なんとなく「いつも上機嫌で明るい=バカ」ってイメージがあるじゃないですか。
いつもムッツリして暗い人が、そういう上機嫌で明るい人を「馬鹿っぽい」ってけなしたりするのに、オレはずーっと違和感を持っていたんです。
明るくて楽しい人でい続けることって、そうとうな賢さと優しさがいると思うんですよ。知識や学問よりも、「人格」にはもっと高いレベルの知性があらわれると思いますしね。
もうひとつ、やたらといつも不機嫌で、その不機嫌さで他人をコントロールしようとする人っているじゃないですか。要は甘えなんですけど。
周りが自分の機嫌をとるのが当たり前で、そうしないともっと不機嫌になっていく人。オレはこういうタイプの人がすごく苦手なんですよ。こういう人が上司だったらホント厳しいですね。
そこで、最近読んだ斎藤孝さんの「上機嫌の作法」がまさにオレが求めていたものドンピシャの内容だったので紹介します。
本当に、あちこちに配ってまわりたいくらい良い本だな~、と思いました。
くよくよして、むっとして、無気力でいてなにか新しいものが生まれるでしょうか?
私には、不機嫌さは「なんらかの能力が欠如しているのを覆い隠すため」だとしか考えられません。
(中略)
不機嫌であることが、あたかも威厳があり、知的であるかのように思うのは大きな勘違いです。
また、不機嫌が許される例外として「赤ん坊」と「天才」をあげています。
基本的に、不機嫌でいて許されるのは、言葉で意思の疎通をはかることのできない赤ん坊だけだと私は思っています。泣いたりむずがったりすることでしか心身の状態を訴えることが出来ないのですから、やむを得ない。しかしそれも幼児期までです。
他に、「天才」とよばれるような特異な才能を持った人たちも、ある程度不機嫌さや変人差を世間が認めるとも書かれています。
ただ、これも時代が厳しくなって、天才ゆえの変人さはともかく「不機嫌さ」は許容されなくなってきているんじゃないでしょうか。
オレが子供の頃は、まだスターやスポーツ選手などの有名人に「不機嫌さ」が許されていたところがあったけど、今はカメラの前ではとりあえずしっかりした態度をとらないと批判されるでしょう。少し厳しいかもしれないけど、良いコトだと思う。
不機嫌な人を尊重するような社会を容認してしまっては、歯止めが利かなくなります。不機嫌というものは何の力でもないことをはっきりさせ、社会に認識してもらいたいと思います。
不機嫌にしていると周囲が気遣いをみせてくれるのは、敬意を払われているのではなく、ねぎらわれているのです。社会性がある成熟した人間として見られていないのだと気づかなくてはなりません。
人と一緒にいる間は、楽しい時間を過ごすようにお互い努力する、という暗黙の基本ルールが現在の二本ではあまり共有されていないと言っていいでしょう。場に対する責任感、当事者意識が希薄すぎる。その場は、自分を含めた一人ひとりのからだの延長です。場にいるものは、沈滞した空気に対して、当事者としての責任がある。不機嫌が平気な人というのは、自分の存在を相手に認めさせたいという自己中心的な考え方から脱却できていないのです。
このように、まず不機嫌を徹底的に否定したうえで、上機嫌がどれだけ素晴らしいか、どのような効果を自分と周囲と世間にもたらすかを説き、さらに「からだ」「時代」「スキル」といった様々な観点から具体的な「上機嫌になる方法」を探っていく本です。
さすがに齋藤孝さんの本で、芸能人からスポーツ、哲学や歴史、文学、それに身体の構造など本当にイロイロな話題をめまぐるしく展開させていきます。
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不機嫌をくせにして甘えてはいけない
で、「あとがき」がまたすごく良い。一章とあとがきを読むだけでも、そうとう意識を変えられると思います。
特に気に入ったのが以下の文章です。
私もそうでしたが、不機嫌は癖になります。なぜか。やり始めると結構快感なのです。他の人が気を遣ってくれるし、相手の不機嫌に対しても不機嫌で対抗すれば何も怖くないような気がしてしまう。さらにいえば、頭が働いてない状態でもごまかせる。不機嫌は甘い罠のようなものです。しかし、不機嫌は力にはなりません。自分には快感でも、他人は気持ちよくない、社会を不活性化する「不作法」なのです。
そう、「不機嫌でいることが心地よい」ってときも確かにあるんですよね。自分も経験がある。不機嫌が許されていると、それに甘えてしまうことがある。でも、それがどれだけ悪影響をおよぼすかってことに気づかなきゃいけないよな。
自分にも他人にも世間にも良い影響を与えることができるような人間になるためにも「上機嫌の作法」を身につけたいものです。
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