東京レター
東京で暮らす外国人たちが、手紙スタイルでつづる「東京生活」
【社会】<伝言 あの日から70年> 集団自決 サイパンから
ちょうど七十年前の六月十五日、米軍は日本の委任統治下にあったサイパン島の南西に上陸し、圧倒的な兵力と最新鋭の武器で大地を焼き尽くした。当時、日本からの移民は二万人以上。半月余で日本軍が壊滅状態となる中、北端のマッピ岬に追い詰められ、大勢の人が自ら命を絶った。その後、米軍の進攻とともにグアムや、沖縄へと連鎖していく民間人の「集団自決」の始まりだった。 (安藤恭子) 「死ナナイデ、クダサーイ」。海上の艦船からマイクで投降を呼び掛ける米兵の声が響いていた。十四歳だった杉浦昭子さん(84)=東京都八王子市=は一九四四年七月十二日朝、父と弟と手をつなぎ、波が激しく打ち付けるマッピ岬の崖に立っていた。 米軍上陸の二日前から、島中部にある繁華街のガラパンから家族で北へと逃げてほぼ一カ月。ジャングルをさまよう中、母は砲弾で死んだ。水も食料もとうにない。 「皆で母さんの所へ行こう」。父の言葉を合図に、不思議と静かな気持ちで数十メートル下の海面へと落ちた。「天皇陛下、万歳」と言って多数の日本人が飛び降りたことから、崖は後に「バンザイクリフ」と呼ばれる。 ■ ■ また人が降ってくる。多い時は十分おきに。十二歳だった上運天賢盛(かみうんてんけんせい)さん(82)=那覇市=は同じ頃、崖の下で落ちてくる人を眺めていた。家族とはぐれ、一緒にいたいとこも爆風で死に、独りだった。 日本人を救助する米艦船が何隻もいたが、投降する気はない。「生きて虜囚の辱めを受けず」。小学校でたたき込まれた戦陣訓だ。それに「鬼畜米英」は子どもを鉄砲の的にしてフカの餌にすると聞いた。 海岸線は死体の血で茶色く濁っていた。「自分もいずれこうなる」。哀れとは感じなかった。 ■ ■ その一カ月後の八月、十五歳の横田チヨ子さん(85)=沖縄県宜野湾(ぎのわん)市=は死ぬため、崖の東側に広がる遠浅の海に入った。一緒にいた義姉は、幼いめいの口をふさいで窒息死させた。日本兵に「泣く子は殺せ」と言われていた。 鼻や口に入る海水が苦しくて、浅い方へ泳いでしまう。「(真)水をおなかいっぱい飲んでから死のう」。海上で義姉と話し、疲れ果てて陸に戻った。 ■ ■ 今年五月、上運天さんと横田さんは、七十年前に死線をさまよったマッピ岬に立った。 ■ ■ 七十年前に血に染まった場所には、朱色の火炎樹の花が咲いていた。 今年五月、サイパン出身の引き揚げ者団体「南洋群島帰還者会」の慰霊祭が、サイパン島北部スーサイドクリフ(自殺の崖)下の「おきなわの塔」で営まれた。サイパン戦で亡くなった日本の民間人は約一万二千人。父と兄、三歳のめいを亡くした横田チヨ子さん(85)=沖縄県宜野湾市=は手作りの煮物や餅を供え、上運天賢盛(かみうんてんけんせい)さん(82)=那覇市=が吹くハーモニカの音色が山あいに響いた。 サイパンは南洋興発の製糖業で栄え、移民の七割は貧困にあえいだ沖縄からだった。 一九四三年、日本の敗色が濃くなると「絶対国防圏」として兵力が増強され、島東部のチャッチャにある横田さんの家の畑にも、日本兵がテントで寝泊まりするようになる。翌四四年六月十五日、米軍が上陸。卒業後、ガラパンで歯科助手をしていた横田さんは、チャッチャに戻り家族と北へと逃げた。「当初は楽しかった」。撃たれて湧き上がる足の痛みで、戦争の本当の恐ろしさを知るまでは。山中で、何日も水が飲めずに体中が熱くなった。 日本軍が壊滅状態となったことも知らず、木の下に隠れていた八月の昼、脇腹に銃弾を受けた。「そんな所にいるからだ」。心配して駆け付けた兄は、迫撃砲を三発撃ち込まれて死んだ。次の日には父も腕のけがが悪化し、動けなくなった。 大工だった父はよく「学問は大事だ。