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映画監督 大林 宣彦
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OKWave > OKStars > vol.28 映画監督 大林宣彦

N:ナレーター  O:大林監督

映画監督として影響を受けた作品があれば教えてください。
「その日のまえに」

僕はね、1960年代までに上映された映画は、日本で見られる限りの映画は、まず全てと言っても間違いではないくらい見ていて、影響を受けていますし、逆に受けようともしてます。自分の好きな映画やちょっと苦手な映画などいろいろありますが、苦手な映画からこそむしろ影響を受けています。というのは、苦手な映画というのは自分では出来ない映画だから、そこから影響を受けてそこからやらなきゃならんわけだからね。 もちろんそれらの映画の中には「傷つきあって、許しあって、愛を覚える。」という言葉がしっかりとそれらの中に生きているわけね。傷つきあう映画こそ理解しようと思うわけね。でも、それは60年代までです。60年代以降はね、僕は現実に社会にでて8mm映画を始め、CMも創り、映画を創り出してからは、ほとんど映画を観ないようにしています。

観ると影響受けるし、影響受けることはいいことなんだけど、悪い影響も受けちゃうからね。例えば中島朋子や永作博美を知ってしまうということは、僕にとって悪い影響なのだからね。その代わりラジオ聞いたり、新聞を読んだりして、映画以外のこととは時代遅れにならないようにしっかり付き合うけれども、映画のことだけはできるだけ遠く離れていようとしています。

それともう1つ大きな理由が、映画が変わったことです。つまりそれが60年代以降は、街角のケンカのようになってきてジェットローラーコースター映画であってね、それは僕にとっては映画でも何でもなく、それだったらジェットローラーコースターに乗ればいいわけで。やっぱり映画ってのは、そこで立ち止まったり、振り向いたり、考えるものでありたいなと思っているので、そういう意味ではトレンディーな映画創りからは僕は離れていようと思っているので、今の時代からは隅の方にいるよ。という感じだと思いますけど、映画界では、映画以外の中で時代の真ん中にいるぞ。と思っているので。その辺は変な監督ですね。

それと正しい意味で僕は“映画監督”っていう職業に就いたことがないんでね。
映画監督というのは、東宝か、松竹か、大映か、東映かの社員になって、そこで監督部に入りたいといっても、体格がいいから署名部行けとか、運よく監督部に入っても、年功序列で監督になっていく。それはいいことなんですよ。そういうことで伝統が継承されていくんですからね。

でも僕はそういう体質が全くないし、知らなかったんですね、田舎の医者の息子ですから。東京に出てきて映画会社に行かねばと思っても、その頃の映画会社なんてコネだったり、優秀な大学を優秀な成績で出たようなエリートしか入れないような場所で僕のような田舎モノはにはねしかも映画界がダメになっていく時期だから、余計にチャンスがなかったですね。

僕にできる事は父親からもらった8mmで映画を創って発表したいけれど、するところがない。仲間の友人たちがまだ無名の彫刻家や画家で(今や日本を代表する画家ですが)当時、みんないろんなところで発表する。僕だけ発表する場所がない。「待てよ、絵描きゃ画廊だろ、彫刻も画廊だろ、映画もそうはならないのかい。」と思ったときに、はたと気がついて、友人から白いキャンバスを借りて、それを画廊の中に立ててそこに8mmを上映するという発表会をやったら、これが大変な評判と人気を呼んで、映画界からだけは無視されましたが、美術界やいろんなところから“フィルム・アーティスト”の誕生と呼ばれて、僕は映画監督ではなくて“フィルム・アーティスト”なんです。うわぁ、かっこいいなぁ。と。フィルム・アーティストであるが故に今度はホールの時代が来てね、紀伊国屋ホールだとか、最初にホールが出来たときに僕たちのフィルムをやろうと、8mmじゃ小さいから止む無く16mm。お金ないから1分の映画を作ってやろう、と。

