なんてーか
「他者次第」の夢は、持ってても仕方が無いというか、持つと苦しくなるだけなんじゃないか?もしかして。
他者次第っていうのは、たとえば「他者に認められたい」とか、「愛されたい」とか、「優越感ゲームで勝ちたい」とか「神!とか言ってチヤホヤされたい」とかそういうやつ。
いや、「他者次第」を完全に省くのは、社会ってのが他者ありきなわけだから、場合によっては難しいのかもしれないが(毎日筋トレ、などは完全に他者関係ないが)、要するにあまりに「他者」によりかかりすぎた目標はよくないつーか。
要するに自分の努力とか頑張りが、空回りする可能性が非常に高い。苦労の割に報われない。と思えば、他人がたいして苦労してもいないのにあっさりゲットしてしまうこともある。そういう類のものだから。要するに「運」みたいなもの。「他者」が絡むと、あんまり自分の努力って……関係ないとは言わないが、なんていうのか……「勉強」とかそういうものほどの、絶対性がない。
最近女性誌とか若い女性をターゲットにしたっぽい番組でも「愛され」って言葉が目に付くんだが、「愛され」ってかなり危険だと思う。他者が自分を愛するようになるか否かなんて、ぶっちゃけどうしようもないような所がある。それを「努力」しちゃう、「頑張っ」ちゃおうとする女性の姿勢(つっても例によってメディアが煽りまくってるだけで本当に世間がそうなってるかは疑問)は危険。
非モテもそれと似てる。(ここでは彼女を欲しがってる非モテに限定する)彼らが救われないのは、彼女を作ることに幸福・期待の重きを置きすぎてるから。片思いとかではだめで、彼女が欲しいってのは、結局これも「愛されたい」ってことで、多分非モテは「愛され」と言ってるような若い女性を嫌う傾向にあるんだろうが、結構この両者は似てる。どちらも激しい受身。激しいのに受身。ってとこが。
「愛されたい」ことに主眼を置くってのは、「他者の意思・意向」に主眼を置くってことだから、そりゃ、成し難い。それに努力も空回りしやすいし、そもそもどんな努力をすりゃいいのか、見当がつかない、ってことになりがち。(実際非モテは何をすればいいかわからないといっているパターンが多い)
非モテにどうしたら彼女ができるかアドバイスをしたりする人は多いけど、やっぱり結局は「他者の意向」を主においた「他者次第の夢」ってのは、ほとんど運任せにちかいものがある。
「愛されるためにどうすればいいか」なんて説いてる女性誌も非モテにアドバイスする人と同じ。
「彼氏の友達にいい女と思われるためにどうすればいいか」なんて事のために色々事前に策を練るなんてことが書かれたことがあった(のを、どっかのサイトで見た)が、(ココまで来ると普通の人にもちょっと異常さが分かるだろう)要するに彼彼女らの目標がそもそも「そんなことどうしようもない」レベルなのだ。
努力とかを説くのはかえって酷だ。結局「努力したけどダメだった、どうすれば」とますます落ち込んだり、あるいは「何故だめなんだ。相手に(この、『正当な』努力の跡を)見る目がないからだ」と怒ったりすることになってしまうだけだ。(非モテがそうした様子で女性に八つ当たりしているのもよく見かける光景だし、また女性が「ネイルアートなど、頑張っているのに男性が見てくれない!」と怒っているパターンも見た。どちらも不毛な怒りである)
結局のところ、全て自分の努力次第でどうにかなるわけではないってことである。そんな単純な事を、意外と忘れている人が多い。(運動のできる・できないなどの「能力的・才能的な観点」では、分かりやすさゆえか、皆すんなり諦めるのだが、こうした「他者次第の夢」という観点では一転して気付かない人が多い)
だから愛されor彼女作るためのアドバイスをするんじゃなくて、「夢がズレてる。夢を変えろ」と言ってやるのが優しさであると思う。
「認められたい」「愛されたい」「神と呼ばれたい」という、「されたい」欲求は他者依存している目標だ。
目標や夢は、「したい」でないと……いけないってわけじゃないが、多分、苦しいんじゃなかろうか。
「他人からどう思われるか」という所に重きを置くと、大変キツい。そのための努力はつかみどころがなく、環境や時代によりコロコロ変わるし、それでもって報われもしない。それでいて、あっさり他者が「そう」なったりする。ほとんど宝くじみたいなものだが、宝くじはもともと「そういうもの」だと皆知っているからそこまで落胆もしない。そういう態度が、他者依存している目標にも必要なんじゃないか。
「神と呼ばれたい」でなく「こういう作品を作りたい」だとか
って俺もそうだけど……今更だと思う人には本当「今更」な話なのかもしれない。