ヤマトンチュ(本土の人)にばかにされず、机の上で仕事ができる」と話していた。沖縄出身者には標準語が話せない人も多かった。日の丸に包んで持ち歩いていた横田さんの学校の表彰状や感謝状を渡し、「沖縄に持って帰れ。結婚して生まれる子どもに、勉強していた証しとして見せてやれ」と話して息絶えた。 ジャングルにはうじのわいた死体が累々と横たわる。出会った日本兵には「辱めに遭ったら日本の恥だ」と、自決のための手りゅう弾を渡された。「あのころ『死ぬな』と言ってくれたのは父だけだった」。めいに手を掛けた義姉と二人、海に入ったのは自然な決意だった。 投降した後、はぐれた母と弟には島内の捕虜収容所で再会できた。「あなた方に罪はない。国同士の戦いだから殺さない」との米兵の言葉に混乱して気を失った。 <戦車兵だった下田四郎さん(91)=相模原市=によると、民間人とのかかわり方は部隊によって異なった。「民間人に手りゅう弾を求められたこともあるが、私は断った。赤ん坊などがいると足手まといなのは確かで、だからこそ、巻き込まないよう民間人のいる洞窟は避けた」> 上運天さんも、「靖国の神となれ」と、日本兵から手りゅう弾を手渡され、七月七日の最後の総攻撃に加わるよう求められた。国に尽くすことを定めた「教育勅語」は国民学校で習い、そらんじている。「よし。何くそ」と勇んだが、別の少尉が「子どもは戻れ」と止めたので命拾いした。 マッピ岬の崖下で独り、落ちてくる人々を見て「死ぬ前にはぐれた家族に会いたい」という気持ちが募った。南へと歩き始めた七月十五日ごろ、米軍に確保された。「これを読め」。米兵にルビを振った紙を渡され、「日本の皆さん」と、投降を呼び掛ける役目を負わされた。 投降する民間人は、背後から日本兵に撃たれることもあった。米軍に協力したと逆恨みされれば「自分もジャングルにいる家族も殺される」。今や、日本兵も怖かった。 「戦争は人を狂わせてしまう。命を大切にしなさい、と言われていれば、誰も集団自決なんてやらなかったはずだよ」 ◇ バンザイクリフから飛び込んだ杉浦昭子さん(84)は弟の菊地宏さん(79)=東京都八王子市=とともに、米軍の小型船に引き上げられた。父の士憲(ただのり)さん=当時(53)=は波間で亡きがらとなっていた。 船上、米兵の一人が突然ランニングシャツを脱いだ。「何をするんだ」。警戒する昭子さんの前でそれを水でゆすいで裸の宏さんに着せ、ぶかぶかなので肩で縛ってくれた。「まるでドレスみたいだった」。死より恐ろしいはずの「鬼畜米英」の優しさ。これまで受けた教育を初めて疑問に思った瞬間だった。 捕虜収容所では米兵が子どもの遊び相手になってくれた。「戦争はやるかやられるかの局面を脱し、六分か七分の勝利が見えて初めて理性が戻るのだろう」。人々の間からは「何も死ぬことなかったね」との言葉も漏れた。 人を狂気に駆り立てる戦争や紛争は今も世界で続く。杉浦さんは八〇年にサイパンを訪れた際、短歌に願いを込めた。 逃れきて 命を絶ちしはらから(同胞)と 共に祈らん 戦なき世を (安藤恭子) <サイパン戦> 1944年6月15日、米軍が日本統治下のマリアナ諸島・サイパン島に上陸。民間人も巻き込まれ、太平洋戦争の激戦地の一つとなった。米軍は7万人超の兵隊が地上戦に参加。艦砲射撃や飛行機による攻撃も加わり、兵力、武器とも日本軍を圧倒。7月7日に組織的戦闘は終了し、米軍は9日、占領宣言した。日本軍の死者は4万3000人に上り、東条英機内閣は総辞職に追い込まれた。テニアン、グアム両島も相次ぎ陥落したことで日本のほぼ全土が、B29爆撃機の攻撃圏となり、日本の敗北が決定づけられた。 PR情報
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