MoMAで開催の映画展で来米
現在、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催中の「1955〜1970/東京アンダーグランド展」(2月25日まで・国際交流基金共催)。そ の映画シリーズのオープニングに招かれた大林宣彦監督。自主製作映画の先駆者として、CMディレクターとして、日本の映像史を最先端で切り開いた監督に、 オープニングの翌日お話を伺った。 (聞き手・高橋克明)
芸術だけが世界を平和にもっていける
昨日の上映会、舞台あいさつでは満席のニューヨーカーに大歓声で迎えられていました。お気持ちはいかがでしたか。
大林 舞台あいさつ以上にね、セミナーの時の(観客からの)質疑応答が面白いですねぇ。映画は日本では、文化というよりはまだまだ芸能界の消耗品みたいなところがあるんですよ。こちらでは伝統的にもやっぱり文化であり、財産でもあるんですね。庶民、観客の間でも(その意識が)ありますね。だから、彼らと話すのはとても充実します。つまり「映画を語る」ってことが日本では(この作品が)「好き」とか「嫌い」とか、まあテレビ番組の延長レベルの話なんだけど、ここではしっかり研究をされていて、とても的確なクエスチョンがくるんですよ。普段、日本では出てこない質問も出てきたりしてね。自分にも刺激があって、とても知的で楽しいですね、うん。
監督とアメリカのつながりはとても深く、そして古いともお聞きしました。
大林 うん、あのね、僕初めてアメリカに来たのが1965年なのね。当時、日本は復興も終わり平和の真っただ中ですよ。で、(渡米して)ホテルでいきなり「Get Out Here , Jap!!」って言われたんです。(そのホテルマンの)親父がパールハーバーで殺されたんだ、と。で、追い出されて、仕方ないから野宿してねぇ。(笑)
最初の渡米がいきなり野宿になってしまったんですね。
大林 そう(笑)。そして野宿をしながら最初にハリウッドに行きました。当時はハリウッド・ブルーバードにヒッピーが出始めたころで、みんなギター弾いて、ブルージーンズにTシャツでね。当時の僕たちから見たらTシャツなんて下着ですよ(笑)。それで「花はどこへ行った(※注)」なんて歌ってね。
60年代、まだ日本人は珍しい時代ですよね。
大林 そうそうそうそう。ほとんどいないし、いたとしても日本人ってみんな靴が汚かったんですよ。日本の道路がまだ舗装されてなかったから。だからホテルのベッドルームに靴のまま入るなんて考えられなかった。ハリウッド・ブルーバードなんて舌で舐めてもいいくらいキレイでしたよ(笑)。だからね、タクシーから靴を脱いで降りたの覚えてますねぇ(笑)。それで、ふと見上げたらビルボードに「NOBUHIKO OBAYASHI」って僕の名前が書いてあったんです。たまたまLAとサンフランシスコで「ジャパニーズアンダーグラウンドムービー」というフェスティバルをやってくれてたんですね。で、ニュースペーパーで記事にもなってたりして。
大林 ええ、知らないで来たんですよ(笑)。知らないで来たらみんなが「OH! オオバヤシ、オオバヤシ」って歓迎してくれて。うれしかったですねぇ。ホテルではいきなり「Get Out Jap !」でしょ。同時にハリウッドでは僕の映画が歓迎されていた。だからアメリカは最初から強烈な印象で残ってますね。
そこから東海岸にも来られましたよね。ニューヨークでの特別な思い出とかはありますか。
大林 遠かったねぇ。当時は(LAから)乗り換えないとニューヨークには来れなかったんだけど、一番印象的だったのはね、デモに遭遇したことですね。日本のデモっていうとわれわれ、安保の世代だから大騒動をイメージしちゃうでしょ。でも、こっちはみんながアメリカ国旗を掲げて静かに歩いてる。近づいてよく見ると「NO! MADE IN JAPAN」って書いてある。つまりトランジスタラジオをはじめ、ちょうど日本製の物がアメリカで評判になり始めたころで、いつか日本人にこの国は経済的占拠されるぞ!って感じ始めてたんですね。
