産直を通じて安全で安心な食材をお届けする神奈川県の生協(coop/コープ)です。

ニュース

「2010 ヒロシマ・ナガサキ平和スタディツアー」が開催されました
 

パルシステム神奈川ゆめコープでは、神奈川県内の他生協とともに、戦争も核兵器もない平和な社会の実現と、被爆者支援のための平和活動に取り組んでいます。この活動の一環として、毎年、神奈川県生活協同組合連合会とともに「ヒロシマ・ナガサキ平和スタディツアー」を開催しています。8月4日〜6日に、「ヒロシマ平和スタディツアー」と「ヒロシマ子ども平和ツアー」が、8月7日〜9日に「ナガサキ平和スタディツアー」が行われました。

「ヒロシマ子ども平和ツアー」報告
                                               
小・中学生14名の参加者とともに大学生ボランティア・スタッフの総勢27名で広島を訪れました。

一日目、原爆ドームを訪れたあと、市民交流プラザにて『朗読と被爆の証言』に参加し、小学2年の時に被爆した幸元省二郎さんの証言を聞きました。「お寺の下敷きになりはい出してまわりを見た時、あるはずの建物が何もなく、生きている人々はまるでお化けや幽霊に見え、この光景は衝撃的で、子どもの私にはどうして?何が起こったのかわからなかった。たった一つの核により、すべてを破壊され家族を無くしたむなしさ、くやしさは決して忘れない。けれど人間は前を向いて生きていかないといけない。戦争はいろんな人、心を傷つけてしまう。」と、子どもたちに命の大切さを話して下さいました。その後、グループごとに平和公園内の碑めぐりを行いました。


原爆ドーム前にて

原爆の子の像
二日目は、広島港へ向かい、フェリーで20分の似島(65年前の似島は軍の検疫所だった為、薬品類が備蓄されていた)で「似島少年少女のつどい」に参加しました。原爆投下後、おびただしい数の被爆者が広島市内から船で運ばれ収容された似島。暑く、苦しく、長い道のりを歩く当時の様子や救護活動を追体験しました。まるで昨日の出来事のように、泣きながら自らの体験を話す被爆者の姿に、参加した子どもたちも衝撃を受けていました。
「広島平和記念資料館」で被爆の遺品や資料などを前にすると、似島での疲れも忘れ、真剣な顔で見入っていました。原爆の悲惨さを感じる一日となり、夜のミーティングでは、昨日までとは違った感想や意見が出されました。

三日目、平和記念式典に参加。米国が投下した一発の原子爆弾に焼かれてから65年。核兵器廃絶の実現を願う国際機運の高まりを反映し、式典には国連の潘基文事務総長、原爆投下国である米国政府代表としてジョン・ルース駐日大使、英国・フランス・ロシア・パキスタンなど、核兵器保有国の代表の参列がありました。
その後、「原爆の子の像」で知られる佐々木貞子さんについて、同級生の川野登美子さんに当時の貞子さんの様子や、「原爆の子の像」が建てられるまでのことを聞きました。 「病室で1000羽鶴を折ると願いが叶うと、鶴を折りながら亡くなった貞ちゃんの想いを残そうと、中学生が団結し全国の中学生に募金を呼びかけ、当時のお金で540万円(現在で5400万円)の募金が集まり『原爆の子の像』ができました。」と涙ながらに語られました。

似島のフィールドワーク

被爆者の悲惨な体験を聞く

3歳で被爆した「サダコと折り鶴の話」

「ヒロシマ平和スタディツアー」報告


一日目、被爆の証言を聞き、平和公園内の碑めぐりを行いました。二日目は、日本生協連主催の「虹の広場」に参加しました。「虹の広場」では神奈川県内の平和活動として、米軍基地の状況の展示、冊子「おやこで学ぶ神奈川のへいわ」の販売をしました。虹のステージでは、秋葉忠利広島市長の挨拶に続き、竹本成徳氏(元日生協連会長)の被爆の証言「最後のトマト」を自身のことばで伝えられ、強い意志が感じられました。広島平和記念資料館では、碑めぐりで聞いたことを実際に目で確認することができ、より深く実感できました。三日目は平和記念式典に参加し、市民交流プラザにて「サダコと折り鶴」の話を聞きました。

百聞は一見にしかずといいますが、実際に原爆ドームを目の当たりにすると、その姿に圧倒され、今は静かに流れている川にたくさんの遺体が浮かんでいたことを想像すると胸が詰まりました。昨日のことのように話す被爆者の証言からは、その衝撃の凄まじさや、原爆を風化させてはいけない、後世に伝えていかなくてはいけないという思いがひしひしと伝わってきました。

「ナガサキ平和スタディツアー」報告

最初に、日本生活協同組合連合会主催「NPT再検討会議を終えて、私たちにできること」に参加しました。現時点での私たちの立ち位置や課題について学習し、核問題は生活に直結したひとり一人の問題であるとの意識を持つことが大切と、改めて感じました。
その後、被爆者の証言を聞きながら、原爆落下中心地碑をめぐり浦上天主堂へ。原爆により一番被害を受けた浦上地区は歴史的にカトリック信者が多く、キリスト教徒受難の歴史が被爆の捕らえ方にも重なって、ナガサキでは「原爆殉難者」と呼ばれる理由が少し理解できました。そして、原爆資料館を見学し、人類と核兵器は共存できないことを改めて実感しました。
「虹のひろば」にも参加し、高瀬毅さんの講演で、被爆した旧浦上天主堂の廃墟が戦後13年目に取り壊されてしまった経緯について、写真スライドにより説明がありました。歴史は語り続けないと、なかったことになってしまう、語り続けるためにも戦争の傷跡(戦跡)は保存すべき、との視点は大切だと思いました。  
平和記念式典では世界中の市民が参加し、特に若者が多く、熱心に聞き入ってる様子が印象的でした。長崎の現地の方の被爆証言の重要性を改めて感じ、語り継ぎたいという思いで横浜に戻ってきました。

原爆投下により、多くの人が苦しみの中で亡くなり、生きて苦しみを乗り越えてきた人々にも、いまだに核の影響で苦しんでいるという事実をそれぞれのツアーで知り、今の平和な生活に感謝し、被爆体験を風化させないため、伝えることの大切さを再確認しました。
今後も当組合は、戦争も核兵器もない平和な社会の実現のため、平和の取り組みを続けていきます。