でふんぞり返っていたのだけれど、ある時、永田さんが「そんな映画はダメだ。俺は考え直した」と言い出した。それで、黒澤(明監督)を使って「羅生門」を作って、ヴェネチア国際映画祭で賞を取ったのよ。

 その時、永田さんは「俺がやったから賞を取ったんだよ」と威張っちゃってね。黒澤にしてみたら、「冗談言うな。俺が大映に行ってやったんだ」という話なんだけれど、永田さんには「プロデューサーは俺だ」という気持ちがあったんだろう。だから、黒澤は大映では2本でやめちゃったね。

 黒澤は一時、松竹でもやった。松竹でもオーナーの城戸(四郎)さんとぶつかって大失敗した。結局、映画を作ってきたオーナーがいると、必ずぶつかるんだよ。そういうオーナーは「監督に威張られるのは不愉快だ。そんな奴はやめろ」と思うんだな。

――オーナー経営の弊害があったわけですね。

岡田 役者が映画会社から独立する動きが相次いだのもそのためです。「いつまでもオーナーに『はい、はい』と言っていられるか」と各社からスターが飛び出た。例えば、石原プロを作った石原裕次郎がそうです。

 我が社のトップスターの(中村)錦之助もそうだった。ある時、彼が僕に独立したいと言ってきた。僕は「独立は認めるけれど、うちのオーナーの大川(博)さんとは喧嘩してくれるなよ」と言いましたよ。

 それから何日かたって、大川さんに呼ばれた。大川さんは「独立なんかとんでもない。5社協定というのがあるから、秘密裏に彼らをいじめようじゃないか」と言うんだ。5社協定の内容はよく知られていなかった。みんな隠していたからね。各社の社長しか知らなかった。ただ、命令は下るようにしてあるのよ。どこか1社がある役者を使わないと決めたら、全社が足並みを合わせる。無言のうちにそうなるように決めてあったからね。

 俳優というのは映画にとって重要な存在だから、独立、移籍は大変な問題だった。特に裕次郎なんかは非常に神経を使ったと思うよ。裕次郎は日活でぐーんと伸びたんです。何といっても、石原プロの初期を支えたのは日活だからね。

▼日活は自由度の高さで人が集まった

――なぜ日活だったのでしょうか。

岡田 日活ではいろいろなものがやれたからだよ。日活はもともと映画制作はやらない興行会社だった。だけど、社長の堀(久作)さんが、みんなにおだてられて映画制作を始めたんだ。

 松竹の人間はあまり独立しなかったけど、その代わり若手のホープたちが集団で日活へ流れていった。変わった連中はほとんど行ったんじゃないかな。大島渚なんかもその1人です。

 松竹の城戸さんは厳しかったから、客が入りそうもないような作品は拒否したからね。その点、日活は自由があって、企画をどんどん認めた。もっとも、経済的にはあまり報われなかったけどね。

――東映の映画はどうでしたか。

岡田 進駐軍がいた時代は、時代劇が許可されなかったから、新劇と組んで現代劇をやるしかなかった。うちはもともと時代劇の役者ばっかり抱えている会社だったから、サンフランシスコ講和条約の発効で時代劇が解禁されたのは、干天の慈雨みたいなものだった。さらに錦之助を歌舞伎から入れて、ちょっと元気づいた。

 現代劇も僕がプロデュースした「きけ、わだつみの声」(1950年)が大当たりしちゃった。でも、大映に配給してもらったので、結局、カネはあんまり戻ってこなかった。それで、配給も独自にやることにした。ところが、独自でやると言ったって、うちは持っている直営映画館が1館か2館ぐらいしかない。小屋を増やそうとしたけれどカネがない。映画の制作と、小屋の拡充、どっちもカネがかかりました。

 その後、現代劇が不振で、私は時代劇の京都撮影所長から、(現代劇の)東京撮影所長になった。今までの作品はダメだと思ったから、古い監督には1人残らず辞めてもらった。そして、深作欣二らの新人を抜擢した。

