韓国旅客船沈没事故、修学旅行は危険?・・・教員意識調査で半数近くが「完全廃止」=韓国報道 - ライブドアニュース
韓国ではセウォル号沈没事故を受け、「修学旅行廃止論」が高まっている。
事故のリスクはさることながら、旅行先での暴力事件や万引きなどのトラブルが増えていることや、そもそも教育的な効果があるかどうかを疑問視する声や、例によって「日帝残滓だ」という指摘もある。修学旅行は、日本と韓国以外の国には存在しない特殊な概念だ。
修学旅行生5人、長崎の被爆者に暴言 横浜の中学校謝罪:朝日新聞デジタル
さて、日本でも修学旅行をめぐる「事件」が話題となっている。
横浜の中学生が、長崎を訪れた際に被爆体験の「語り部」を侮辱したという問題だ。
広島や長崎、沖縄を訪れて行われる修学旅行では、当時の遺構や記念館を訪れたり、戦争体験世代の語り部から戦争についての体験を拝聴する「平和学習」が主目的となっている。
各媒体の報道を複合するに、この生徒は語り部の説明を聞かずに騒いでいたことを叱責された際に「死に損ないの糞ジジイ」と叫び、周囲の生徒に「笑え」と拍手を呼びかけたそうだ。
さて、ここで一つ考えたいのが、生徒の態度の問題だ。「修学する気」がさらさら存在していないのである。だが、旅行を欠席することはしない。これは日本の修学旅行制度がそもそも破綻していることを示している。彼らはたまたま羽目を外したにすぎず、多くの学生・生徒が積極的な学習をしているにすぎない現状があることは否めないのだ。
ふつう日本の修学旅行と言えば、「平和学習」と「歴史学習」が柱になっている。歴史学習といえば小学校は日光、中学校は京都・奈良に行くことが「日本人の青春の共通体験」と言っても過言でないくらいに定番となっている。
だが、私の記憶では、こんなものをまともに学んでいる同級生はタダの一人もいなかった。京都では、班行動が鬱陶しかったため一人でふらふらと社寺を出歩いたりもしたが、みな修学旅行を全員参加型のレジャーとして見なしていた。全体行動は、最終日の自由行動を楽しむために耐え忍ぶ「苦役」として考えられていた。中高生が主人公の恋愛漫画を読めば、修学旅行回はだいたいそうした当事者の視点で描かれている。訪問地は青春を楽しむための背景に過ぎないのである。
修学旅行の最大の思い出といえば、「集団行動で羽目を外した記憶」か「寝泊りする自分の部屋に同級生を大量に呼び寄せてパーティ三昧を楽しんだこと」が一般的だろう。特に後者の場合、教師の目を盗むというハラハラドキドキ感もあり、そっからつり橋的に恋が生まれることもある。やることはお菓子を食いながらふざけた話をしたり、Winning Elevenやウノという地元でもいくらでもできるジャンクな娯楽だが、旅先と言う非日常感が余計に楽しく思わせるのだ。
「ドリフの修学旅行コント」が宿を舞台にしていることを考えても、昭和からこれが状態化していたようにも思える。
京都といえばイオン!?最近の修学旅行生の訪問先がヤバイことになってる - NAVER まとめ
ちなみに現在の京都修学旅行では自由行動で京都市内のイオン(ジャスコ)をハシゴしたり、ヨドバシカメラに行くことが最大の愉しみになっているという。神奈川県民的には「新横浜で解散した時にそのまま友だちと横浜で買い物したほうがマシなのでは・・・」と思うのだが、田舎の子たちには京都の商業施設程度でも立派に感じるのだろうし、あるいは、子どもたちにとって神社仏閣が京都のジャスコよりよほどつまらなく感じるのだと思う。
そして、学校側にも、子どもたちが退屈さから不満を募らせて行事が破綻しないように配慮している所がある。京都修学旅行なら、太秦映画村やユニバーサルスタジオなどのテーマパークをツアー先に組み込むことも多い。平和学習の場合、長崎ならハウステンボス、沖縄ならビーチリゾートでのアクティビティや水族館などをふんだんに満喫させるのだ。そして、その楽しかった思い出しか記憶に残らないのである。
