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「前ちゃん」こと、前川鴻さんが、40歳を前にようやく結婚することに決まった時、僕たちはみんなで歓声を上げた。そして、すぐにみんなは同じことを願った。「どうぞ、すぐに離婚されませんように…」と。僕の妻も、もちろんそう願った。
何しろ前川さんときたら、週末毎に府中競馬の帰りに、国分寺の我が家に寄っては、勝手に冷蔵庫を開けて「何かおいしいものある?」と言って、ビールを飲んで帰っていくのだから。
でも前川さんは、どこか憎めないところがあって「困った前ちゃん…」と言っては、この厚かましさというか図々しさを、みんなで許してきた。
前川鴻さんを僕に会わせてくださったのも、尾張幸也さんだった。1964年頃だったと思う。前川さんは日大の写真学科にいながら、ライトパブリシティのスタジオに入り浸ったり、団伊久麿さんのマネジャーみたいなことをやったりして、すでに相当なお金を稼いでいたらしい。
その時代なら学生をやっているよりも、実社会の方が数段面白く、目端のきいた学生は大体そうやって留年したまま中途退学というコースを辿っていた。前川さんもその口で、どこか生活感がなく、その時ですら、もうすでに、充分に
”怪し気“だった。
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1966年、「セイコーファイブ」の撮影スタジオで。後列左が照明の宮川寛治さん、その隣が前川鴻さん。髪は、まだたっぷりとあって別人のよう。右端は演出の斎藤誠さん。「東洋シネマ」のディレクターだったのに、こっそり前川さんが連れてきた。前列、僕の隣はカメラの大木篤夫さん。
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前川さんは、その前の「第一レコード」時代に資生堂の生CMをやっていらしたということだった。ちょうど始まろうとしていた、セイコーの婦人用腕時計のキャンペーンをどうしようかと思っていたところだったので、前川さんの登場は、僕にとっては渡りに舟だった。
その頃は、受像機そのものの解像度もあまり良くなく、ホワイトバックで人物を撮ることが、まだまだ難しい時代だった。それに、映画の直接的なライティングの技術しかなく、ファッション写真のようにはいかなかった。
僕はどうしても、それをやりたかった。
前川さんは、さすがにライトパブリシティに出没していただけあって、僕が望んでいたトーンをすぐに理解して、どこからともなく間接照明をやりだしていた宮川寛治さんと、カメラの大木篤夫さんを連れてきた。それから、「商品カットでビンのフタを面白く動かした」と言って、CMもほとんど初めてというベレー帽をかぶった、優しい目をした青年を演出にと言って連れてきた。大林宣彦さんだった。
大林宣彦さんは、後に「CMのクロサワ」と呼ばれ、やがて”大林映画“と言われる数々の名作を作り、日本映画を代表する監督の一人になっていくわけだけれど、その頃はまだお互い貧乏で、しかし野望だけは持ちきれないほど持っているというふうだった。
前川さんと僕とは、仕事が終わってそのまま大林宅に転がり込んでは、奥様の、今はプロデューサーの大林恭子さんの手料理でお酒を飲ませてもらったりしていた。
今は、大林さんのエッセイのイラストを描かしてもらっている。長い大事な友人の一人だ。
前川さんは、どこからかいろんな人を連れてきて僕に会わせてくれた。
一回会って、一回飲めば、もうそれだけで、10年以上の知己にしてしまうのが前川さんの特技だった。
「これは多分、ムリだろうなあ」と言うだけで、僕の欲しい才能や技術が、どこからともなく手に入れてきてくれた。しかも、”友だち値段“で。
市川崑さんの時もそうだった。
国鉄の「ディスカバージャパン」の作家シリーズの時に、僕がつい「こういうのは市川崑さんみたいな人が撮ってくれると、出演を口説きやすいよね」と思いつきのように呟いたりすると、数日経つと「崑さんと話しがついた」と、突然言ってきたりする。
神様のような市川崑さんと接する時も、あの気安さは相変わらずで、周りのスタッフの人たちがハラハラしたり、あきれたりしていた。
その崑さんが、前川さんのお弟子さんに「前川は”センミツ“で千に三つで、いい加減この上ないけど、この”三つ“は、誰にもマネのできないものだ」と仰ったそうである。すごい褒め言葉だ。
前川さんの悪いところは、やさしい仕事だと、つい手を抜いてしまうことだった。おかげで次々と仕事を失ったりしたが、僕や大阪電通にいらした堀井博次さんの仕事は、長く続いた。
僕と前川さんは、お互いビジネスをしているというよりは、面白い仕事になるにはどうすれば良いのか、ということばかりを考えていたような気がする。
最近の前川さんは、立派な糖尿持ちのくせして、相変わらず僕よりも元気に飲んでいる。僕は、前川さんの葬儀委員長をやることになっているので、前川さんより一年でも長く元気でいなくちゃならない。メンドーな友人でもある。
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