 
「その日のまえに」

そしたら、1分の映画を作っているヘンな連中がいるぞ。と、TVのコマーシャルをやらないかと、そういうことでうまく時代と結びついてね、そういうことで僕たちの作った映画がアンダーグランドと呼ばれたりして、外国のバイヤーが買って持って行ったりしてね。僕は1966年ですか、日本で最初の海外ロケでCMでハリウッドに行って、向こうでも「アンダーグランドの監督が来た!」って騒がれたりしてね。でも、ハリウッドブルーバードは歩けないですよー、日本人の靴は汚くて。その時靴を履いてベッドで寝るという体験を初めてしてね、「あー、アメリカってのは道路までベッドと同じくらいキレイだー」と思ったもんですよ、本当にあの当時はキレイだったんですよ、アメリカは。タクシーでハリウッドブルーバード乗り付けて、靴を脱いで降りて、ふと見るとキラキラの靴が目の前を歩いているんですよ。そして、ふと見上げると、フランク・シナトラとディーン・マーティンがいるんです、映画の中にいるんですよ。それでその横をひょぃと見ると、NOBUHIKO OBAYASHIって大きな真黄色い文字に赤いだいだい色の枠をつけたのろしが見えてね、俺と同じ名前があるぞ。と思っていたら、「ドリスデイより面白い映画 Japanese underground」と書いてある。「おー、俺の映画じゃないか!」と(笑)。そんなですから、日本で映画監督になりたいとも思うわけがなくて、もう世界の真ん中でフィルム・アーティストなんですよね。
それがだんだん日本映画がダメになって、観る人がいなくなって、東宝でコマーシャルを撮っていたら、「大林さんのような人が東宝の映画を撮ってくだされば、日本の映画も少しは観客が来るんじゃないかなー。」といって、僕は東宝の社員ではないから創れない。そしたらアイデアだけください。と言うんでウチの娘と相談して7人の娘が家に食べられる。とメモで渡したら、企画会議はすぐ通った。さすがに面白い!と。でもやる監督がいません。こんなバカな話・・・・。とみんな言ってます。と。そりゃそうですよ。
でも僕がやるわけにはいかない。2年間そのままほうっておいたのね。その間に、いろんなマスコミが“大林が東宝映画をやる”と1日も欠かさず報道が続いたんですよ。
まあ、世の中がそういうことを期待していたんでしょうね。僕に関してはプライベート映画でもファンが既にたくさんいましたので、大林が東宝映画を撮ったらおもしろいだろう。となったんですね。
で、それが結局は実現しますね。そうするといろんな人が東映や日活などでそうなっちゃってね、半年の間に。

だから僕は映画監督をやったことがないんですよ。フィルム・アーティストか、名刺を作ったときも日本語でいうなら映画作家と思い、『映画作家』と書いたんです。画家だろ、彫刻家だろ、音楽家だろ、じゃぁ映画家か?映画家ってのはちょっと変だろう。と。それで僕たち文学少年でもあったので、映画作家と名乗ったのが20歳のときで、それ以降ずっと映画作家。一瞬、70年代から80年代は映画監督として存在した時期はありましたけどね。日本の商業映画とがっぷり絡められて、商業映画の真ん中で生きていた時代もありましたけどね、でも90年代になってもう商業映画の世界とも外れてきたから、また映画作家に戻りました。

生きていくうえでの、Motto(モットー)は何ですか?!
「その日のまえに」

何だろうなー。僕が生きていくってことは今は現実に映画を創っていることでしかないわけで。この映画と出合ったのは、僕が3歳の時ですよ。我が家に活動写真機という映画の玩具ですが、これと出合いましてね、蒸気機関車の玩具だとばっかり思ってた僕は、カタトン、カタトンとハンドル回してシュシュポッポとやってフィルムを切り刻んでお缶ならぬランプハウスに入れて、煙突をたてると煙突はレンズですからフィルムは太陽の光で燃えるので、火が出る、煙が出ると遊んでいたらそのうち汽車じゃないぞ。ということがわかって、フィルムをよく見ると絵が描いてあって、その絵を刻んでしまっていたので、母親に糸でつなぎなおしてもらったら、順序がバラバラで、いろんな種類の映画が1本にになってね。のらくろと別の映画の主人公が共演しちゃってね。

