風72 あの右手と左手をさがしているんだ
あの右手と左手をさがしているんだ
~終わりで始まりのヒロシマ修学の旅~
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がんばれ がんばれ
みんなで がんばろう
右手と 左手に ぼくらを はめて
ソウチという 男の子は 毎日 がんばっていた。
板を はこんだり 柱を ひきたおしたり・・・・・・
でも それは むだな しごとだった。
なにかを つくるんじゃなくて ヒロシマの
たてものを つぎつぎと こわしていったんだ。
せんせいたちと ヘイタイたちは こういっていた。
「テキは これから 爆弾を いっぱい おとすだろう。
そうしたら 大火事に なりかねない。
そのまえに 家も 店も どんどん こわさなきゃ」
1945年 8月6日も ソウチくんの 学校の
みんなは あさから しごとを やらされていた。
センセイが いっていた 「爆弾」とは ちがう。
原子爆弾が ピカアアアアアッと おとされた。
たった いっぱつの
ほんの 1キログラムの
ウランが はじけて まちを ぶっこわした。
がんばろうと したけど ソウチくんは
その日から あと 1日しか いきられなかった。
ぼくらは いまも あの右手と
左手を さがしているんだ。
(『さがしています』作 アーサー・ビナード 写真 岡倉禎志 童心社 2012年)*原文の漢字には、ルビがふられている。
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10月25日(木)、広島に到着したぼくたちはそのまま平和記念公園にある広島平和記念資料館に向かった。館内は動くのも困難なほど見学者でいっぱいだった。展示物もなかなか自由に見ることができない。この日は、「原爆の子の像」の佐々木禎子さんの命日に当たるということで、平和記念公園の見学者が増えている、と添乗員の中村友昭さんに後で聞いた。外国の人たちの見学者もたいへん多かった。ヒロシマの地に小学生・中高生、外国人がたくさん訪れている、ということは嬉しいことではある。
冒頭のアーサー・ビナードさんの詩を知ったのは、広島修学旅行に向けての『トッピクス』(国語の授業)で図書の渡邉春菜先生がこの写真絵本を紹介してくれたことからだ。春菜先生は、「ただ単に「見た」「聞いた」ではなく、感じたり、想像したり、時間や空間をこえて様々な人に思いをはせる、そんな修学旅行にしたいと私は思っています」と絵本紹介の意図を話していた。また、『さがしています』の作者「アーサー・ビナードさんはそれらの「ものたち」を「カタリベ」(語り部)と呼びます。・・・修学旅行で出会う「カタリベ」たちの声に耳を傾けたいと思っています」と呼びかけていた。
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『トピックス』では吉永小百合さんが原爆詩の朗読会で朗読する12編の詩のいくつかを学ぶ。詩のよみとりも言ってみればことばから情景や情感を想像していくものであるが、ものたちが語り部になるという手法はほとんど考えたことがなかった。資料館で展示されているものはまさに「もの」が圧倒的に多く、その「もの」も原爆被害に遇ったという思考しかなかった。展示品として有名な焼け焦げた三輪車がガラスケースにあるが、これも「もの」が被害にあったという感覚でずっと見ていたような気がする。『さがしています』の詩を読んでからは、乗っていただろう幼児のこと、あるいは持ち主の幼児のことを想像するようになった。その幼児が、その父母がどうなったのだろう、という想いをはせた。
焼け焦げたお弁当箱もその弁当箱を食べようと鞄に詰め込んだ建物疎開の動員学徒やお弁当をつくった母のことも考える。被爆直後、避難する人びとを撮影した写真(「御幸橋西詰」は、「松重美人氏撮影/中国新聞社所蔵」)が展示されていた。写真の中のかたまった一群、人びとの髪、裸足、気遣う手などに目が行く。この人たちは放射線を浴び、どうなっていったのか、そして一枚の写真のこちら側、撮影者のことにまで想いは届く。
かなり前、広島に向かう修学旅行の新幹線の中で読んだ本のことも浮んできた。「それは、「原爆の終焉-原民喜から林京子へ」における林の小説作品『友よ』についての文章である。林は女学校のとき長崎で被爆した。/「『友よ』(七七年)の中田は三十二年後の追悼式が終わったあと、城山小学校の講堂の壁にはられた写真を見た。一枚の写真のなかで自分の家が燃えていた。母と姉はこの家のなかで死んだのだ。母と姉がこの家のなかにいて今死につつある。それを三十二年後に確認する残酷さに中田は耐える」(川西政明『小説の終焉』岩波新書)。