60年代後半の不買運動のデモだったんですね。
大林 僕らはそんなこと知らないからビックリしちゃって。それまではね、ハリウッド映画を見ていてモノが壊れると「それ、MADE IN JAPANか?」って定番のギャグがあったくらい日本製品は粗悪品ってイメージだったの。それがそのトランジスタラジオをはじめとして、日本人はすごい能力があるっていうことを認められ始めたころだったんですねえ。だから60年後半から70年代前半くらいまでのニューヨークは、誰もが日本人は素晴らしいと言ってたたえてくれた時代ですよ。そこからですよ、エンパイア・ステート・ビルやロックフェラー(センター)を買収し始めて、日本マネーがニューヨークを占領するってことで、(先のデモのように)日本の評判が悪くなったのは。それまでは本当に日本人が尊敬された素晴らしい時代でしたよね。
アメリカには、一番いい時代のいい思い出しかない、と。
大林 70年代いっぱいまでは、青春も含め僕にとってのアメリカは表現者として一番「近い」国だったですねぇ(しみじみ)。ここで映画監督として認められるまで、日本で本格的に映画を撮ろうなんて思いもしなかったですから、ええ。今回、MoMAで上映してくれる作品も、そのころの作品ですからね。日本では逆に誰もが忘れてるような半世紀も前の作品でしょ? それを今回上映してくれるっていうからね、この街ではまだ息づいてるんだなって。歴史になってるんだなって。日本じゃとっくに忘れられてるオールドマンだけど(笑)、ここではアーティストとして迎えてくれる。僕の青春はここに来ればまだあるわけです。
初期の作品である「HOUSE」は、この街の単館系の劇場ではことあるごとに、よく上映されています。
大林 そうらしいですね。あの作品だって、彼らが「新しい映画を見つけた!」と20代の監督を想像して、会ってみたら70過ぎの僕だった、と(笑)。日本では「こんなもの映画じゃない」って散々バカにされた作品ですよ。それがこっちで今になって評価されてる。でも僕にとっては当然のことであってね。時間はかかりますけどね。今回、僕を招待してくれたビデオ会社の人たちが、僕の子供の世代でしょ。息子の世代がなんの違和感もなく日本映画を、それも日本人も知らないような作品を見つけては喜んでる。こちらには若者の一つのカルチャーとして受け入れられる土壌がすでにあるってことですよね。なので若い監督はますますこっちに出てくるでしょうね。すでに僕の後輩もずいぶんこっちで映画を撮ってるしね。本当の意味でこれから日本映画は国際的になるんじゃないですか。うちの娘なんかも「日本で撮るよりは、パパ、アメリカで撮ってるほうが幸せなんじゃない」って。(笑)
大林 当時はハリウッドのスタッフだけでなく同時にアンダーグラウンドの連中とも親しくなってねぇ。ある日、同じクルーのスタッフたちが「今日はハリウッドのジュニアたちが遊びに来るんだ」って。「連中、映画作ったらしいんだけど、編集ができねえらしいからオレたちがやってやるんだ。おまえも来るか」って。行ってみたら、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーとジャック・ニコルソンなんかがいて。
えっ…!
大林 当時、ピーター・フォンダなんて「あぁ、おまえがヘンリー・フォンダの息子か」ってなもんですよ。デニス・ホッパーなんて、「おまえが、このあいだジョン・レノンの映画で撃ち殺された奴か」ってね。ジャック・ニコルソンなんて誰も知りませんよ。(笑)
えっ…!
