思い返してみれば物心ついたころから孤独感や寂しさというモノがいつも私の心の中に存在していて、何をするにもそのモノは私にひっついて離れなかった。
今私は快晴の空のもとにいる様な思いだ。日々が充実している。疲労感すら今の私には喜びを与える。孤独感は癒え、さみしさからも解き放たれている。それは開き直りとかそういうことではなく、私自身が孤独やさみしさを受け入れることができたからだ。
こんな視界の良い場所に立てるなんて昔は想像もできなかった。
不幸であることが当たり前のように思っていた。事実として不幸な出来事は確かにあったのだが、それよりも私が私のことを不幸だと思いこんでいたのだ。
見えるか、昔の私。今私はこんなに気持ちの良い場所で生きている。
人を不幸にするのは何なのだろうか。
出来事だろうか、思考だろうか。はたまたそれら全ての要因が重なりあった何物かであったのだろうか。
私は私の不幸を自分自身が生み出していたように思う。
不幸せだという思考が不幸せな行動を生み、結果不幸せな出来事を引き寄せていたのだ。
自分の不幸な気持ちを受け入れることができるようになり、自分はこれでいいのだと最近では思うようになった。悩むことも幸せだ。自分を成長させてくれるならば、そう自分が悩んでいけるならば、こんなに幸せなことはない。
ようやくスタートラインに立ったような気持ちだ。今までの私の思い、行動はそのためのウォーミングアップだったのではないか?そのおかげで私は幸せを受け止められそうだ。ありがとう昔の私。
自分が幸せなんて嘘みたいだ、信じられない。こんなに満たされた思いになれるとは思っていなかった。
今までにはなかった思いで父の命日を受け入れることができそうな気がする。悲しまなくなることはきっとないけれど、それを超えた何かを得られそうな気がする。命日には今の私の思いをありのままに記そう。今がそのタイミングなのだろう。
私の止まり木になってください