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一日目の夕刻、被爆証言を聞いた。証言者の幸元省二郎さんは現在75歳。小学校2年生の時に被爆された。証言のなかで何度も、「何が起こったのかなんにもわかんないんだよ」「どうしてこうなるのかわからないんだよ」ということばが枕詞のように使われた。幸元さんは高学年が学童疎開でいないなか、学校は閉鎖され、授業はお寺で行われていた。日常は朝早く行って戦争ごっこなどに興じていたが、この日も早く行き、たまたま本堂の机で準備していた時に8時15分を迎えた。「なんだかわかんないんだよ、ピカッと光りを感じてものすごい音がして飛ばされた。お寺の中にいたので大丈夫だった」と語る。その後も母親、姉の行方を捜して歩く。「川の土手にたくさんの人がボロボロになって座っている。川にはいろいろなものが流されてくる。死んだ人も。なんでかわかんないんだよう」と。高学年、中学校へと進むうちにピカッの爆弾が、原子爆弾であって、何故それが広島、長崎に落とされたか知るようになる。それからは、「なんでだろう」ということなく真実を知るために生きていく。被爆者がさまざまな差別を受けていたとき、幸元さんは被爆のことを親しい友人に告げる。やがて結婚。子どもが生まれたとき、奥さんから「ちゃんと付いていますか?」の必死の問いかけに、「ちゃんと付いている。男の子だ」と答えたことを現在も奥さんの苦しみを理解していなかった、と悔いている。原爆で放射能を浴びたことで、子どもが五体満足に産まれてくるか、ずっと心に秘めていた奥さんの苦しみや不安のことを。
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二日目の午前中は、平和記念公園の碑めぐりであった。子どもたち一グループ9人に一人の「被爆証言の会」の人たちに案内していただいた。私たちは三登浩成さん(66歳)に案内していただいた。三登さんは胎内被爆の被爆二世であった。元高校教師で英語を教えていた。今ではほとんど毎日、平和記念公園に立ち、外国人観光客に原爆のこと碑のこと核兵器のことなどについてボランティア案内者としてヒロシマを語り続けている。
三登さんは公園の原爆ドームすぐ東隣の西蓮寺に案内してくださった。ここには被爆地蔵があり、爆心から80mのほとんど直下にあったもので、石英質の石であったため、4000度の熱線を浴びた部分は石英が溶けてざらざらとなり、直接浴びなかった側面などはツルツルの状態であった。被爆の墓石も上の部分はざらざらで、側面はツルツルの状態であった。子どもたちもぼくも手で触って熱線の痕を確かめた。
原子爆弾は「島外科の上空約550mで爆発した」とあるけれど、それはどうやってわかったのでしょうか」と三登さんに問われた。爆心地の認定や爆発の高度は、被爆後の建造物や墓石などに残る熱線の痕や熱線による陰の角度を数か所から割り出し、線引きして交わったところから、空間の位置=爆心・爆発高度を認定したという。三登さんは子どもたちとの別れ際、「核と人類は共存できない」ということをメッセージとして語られた。
修学旅行の最後の解散場所で学年の先生たちに求められて子どもたちに話をした。「・・・みなさんは広島や大久野島で人やものや歴史に出会いました。出会って考えたこと感じたことをしっかりとまとめてほしい。修学旅行は終わりましたが、一人ひとりが考えたこと感じたことを交流したり、伝えていったりする活動はこれから始まります。修学旅行での学びは、終わりで始まりということになります」と。6年生がこれからの伝え、交流する始まりを期待している。
*平和記念資料館の展示物の写真「福助人形」「三輪車」「弁当箱」「折り鶴」は写真キャプションに「寄贈者」を明記し、「8時15分の時計の前」「パノラマの写真」(2枚)は、「展示風景」として広島平和記念資料館から承諾されています。広島平和記念資料館のご厚意に感謝します。
*また、「御幸橋西詰」の写真(ホームページ掲載写真の上から9番目)は、「松重美人氏撮影/中国新聞社所蔵」です。中国新聞社のご厚意により掲載の承諾をいただきました。感謝いたします。
(2012年11月4日 武藤 昭)