大林 で、連中、金もないんで、ワゴン1台借りてきて、モニュメントバレーをカメラ1台で撮ってきたはいいけど、編集する技術がない。で、手伝ってでき上がった映画が「イージー・ライダー」。
えっ…! アメリカンニューシネマを代表する作品ですよね。
大林 結果そうなったんですがね。当時の連中はただのはみ出し者で、ハリウッドに頼めない。頼むととバカにされるってんで、アンダーグラウンドの僕の知り合い連中に頼んできたわけですね。
スゴイ話ですね…。そんな監督の当時、一番思い入れのあるアメリカ映画はなんでしょう。
大林 あのね、当時のニューヨークは大変危険な街で、夜は決して出歩いちゃいけないという時代ですよ。でもこっちが危ないと思ってるなら、むこうも危ないと思ってるってなもんでね(笑)。結局、夜中に五番街とか歩いちゃうわけ(笑)。で、歩いてたら夜中なのに大きな明かりがついた建物がある。見ると映画館の周りに50人くらいの人がぐるっと列を作ってるんです。当時といえば犬の死体は転がってるは、新聞は舞ってるわ、ねえ、スラムですよ(笑)。ところがそのスラムの真ん中に明かりが点った映画館があって、上映している作品が「Love Story」。
「ある愛の詩」ですね。
大林 そう。フランスのロマンチックな音楽家をハリウッドが雇って、あの甘い音楽が流れるラブストーリーですよ。それに50人くらいが映画館の周りを巻いてる。そんなにヒットしてるなら観てみようと並んで、ようやく館内に入ったのは夜が明けてからですよ。入ってみたらね、もうビックリして。みんな足を踏み鳴らすは、手を叩くは、口笛を吹くわ、良家の子女から、ベトナム帰りの兵隊から、ありとあらゆる客層があのファーストラブを大笑いして観てるんですよ。
はい。(笑)
大林 つまりね、アメリカが初めてベトナムというひどい戦争を経験して、当時、ニューシネマのようなアングラでダークサイドな映画が主流になっちゃってたんですね。そんな時代の「Love Story」でしたから、もう違和感もいいところ。悲しいはずの映画なのにボロボロ涙流しながら大笑いして観てる。「あぁ、映画の中くらい臆面もなくアイラブユーって言えた時代は良かったね。そんなアメリカはどこ行ったんだい?」笑い声が僕にはそう聞こえてね。アイラブユーをギャグのように笑って観られる時代が来たんだなって。だからあれは大変なエポックメーキングな映画だったんですね。
なるほど。
大林 これが大ヒットしたおかげで、そのあとすぐ「ロッキー」ってのが出てきた。「ロッキー」がなぜ成功したかというと、これもラストシーンで叫ぶでしょ「エイドリアン、アイラブユー」って。アイラブユーを映画のラストシーンに持ってきたのはハリウッドではあれが20年ぶりですよ。「ロッキー」が興行的に成功したのは「Love Story」が成功したからなんです。
「ある愛の詩」と「ロッキー」がつながってるなんて面白い話です。
大林 つながってるんです。ある国じゃ悲しい映画が、また違う国だとわっはははって大笑いさせる。同じ映画なのにアメリカで観るのと日本で観るのとでは全く違うって面白さね。それを知れたのも僕の財産。さっきの「イージー・ライダー」だって、当初、“ハリウッドのニューウエーブが来た”って触れ込みで、日本人みんな緊張して襟を正して観てたけど、こっちでは仲間同士がオトモダチ感覚で「おまえ編集できないなら、オレがやってやるよっ」って、みんなでタバコこうやって吸いながら、遊びながら作ってたんですから。(笑)
面白いです。監督は日本のテレビコマーシャルで初めてハリウッドのスターを起用したことでも有名ですよね。それ以降、日本のCMでは当たり前のようにハリウッドスターが出演するようになりました。
大林 あれはねぇー。実はコマーシャルっていうより、僕たちにとっては「アメリカ映画ごっこ」だったのね。当時はまだ日本映画がアメリカと合作するなんて考えられもしなかった時代ですから、CMならハリウッドスターを使えるぞってね(笑)。僕が撮りたかったんです、どうしても。
企業のお金を使って、監督個人の夢を実現しちゃえと。(笑)
大林 そう、そう(笑)。70年代だったかな、当時のCMは3分間ありましたから。ブロンソンなんて喜んでねぇ。「これはある意味、3分のショートムービーだ」って。「オレの初主演映画だ」って(笑)。だから、彼は一生懸命でしたよ。
チャールズ・ブロンソンを起用した(化粧品)「マンダム」のCMのフレーズは流行語にもなって、いまだにみんな覚えていますね。
大林 僕たちも「ここでは君のやりたいことをなんでもかなえるから」って言ってやってね。そこから、彼は国際的なスターになったわけですから。日本のCMからですよ。本当は馬にも乗れなかったのにね。
え! CMではさっそうと乗馬していた記憶がありますが…。
大林 乗れない、乗れない(笑)。乗るには乗るけど、走れない。へったくそなんです。でも下手でもいいんです。ハリウッドスターは危ないことしちゃいけない。こっちでうまく編集すればいい。(笑)