それはもはやアルバイトと同じである。「賃金」と言う対価があるから、社員や客相手に愛想笑いを浮かべながらやりたくもない労働に従事するのである。「賃金」の代わりとなるインセンティブが自由行動であり、部屋でのどんちゃん騒ぎであり、レジャー施設体験であるのだ。それでも満たされないほど「プランに不備のある旅行」であったり、または生徒がよほどのワガママであると、語り部への暴言事件につながるのだ。
なお、「貧困層の子どもたちに旅行機会を与えている」という意義があるのかとも思えそうだが、実際には公的ないし学校側による参加のための支援策はないようで、貧乏な子はそういえば修学旅行を欠席している。「普段は学校を休まない同級生」の顔がそこにいないということはもどかしいものがあるし、当事者が一番悲しんでいることだろう。
修学旅行の意義はずっと破綻し続けている。それでもやめられないのは、それが「手段の目的化」という日本の悪しきお役所病に原因があるだろう。教師だって公務員である。
なお、海外で修学旅行の代わりになる機会といえば、おそらくそれはミュージアムでの体験学習だろう。
海外のミュージアムの場合、子どもの知的好奇心をくすぐるような体験要素などの仕掛けがたくさんある。身近で見られたりもできる。博物館・美術館の側が「いかに来場者を没頭させるか」の努力をしているのだ。同じテーマのドキュメンタリーでもNHKが辛気臭い退屈な番組しか作れないくせに、ディスカバリーチャンネルが100倍面白いのと同じことである。
そしてそこには自由な空気もある。
フランスはルーブル美術館でもオルセー美術館でも、床に寝そべって課題をやっている小、中学生ぐらいの子が大勢いたな。大芸術を前にしてのあの気楽さは日本の美術館にも欲しいよね。芸術なんてお行儀良く鑑賞するものではないのだから
— UMAヲ級 さ〇てんだぁ (@TTTtaku) 2014, 6月 6
日本の場合はどうだろう。写真撮影や私語すら禁止である。まして床に寝そべったら大問題だ。しかしそれは本来のミュージアムの存在意義である「人々と文化の接点を作り、親しみや理解を深めながら憩うことのできる場とする」という精神と逸脱することなのだ。大人ですらウンザリしそうなのに、ましてや子どもが我慢できるわけがない。
戦前の右翼的な精神教育と戦後の日教組的な左翼教育も「大人にとって都合のいい1つのイデオロギーを刷り込む」ことが優先されているもので、それが観光と言う形で行われているのが修学旅行である。だが今は20世紀の「世の中が単純な時代」ではない。子どもだって幼い頃から色々なコンテンツにさらされていて、たくさんの場所に出かけているのだ。本人へ娯楽のつもりでも無意識のうちに学んでいることもあるのだが、修学旅行には「学ぶことを楽しむ」仕組みはそもそもない。十人十色に違うはずの子どもたちの「関心のきっかけづくり」やその子にとって一番の学び方を考慮するための努力を教員も旅行代理店も全く行っていない。古典的で一方的な「学習」はテーマが平和であれ歴史であれ苦役に他ならない。
語り部への暴言はあってはならないことだ。しかし、子どもたちの大半は、退屈による不満と言う感情を彼らと同じように共有しているのである。もしかしたら事件の現場の子どもたちはみなきっと、心の中で拍手をしていたのかもしれない。あるいは「うわあいつマジで空気読めし」とウンザリしていたことだろう。それはただでさえ退屈なことが余計に面倒になることへの憂慮である。子どもの素直な本音は公務員気質の大人が思う以上に残酷である。
この際、日本の学校は修学旅行を廃止にしてみてはどうだろうか。その方が、観光地の混雑緩和につながり、本当に日本人の伝統文化に関心を持つ人や、平和の大切さを考える人たちがじっくりとそれを学ぶことができる。場の空気だって変わることができる。
どうあがいてもネット右翼のようなネオナチには平和の大切さなんてわかりようもないし、伝統文化が嫌いな人間は嫌いなままである。マナーのない不良生徒はヤンキーになるのだ。それを「教育で変えることができる」と思う人間はスパルタ根性主義や自己批判といった左右のカルトくらいである。
観光地には、関心や尊重意識のある人間が訪れるべきなのだ。