それが面白くて、今度は切ってないフィルムを自分で組み合わして繋いで自分の物語を作ったんですよ。さらには絵が剥がれるので、自分が描いた絵を使ってアニメーション映画を自分でこしらえたり、さらにそのフィルムはライカ版のキャメラですので、自分で1コマずつ写真を撮って自作自演の映画ができると。そういう映画で遊んでいて、映画と遊んでいる限りは、どんなにフィルムを切り刻もうと、燃やそうと、叱られないんですよ。

それで、これで遊んでいると生涯叱られないなというところから始まって「宣彦がそんなに映画が好きなら本物の活動を見せてやろう。」っていうんで、活動小屋いわゆる映画館に行くと、普段は怖い町の大人たちがみんな子供のように楽しそうにしていて、あ、映画を観ると大人までが子供のように無邪気になるんだ、しかも褒められていると自分もいい子になるし、これはとても人間にとっていいものだ。一生これで暮らそうと思って今でもそうしているんですね。

もう1つは同じ頃に、音のないピアノがあって、これは戦争中だったので音をだす弦が徴収されていたのでね、でも僕からみれば積み木が並んでいてね、白と黒の。この積み木が外れればいいなと思ってガタガタ揺らして遊んでたんですね。その後、父親が戦争から帰ってきて、これからは平和の時代だからといって、音のするピアノをもらい受けて、真昼間青空が見えてましたよ、戦争が終わって1週間もしないうちですね、このピアノを弾いてみろと言われて、そう言われてもよくわからなかったんですね。ポン、ポン、ポン♪と。

あれ?これは音の積み木かと。音の積み木で遊ぶと何だか教会やお寺の鐘の音のように聞こえてね、しかも昼間に大きな音を出して遊べるっていうのが感動なんですよね。

戦争中の僕らは、レコードを聞くのも昼間でも雨戸を閉めて電気消して、なぜかね、毛布被って、それで聞いたもんですよ。つまり外に聞こえたら敵がくる、罰せられる、まさか戦争中にクラシックやジャズなんて聞こうもんなら敵の音楽を聴いてるってことで、罰を受けた時代ですからね。それが真昼間教会の鐘のような音を出せる、あ、これと遊んでいる限り、一生平和でもう戦争のない時代で暮らせると。この2つの思いから僕は後々は、音の積み木をたたいて、それを自分のシナリオの上でスコアで起こしておいて、僕の映画の映画音楽を作ると。この2つのことをやったことと平和に賢く遊びながら70歳まで生きちゃった。

これは当時の大人のお陰だと思うんです。ピアノだってそうやって遊んでいて、映画を観にいくと、歴史的な作曲家たちの人生な映画が多くて、ヴェートーヴェンやショパンにリスト、シューベルトやシューマンもみんな映画から学びましたよ。その中でも特に、ショパンの結核を病みつつ、チャリティーコンサートでピアノを弾いて、真っ白な鍵盤の上に赤い血を吐きながらピアノを演奏するというシーンがとっても印象的でね。

しかも彼は恋する恋人とも別れて。西部劇見れば、拳銃ごっこやチャンバラをやり、タップダンスをやり。と何でもする少年でしたから、当然ピアノも一所懸命練習しましたよ。

そしたら恐ろしいことにショパンの「別れの曲」から「英雄ポロネーズ」まで弾いてしまうんですね、子供って天才ですよ。そうすると大林はピアノが弾けるってもので、中学生のときに地域の校長先生たちが集まった講堂でピアノを弾け。と言われてね。