他にもさまざまなハリウッドスターを起用されていらっしゃいました。
大林 ブロンソンから始まってね、カーク・ダグラス、デビッド・ニューマン、ソフィア・ローレン、キャサリン・へップバーン、それにアイススケートのジャネット・リンに、あとはリンゴ・スターとかね。
そうそうたる顔ぶれですね。リンゴ・スターなんて、当時の日本人にすれば…。
大林 うん、神様(笑)。彼を起用するなんてとんでもないって感じだったけど、僕らにとってはディレクターとアクターって関係だったので面白かったです…。うん、やっぱりアメリカは青春時代そのものでしたね。
監督の作品は、ある意味日本以上にアメリカでの評価が高いと言われています。それをご自身で分析されたことはありますか。
大林 それはね、(本当の意味での)「ハリウッドムービー」っていう、一つのシンボルを目指して作ってきたからだと思います。ハリウッド映画ってアメリカ映画である以前にヨーロッパの移民が作ってきた映画なんですよ。第1次世界大戦で傷ついた人たちがアメリカに夢を求めてやってきて「これで自由だぞ!」って思いをそのままフィルムにしたのがハリウッド映画なんですね。アメリカだけでなく、アメリカを越えて世界を見せてきた。僕らはその子供なんです。そういった意味でも「ハリウッド映画」は、なんといっても憧れの夢の向こう側でした。ニューシネマっていうのは、逆にそこからアメリカ(だけの)映画に戻っちゃったんです。
世界を見せてきた流れが、アメリカだけを見せる流れに変わってしまった、と。
大林 その通りです。それまでのハリウッド映画は本当の意味で世界の映画だった。なので、僕たちは当時「HOUSE」を作って「本当のハリウッド映画ってこうじゃないか」ってことを見せたつもりなんです。
ニューシネマでなく、その源流をくむ作品だったんですね。ニューシネマをハリウッドと思っていた当時の日本の評論家には評
価されないはずですね。
大林 僕が作った作品は日本映画じゃないみたいな面白さがあるってこっちのファンには昔からよく言ってもらいますけど、これはそういった理由からだと思いますね。
今回、一番お聞きしたかったことなのですが、映画という文化が、政治や経済に比べ、世間ではどうしても下に見られがちになってしまっているのではないか、ということなんです。これは日米共通して、そう感じてしまいます。監督のご意見はいかがでしょう。
大林 僕は芸術家だから芸術の話をしますと、芸術というものはやはり役割があってね、政治や経済でできないことができるんですよ。というのは政治や経済は必ず戦いますから。競争社会の中にある限りは、突き詰めると戦争になっちゃうんですね。芸術だけが平和の方向に行ける。みんな考え方が違い、自分と考えが違う人をいかに愛するかが芸術の本質でしょう。政治や経済は考え方が同じ中で勝つか負けるかだから戦争になっちゃう。だからこそ、芸術的に生きる。政治も芸術的にやる。経済も芸術的になったら、どんな素晴らしい社会になるだろう。そういう意味でも芸術はジャーナリズムだと僕は思ってるんですね。優れたジャーナリズム。平和に向かうジャーナリズムだと思うんです。
なるほど。最後に海外、特にアメリカに住む日本人にメッセージをいただけますか。
大林 日本人は戦争の痛みを知っていますから。負けたというね。戦争は勝っても負けても人を不幸にするものなんです。だけど勝った方はそれに気付かない。日本は負けた経験をした貴重な国なんですね。やはり戦争の痛みを知っている国民が痛みから学んだことを表現する、それがアーティスティックな表現だと思うんです。アートとは痛みを癒やすコミュニケーションだから。だからアーティストたちは、いや、政治家も経済家も、芸術家のように生きてほしい。それこそが、痛みを知っている敗戦国民の生き方だろうと思うんです。そんな生き方が日本人の国際的な役割じゃないかなって思うんです。
大林宣彦(おおばやし のぶひこ)
職業:映画監督
1938年広島県尾道市生まれ。3歳の時に自宅で出合った活動写真機で、個人映画の製作を始める。64年ころからテレビCMの制作に携わり、2000本以上もの作品を生み出す。77年に公開された「HOUSE/ハウス」で劇場映画に進出。以後、数多くの作品をコンスタントに発表。なかでも、故郷で撮影された「転校生」(82年)、「時をかける少女」 (83年)、「さびしんぼう」(85年)は〝尾道三部作〟と称され、多くの映画ファンたちに愛され続けている。第21回日本文芸大賞・特別賞を受賞した「日日世は好日」など、著書も多数。2004年春の紫綬褒章、09年秋の叙勲で旭日小綬章を受章。独特の語り口でも知られ、近年は講演活動やコメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌やネットインタビューなども多い。
(「WEEKLY Biz」2013年1月1日号掲載)