あれだけ嫌いだった『のど自慢』が、
道を拓くきっかけになるとは。
看板番組である『歌謡コンサート』への希望は通りました。なのですが、組織改編で歌謡コンサート班とのど自慢班が一緒になっちゃったんです。歌謡コンサートに行ったのに、結局また『のど自慢』やるんだって、もうそこでは笑ってしまいました。
ま、いずれにしろ目的が地位向上なので、仕事の内容は二の次……って思ってたんですが、ある番組を見てふつふつとディレクター魂が沸き上がってきました。それはのど自慢の海外ドキュメンタリーでした。
僕が広島にいた頃から、『のど自慢』は海外公演を行うようになってました。現地の日本人、移民の人々、海外の国の人々、もういろんな人が集まったスペシャルな『のど自慢』です。この海外公演では毎回舞台裏を映したドキュメンタリーが作られていました。それを見ちゃった。
作った人には申し訳ないんですけれど、どれもおもしろくなかった。僕が『のど自慢』をやっていてすばらしいなって感じる出演者のドラマが描かれてなかった。なんか現地の日本人会が紹介した成功者や珍しい人ばかりで。
もっと普通に暮らしている人こそドラマがあるものだし、それが『のど自慢』の本質です。結局、あんなに恥ずかしがっていたのに『のど自慢』を愛しちゃってたんですよね。『のど自慢』はもっと魅力的だって。
それでアルゼンチンでやるドキュメンタリーに手を挙げたんです。僕が初めて自ら「やりたい」って手を挙げた仕事でした。これをきっかけに人生が動き始めました。
アルゼンチンに出発する1週間前くらいに突然NHKスペシャル班から声がかかりました。『にんげんドキュメント』っていうゴールデンタイムに放送するドキュメント番組になることが決まったんです。
土曜のお昼に特番として流れる予定だったので、たいへんな昇格です。というのも「人モノ」としては、当時一番大きなドキュメンタリーだったからです。ただ視聴率が低迷してたらしく、軽いネタを探していたら『のど自慢』がアルゼンチンでドキュメンタリーを撮るらしいぞと聞きつけオファーがきた次第です。元々ドキュメンタリー志望の僕にとっては、こんな幸運はありません。提案を通すだけでもたいへんな枠をもらえるわけですから。
ロケは28日ぐらい。編集は5日。出来には自信がありました。東京に出稼ぎに出した息子を事故で亡くし、失意の中歌を歌えなくなった移民の女性。その人が息子の死を受け入れるためにのど自慢で歌う。その女性がメインのドキュメンタリーでした。
放送の前日に、NHKスペシャルと芸能番組の偉い人が勢ぞろいして試写が行われました。Nスペの事務局長が、みんなの前で「人間が描けていて素晴らしかった」って褒めてくれました。心からうれしかったです。意気揚々とドアの前で皆さまを見送りしていると、芸能の偉い人が立ち止まり「失敗だな」って言いました。一瞬、何て言ったのか混乱したことを覚えています。
そしてその夜、居酒屋に連れて行かれて大説教大会です。『のど自慢』は、あんな暗いもんじゃない。おまえはドキュメンタリーにかぶれて間違ってる。あんなんじゃ視聴率獲れないぞ!」って。僕は「間違ってない」と反抗しました。
そうしたらですね、放送されたらドキュメンタリーでは異常とも言える、17%の高視聴率を獲ったんです。他の部署からも、「あの番組良かったよ」って言いに来てくれる人も結構いたんですよ。「視聴率獲れないぞ!」って言った偉い人は、その日以降僕と口をきいてくれなくなりました(笑)
実績を作り、芸能番組部から新部署へと異動。
才能がないと退職まで考えたところから……。
意地になって、その後もドキュメンタリーの提案を出しました。NスペからGOが出た企画でも、要員不足を理由に拒否されました。レギュラー番組をやることが第一の仕事だと言われまして。
それで、僕もキレちゃって、他の部署への異動を探るんです。ですが、30歳を過ぎた新人はいらないと受け手もなく、悶々とした日々のなかある噂を聞いたんです。それが組織間を横断した新番組だけを作ることに特化した「番組開発部」という新しい部署でした。
「これだ!」って思い設立と同時に引き抜いてもらいました。実はそこのプロデューサーがたまたま同じ高校の先輩でした。しかも、芸能としてはいらない人材だったので、すんなり異動できました。「よっしゃ、これで自分の才能が発揮できる」と自信満々だったのですが、そこからが地獄でした。
まったく提案が通らないんです。これ地獄です。それまではレギュラー番組があったから、提案が通らなくても仕事はある。でも、番組開発は提案が通らなければ仕事がないんです。人間、暇なことがこんなに辛いのかと初めて感じました。企画は出しても出しても通らずに、結局、人の企画した番組の手伝いばかりしていると、如実に「才能がない」って言われてるような状態なんですよね。
1つだけお情けで通してもらった企画も、制作局長が偶然見てクソミソに言われて。もう無理だ、帰るところもない、俺はディレクターとして才能がないんだと思って辞めることを真剣に考えてました。海外旅行が大嫌いなのに、何か見つかるかもと思ってニューヨークにも行ってみました。もちろん何も見つからずに帰って来ましたけど。
帰って来て転職情報誌なんかに目を通してる時期に、大学時代の友人との飲み会があったんです。そこで、初めて人に「どんな番組を見たい?」って聞いてみたんですよ。それまでは、自分がおもしろいと思ったものを企画するべきだと思っていて、人に聞いたことがなかったんですよね。
そうしたら、友人が「俺らの大学時代にやってたみたいなシュールコントが見たい」って。一瞬「はっ!」としました。そのときは「NHKでコントは無理だなぁっ」て否定したんですけど、なんだかずうっと「コント」って言われたことが、心に残ってたんです。
今思えば、自分がテレビを目指したもう1つの番組『北半球で一番くだらないテレビ』が無意識に浮かんでいたんでしょうね。確かに、当時コント番組はあったにはあったけど、みんな賑々(にぎにぎ)しくてシュールではない。潜在意識が訴えかける状態。これが「直感」ですよね。常識では「ない」と思ってるのに、どこか心に引っかかるっていう。
そこで、次の企画会に2つ企画を出しました。「コント」と「全国の家族をクイズでつなぐ」っていう企画。家族クイズはすぐ却下。「あー、今回もダメか」ってときに、「コントか、いいねぇ」って、プロデューサーが言ってくれたんですよ。信じられなかった。だってコント企画ってほとんど書きようがないから、スカスカなんです。なのに「なぜ?」って感じで。
当時、笑いを作ることにまったく興味はなかったですし、お笑い番組や芝居も見てなかったんです。だけど、その引っかかった直感を信じ、自分がまったく興味がない分野で才能が花開いた。まさかそれから9年間もコントを作るなんて思いもしないし、映画まで作るなんてあり得ないことです。
繰り返しますが、NHKで稀有な番組と言われる『サラリーマンNEO』は、友人の一言がきっかけです。この体験が僕を変えました。以降ずっと直感を大切にし、変わることを恐れないと心がけてきました。
大嫌いだったはずの『のど自慢』で才能の一端が見え、新部署へとの異動を果たした吉田氏。退職寸前まで追い詰められながら、直感に従って『サラリーマンNEO』を生み出した。しかしそこで吉田氏の成長も成功も止まらない。
『サラリーマンNEO』を通じて獲得した発想法、個性論とは……。