愚かにも僕がピアノを弾くということは、ショパンを演ずるってことですから。
すぐ家に帰って、おばさんの女学校の長袖のシャツにジョーゼットを貸してもらってひらひらを作ってもらって、病院ですから車夫さんがいて車で往診してましたからね、その車を引くおじさんからパッチを借りると、ショパンの細身の19世紀のズボンになる。

で、おばあちゃんは丸髷を結っていたので、頭が禿げるんですよ。そこに乗っける毛玉があったので、それを腰まわりに垂らすとショパンになるんですね。残るは血だけでね、どうしたらいいものかと思っていると、母親が「それはあんた、トマトケチャップがあるじゃない。それを薄めて口に含んで吐けばいいわよ。」って言うんですよ(笑)。

(その場一斉に大爆笑)

親がエライですねー(笑)。で、僕はその日に口にそれを含んでね「英雄ポロネーズ」を弾いてね、鍵盤に吐いてね、拍手喝采が映画のようにくるかと思ったら、シーンとなってね。ふっと気がついたらみんな黙って出て行くんですよ。その時になって子供って気がつくんですよね、これはえらいことをしたって。トマトケチャップで鍵盤はぐちゃぐちゃだし、ハンカチで鍵盤を拭いてみてもどうにもならん。あー講堂のピアノ壊しちゃった。と思いながら1人しょんぼり座って拭いてましたら、ピアノの得意な僕の尊敬する副校長先生がやってきて、「大林よ、お前の名演奏のおかげで学校のピアノはもう使い物にならん。お前にもわしにも誰にもこのピアノは直せんぞ。じゃけどのー(尾道弁でね)、ピアノは所詮道具である。ショパンはこの道具に向かって一所懸命励んだ、そのお陰で我々は何世紀も後にもなって、ショパンの楽しい音楽を堪能することができた。お前も芸術家を目指すなら、ショパンに負けないぐらいお前の世界に励んで、立派な芸術家になればこのピアノもお前の役にたったと喜んで幸福になってくれるだろうと。今お前はこのピアノを不幸にしたが、今お前にこれからできることは、傷つき不幸になり、ゴミにすらなったこのピアノを幸福にすることはお前はできるから、それに向かって励めよ!と言われてそれで終わったんですね、怒られずに。いまだに映画とって、「カット、オッケー!」と言ったときに、あのピアノ許してくれたかな?って反射的に思い出すんですよ。

いや、まだ許してくれねーぞ、まだ頑張らねばいけない。ってあのピアノは僕の中で生き続けているんですね。あの時、「このばか者!何をとんでもないことしたんだ!」って叱られたらそれだけで、僕はピアノもやめ、映画の道にも進まなかったかもしれませんね。

当時は“もったいない”の時代で、一粒でもご飯を残すようならご飯を食べる資格がない。そういう時代にピアノや映写機を壊して遊ぶということを許して、面白がって、褒めてくれた大人たちは、この子の中に潜む自分にもまだ分からない才能があるはずだ。その才能を自分達の判断で壊してしまったら、もったいないと、本当のもったいないを彼らは思ってたんでしょうね。だから、それは全て許して褒めて認めてやろうと思ってくれたんでしょうね。それは僕の親だって副校長先生だって公立の学校のピアノを1つダメにすりゃ、そりゃとんでもないことだったと思いますよ。でも子供の僕に責務を問わずね、見事な大人がいたなと。そういった大人にどれだけ僕が近づけているかということも、僕の課題であるわけだし、そういう風に子供たちを育ててほしいなと思いますね。

だからそういう意味で未来があるんだと、未来はまさに自分のために用意されているんだと子供達が信じて思えるような大人でありたいということを試して、少しずつでも実現させる喜びを得られるのが生きるってことでもあるだろうし、目的でもあると思いますね。

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