N:ナレーター O:大林監督 |
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映画監督として影響を受けた作品があれば教えてください。 | ||
僕はね、1960年代までに上映された映画は、日本で見られる限りの映画は、まず全てと言っても間違いではないくらい見ていて、影響を受けていますし、逆に受けようともしてます。自分の好きな映画やちょっと苦手な映画などいろいろありますが、苦手な映画からこそむしろ影響を受けています。というのは、苦手な映画というのは自分では出来ない映画だから、そこから影響を受けてそこからやらなきゃならんわけだからね。
もちろんそれらの映画の中には「傷つきあって、許しあって、愛を覚える。」という言葉がしっかりとそれらの中に生きているわけね。傷つきあう映画こそ理解しようと思うわけね。でも、それは60年代までです。60年代以降はね、僕は現実に社会にでて8mm映画を始め、CMも創り、映画を創り出してからは、ほとんど映画を観ないようにしています。
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そしたら、1分の映画を作っているヘンな連中がいるぞ。と、TVのコマーシャルをやらないかと、そういうことでうまく時代と結びついてね、そういうことで僕たちの作った映画がアンダーグランドと呼ばれたりして、外国のバイヤーが買って持って行ったりしてね。僕は1966年ですか、日本で最初の海外ロケでCMでハリウッドに行って、向こうでも「アンダーグランドの監督が来た!」って騒がれたりしてね。でも、ハリウッドブルーバードは歩けないですよー、日本人の靴は汚くて。その時靴を履いてベッドで寝るという体験を初めてしてね、「あー、アメリカってのは道路までベッドと同じくらいキレイだー」と思ったもんですよ、本当にあの当時はキレイだったんですよ、アメリカは。タクシーでハリウッドブルーバード乗り付けて、靴を脱いで降りて、ふと見るとキラキラの靴が目の前を歩いているんですよ。そして、ふと見上げると、フランク・シナトラとディーン・マーティンがいるんです、映画の中にいるんですよ。それでその横をひょぃと見ると、NOBUHIKO OBAYASHIって大きな真黄色い文字に赤いだいだい色の枠をつけたのろしが見えてね、俺と同じ名前があるぞ。と思っていたら、「ドリスデイより面白い映画 Japanese underground」と書いてある。「おー、俺の映画じゃないか!」と(笑)。そんなですから、日本で映画監督になりたいとも思うわけがなくて、もう世界の真ん中でフィルム・アーティストなんですよね。 |
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生きていくうえでの、Motto(モットー)は何ですか?! | ||
何だろうなー。僕が生きていくってことは今は現実に映画を創っていることでしかないわけで。この映画と出合ったのは、僕が3歳の時ですよ。我が家に活動写真機という映画の玩具ですが、これと出合いましてね、蒸気機関車の玩具だとばっかり思ってた僕は、カタトン、カタトンとハンドル回してシュシュポッポとやってフィルムを切り刻んでお缶ならぬランプハウスに入れて、煙突をたてると煙突はレンズですからフィルムは太陽の光で燃えるので、火が出る、煙が出ると遊んでいたらそのうち汽車じゃないぞ。ということがわかって、フィルムをよく見ると絵が描いてあって、その絵を刻んでしまっていたので、母親に糸でつなぎなおしてもらったら、順序がバラバラで、いろんな種類の映画が1本にになってね。のらくろと別の映画の主人公が共演しちゃってね。 |
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