特大ヒット中の映画『アナと雪の女王』('13)だが、僕自身はあまりぴんとこなかった。興行記録はとどまるところを知らず伸びつづけ、世間的には絶賛ムードのなか、なぜ僕は『アナと雪の女王』にさほど心が動かされなかったのかをあれこれと考えている。
決して嫌いな映画ではない。人気作品になるのはよくわかるし、扱われるテーマもリベラルかつ寛容なものだ。また、映像や音楽などどれも申し分ないクオリティであることは確かなのだが、結果的には共感のポイントをつかみそこねてしまった。同じくプリンセスをテーマにしたディズニー近作で言うなら、個人的には『塔の上のラプンツェル』('10)や『シュガーラッシュ』('12)の方が気に入っている。とはいえ、ヒットしている映画には何らかの普遍性があるのだろう。人びとはアナやエルサといった登場人物へ強く共感したからこそ、作品はこれほど広く受け入れられたはずだ。
『アナと雪の女王』で描かれるテーマのひとつが「解放」だ。氷や雪をあやつる魔法の力を持って生まれた王女エルサは、その秘密を知られないため、城に閉じこもっての生活を余儀なくされる。みずからに課された王位継承の役割を果たそうと努力する王女だったが、ほんらいの自分を押し殺して周囲の期待に応えることに疲れてしまう。そして、悲壮さと自己肯定の入り混じったテーマソング “Let It Go” にのせ、自己を解放して自由な生き方を決意することとなる。
劇中で明示されるように、王女の苦しみはこうした状況の不自由さにある。おそらく王女は、自分に求められる役割に敏感だったはずだ。王女とはどうあるべきかについて、人びとが無言のうちに期待する微細なニュアンスを感じ取っていただろう。まじめな子どもほど、大人の考える理想像を先取りして演じてみせることで、まわりを納得させようとするものだ。きっと王女は現実的な視点を持った女性で、社会とはさまざまな思惑を持った人たちの集合体であると理解していた。そして、幼いうちから現実に対応するべく、自分を抑圧していたのだ。だからこそエルサの苦悩は増大し、ある時点でぷつんと糸が切れてしまう。
僕はおそらく、王女のこうした苦悩が実感としてよくわかっていない。なぜなら僕自身、周囲の期待がまったく理解できない子どもだったためである。他の子どもが当たり前に察知する、場の空気がどうしてもわからなかった。そもそも現実を認識する能力がないため、どう行動すればクラスになじむのか、その規則性が見えないのである。
例を挙げれば、僕の通っていた小学校では、高学年になると、男子は普段からジャージを着て、頭は丸刈りにするのが一般的だった。中学では全員が一律で丸刈りにさせられるため、男子であれば小学4年生、5年生あたりの早い段階であらかじめ坊主頭にしておいて、見た目をなじませる方がいいとされており、小学校卒業の直前であわてて丸刈りにするのはみっともないことだった。ゆえに男子生徒はみな、アディダスやミズノのジャージを着込んで、いさぎよく丸刈りにすることで一人前となり、違和感なく場になじむことができる。そうした服装のコードや暗黙の了解がまったく見えていなかった僕だけが、最後までおかっぱ頭とコール天のズボンで通し、卒業式間近に坊主頭にして周囲にさんざんばかにされた。どうすれば場になじめるのか気づけなかったのだ。
『アナと雪の女王』が、現実の理不尽さに傷ついた繊細な女性を描いているとすれば、『アメリ』(’01)は、そもそも “Let It Go” する必要などいっさいなかった、ぼんやりした女性の苦悩を描いた作品だといえる。
エルサとアメリの経験は対極的だ。エルサは現実に早くから対面し、そこに自分を押し込めたことで苦しみが生まれるが、アメリは最初から自分自身を解放できてしまっているため、「ありのまま」であることをあらためて宣言する必要がない。アメリは誰の要求にも応えようとしていないし(彼女の両親は、娘への期待を早い段階で放棄してしまっている)、そもそも他者が自分に対してどのような役割を求めているのかがあまり見えていない。そしてこれら2作品は揃って、物語の中心にいる女性がいかに現実へ着地(エルサの場合は再着地)していくかを描く。誰もが等しく現実に対面しなくてはならないとすれば、それは早い時期に済ませておくべきなのか、先延ばしにした方がいいのか。かんたんには答えの出ない問題である。いずれの場合にも、苦悩は確実に訪れるのだ。
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