 それでみんなやる気になったんだよ。どんどん企画が出てきたから、その中のいいものをやっていった。僕自身が映画の作り手だったから、この改革ができたんだ。

▼「時代劇」から「現代劇」、そして「ヤマト」

――岡田さんがプロデューサーのような形でやっていたんですね。

岡田 そう。ゼネラルプロデューサーとしてね。全体を統率していったんだよ。

 現代劇も充実して、時代劇がむしろ押されるぐらいに良くなった。それで、東映がトップになったわけです。

――時代劇と現代劇を巧みに使い分けてきた。

岡田 我々の商売はどんなに当たっても10年なんだよ。時代劇も、うちは(片岡)千恵蔵以下、役者を揃えたけれど、急に客が来なくなった。スタートしてちょうど10年目だよ。いろいろ考えたけれど、結局、理由は分からないんだ。僕は流れだと思ったね。映画もファッションなんだ。それで、社長になる直前だった僕は思い切って現代劇中心に一新した。

 僕は「(重役でもあった)千恵蔵先生から辞めてもらおうや」と、時代劇を撮っていた京都撮影所の連中に言った。みんなびっくりするわな。でも、安い賃金の人を切ったってたかが知れている。これは時代劇そのものの問題だから、高給取りの役者に辞めてもらうしかない。

 それから、(映画用だった)ステージを3つテレビに渡した。ちょうどテレビ映画が全盛期を迎えていて、あっという間にテレビ映画といえば、うちの作品ということになった。

 一方、現代劇も、他社がやらないことをやる以外ないということで、思い切ってやくざ映画をやったわけです。そうしたら高倉健の「網走番外地」がばか当たりした。

 しかし、やくざ映画も10年経ったら飽きられて、客が減り出した。これをどうするかには随分悩んだよ。うちが一番儲かったのはやくざ映画だったからね。

 その時、偶然、テレビで「宇宙戦艦ヤマト」をやっていた西崎義展が映画化してほしいとやってきた。どこの映画会社でも断られたと言うんだよ。うちはほかに作品がないから、すぐ買った。これが大当たりしちゃった。

 同時にうちのアニメ(東映アニメーション)が復活した。長く低迷していたアニメがね。

――宮崎駿さんも東映アニメーション出身ですね。

岡田 そうなんだ。アニメ制作を手がけている会社は、うちしかなかったからね。うちから独立したクリエーターがどんどん成功していったけれども、それで良かったと思っているよ。

▼モノを作らないところが生き残る

――興行の部分はどう見ていますか。

岡田 うちはデジタルシアターをあちこちに作って、飛躍的に数を増やした。今は東宝とうちが、映画館数では拮抗している。そして、一番いい場所を握っている。今は映画館が都心に移ってきて、一番いい場所をみんなで取り合っている状況だ。だから、競争激化と同時に、1社だけの独占は無理な時代になってきたね。

 日本の映画史を振り返ってみると、興行会社はみな生き残っていますよ。洋画配給の会社になったところもある。モノを作らんところが生き残るんだ。東宝がそうでしょう。

 逆にモノは作るけれど、映画館が少ない大映はダメになった。直営館がないと、やっぱりカネの入りが少ないんだな。結局、興行を安定させなきゃダメなんだよ。いくらいい映画を作ったって、やっぱり興行するところがなければどうしようもない。

 ハリウッド映画の興行はコストが高くついて、儲からないと言うけれど、そんなことはない。何もせずに興行だけやっていれば、そこそこ儲かりますよ。ただ、リスクがない分、面白くはないよ。それに、インターネットが進歩したりして、どんなに世の中が変わっても、変わらないのはソフトです。ソフトをどううまく握るかというのが、これからのカギですよ。

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大スターが生まれたきっかけは、テレビの覇権を巡る激闘だった。次回(本誌2月13日号)は、伝説のアイドル山口百恵に迫る。ウェブ連動インタビューには堀威夫・ホリプロ取締役ファウンダーが登場します。

(聞き手:日経ビジネス編集部、写真:清水 盟貴)